第二十七話(前編) 北極大陸へ舵を取れ
人類が月や金星、さらに時間障壁まで到達してもなお、北極は足を踏み入れ難い場所だった。
北極を難所としている理由は多すぎて、数える指が足りないほどだ。
まず冬は極寒、夏はクラーケンの群生地。
エーテル濃度の高さと磁場のせいで、【幽体離脱】の事故率が異常に高い。
北極の周囲に先住しているのは、血縁以外は信じない排他的な海の民。
他にも理由はいろいろある。
だけど最大の理由は、オーロラ。
オーロラはエーテリック領域の裂け目から、精霊とエーテルが降りそそぐ現象だ。
精霊が狂っているため四属の加護が薄くなったり濃くなったりして、魔術の発動が困難になっている。
四属魔術を使ったら不発か暴発、その二択。
魔術不可の極寒フィールド。
全員の視線が、地球儀の北極へ集まる。
「突拍子もない仮説ですね」
しばらく続いた沈黙の中で、モリオンくんの呟きが掠れていく。
「それほど荒唐無稽ではあるまい。獣属性魔術は使えるのだからな」
「たしかに普段は【屍人形】と【蜘蛛】さえ使えれば、それで十分ですが……」
「以前からオプシディエンヌのアジト候補として、思いついてはいた。決定的な問題がひとつあるため発言を差し控えていたが、北極大陸は最適だ。邪竜に挑み、倒したところで、荒廃しきった屍の大陸だけになってしまう。コレクションしていた魔術素材やシャンパンは、邪竜ではない大陸に確保しておけばいい」
ラーヴさまではない大陸か。
「対魔術師からの潜伏、および対邪竜戦後の保管庫。その二点において、北極は最適だ」
理論的にはそうだろうな。
むしろ机上の空論って感じだけど。
「決定的な問題って何さね?」
「オプシディエンヌは生存できるが、居住する場所がない」
単純な答えだった。
「あの魔女、たとえ寓居であろうと雪かまくらや掘っ立て小屋で満足するはずがないからな。シャンパンの泡も弾けず、花も咲かず、鳥の囀りも無い地で、あの女が過ごすはずがない。だから思いついただけで発言しなかった」
なるほど。
確かにオプシディエンヌが掘っ立て小屋で、焚火に手を当ててるの想像してみたけど、ギャグ特化の二次創作みたいだな。
「だがオプシディエンヌは、魔法空間『図書迷宮』の制御に成功している。ミヌレの魔法空間が宇宙でも生存域を保てたように、『図書迷宮』によって居住域が広がるなら十分に可能だ」
そもそもアトランティス時代では、魔法空間を召喚して住んでいた。オプシディエンヌだって、『図書迷宮』を居住に使っていてもおかしくない。
スティビンヌ猊下もわたしと似たような結論に達したのか、思案するように視線を彷徨わせた。
「それなら北極に居座っても不思議じゃないさね」
「本気で行くおつもりですか?」
モリオンくんの問いかけに、先生は頷く。
「きみの調査は不完全とはいえ、綿密だ。信が置ける。なら最後に残された空白地に赴くだけだ」
モリオンくんは瞬間、目を見開いた。悔しそうに唇を噤み、そっぽ向く。
拗ねている顔だ。
先生に認められて、なにを拗ねているのかしら?
嫌いな相手に信用されると、それはそれで不快なの?
「赴くだけって、どうするさね? 魔導航空艇だろうが【飛翔】だろうが、北極圏じゃ魔術の安定は望めないさね」
スティビンヌ猊下が問うと、ノックが響き、扉が開いた。
ディアモンさんだ。質問をまとめた書類なのか、冊子を抱えている。
隻眼の焦点は、ディアモンさんへ結ばれた。
「刺繍遣い。北極圏で空飛ぶ絨毯は安定するか?」
「極寒地の海面を飛ぶのは、想定外よ」
そうだろうなあ。
あれは砂漠の乗り物だもの。昼夜の寒暖差はあったけど、北極ほど冷え込まない。
「ニック。突然そんな質問するってことは、オプシディエンヌの潜伏先が北極だって判明したの?」
「いや、可能性として高い。北極には魔術師が立ち入れないからな」
「立ち入れないことはないわよ。もうずいぶん昔の話だけど、連盟は北極探査したことがあるのよ。一度だけ。アタシもパリエト師と姉弟子のアルマーザ魔術師から伺っただけで、詳しくは知らないけど資料は残っているはずよ。探査の折に飛行実験しようと持ち込んだけど、そもそも実験さえ出来なかったらしいわ」
「第一次北極探査さね」
スティビンヌ猊下が何か思い出したみたいだった。
「連盟は北極まで遠征したことがあるのか?」
「北極探査が失敗した報告書があるさね。書庫のどっかに埃かぶってるさよ。どこだったさね?」
「場所なら存じています。修復不可能の空飛ぶ絨毯が保管されていますから、パリエト師門下で管理しています」
「ちょっと見に行くさね」
ぞろぞろと連れ立って書庫へと向かう。
広い廊下は乳白色の円やかな光を放っていた。いくつかの扉を通り越し、さらに奥へと進む。
「ここは禁書庫に近いが、マスターキーを持ってるのか」
「入室申請していないけど、象牙の塔の防犯システムを構築したのはあたしさね」
スティビンヌ猊下は袖口から磁石と、何か護符を取り出した。扉を磁石に当てて、そのまま上へとスライドさせ、護符を鍵穴に押し当て回す。
「職務倫理も無い行為ですね」
「娑婆にいられる程度には弁えているさよ」
自信たっぷりウインク付きで発言してくれたけど、心の底から疑わしい。
先生に比べたらマシなのか。
堅牢な扉が、簡単に開いた。
七賢者のひとりが横紙破りしていいのかと思ったけど、象牙の塔に殴り込みかけたわたしが言う権利は無さそうな気がした。
扉の開きと連動して、室内の天井や柱に埋められた【光】の護符たちが灯る。薄い紗のかけられた【光】の冷光は明るくないけど、目に負担かからないようにしてある。
「北極遠征の資料の棚はここよ」
ディアモンさんが奥の棚を指し示した。上段には書類が詰められ、下段にはトランク型の木製ケースが並んでいる。
先生が真っ先に資料を繙く。
「遠征したのは、アタシもまだパリエト猊下に師事していなかった頃よ……当時はカルトン共和国は開拓半ばだったから、コーフロ連邦の最北から出立しているわ。丁度、ジョワイヨー3世が崩御した日だったら、60年くらい前ね」
「崩御は1550年の葡萄月の30日だ」
即答したのはクワルツくんだった。
へえ。ジョワイヨー3世の命日って、クワルツくんの誕生日と一緒なんだ。
ディアモンさんの指示でクワルツくんが、ひとつケースを引っ張りだした。真鍮の留め金を開く。
中身はずたずたになった糸の塊だった。
空飛ぶ絨毯と転移絨毯、その二枚が切り裂かれている。
千年前の絨毯工房で見たいちばん酷い絨毯より、もっと無残に千切れ、汚れ、色褪せていた。
切られたというより、虫食いに似てる。でも北極に衣蛾はいないよね。
「他の探査団の服も、その横のケースに入っているわ」
クワルツくんが開ける。
フード付きの上着だ。胸のあたりが引き裂かれている。
珍しい質感の布地だな。革にしては薄いけど、紙ではない。長細い帯状のものを縫い合わせている。
「人魚の腸を縫って造った防水着よ。珍しいでしょう。ミヌレちゃんは喋らずの島という地方を知ってるかしら?」
「立ち寄ったことがあります」
懐かしいな。
人魚を狩って暮らしている島だ。人魚の魅了の歌に抗うために、島民の何割かは耳が聞こえない。そのため喋らず手話で会話する。だから喋らずの島って呼ばれている。
「そこの出身の魔術師が仕立てたらしいの。喋らずの島では、人魚の腸を固く縫い合わせて、防水着を作るそうよ」
人魚の肉を食べて、脂から蝋燭、骨から石鹸、皮から膠を作っていたけど、防水着まで作るのか。
余すところなく活用するんだなあ。
「こちらが有角獣アマルティアの革の防寒服よ」
真っ白い革だ。
まだ呼吸しているみたいに、革に弾力がある。瑞々しいって言っていいくらいだ。
「今じゃ完全に国際法違反なシロモノですね」
「そうね。でも山羊革みたいに耐久性があって水に強く、羊革みたいに保温性に富んでいるの。これ以上ない装備よ。北極探査は十分すぎる準備と、入念な計画で実行されたわ」
「結果、北極到着初日に死者十七名、重傷者三名」
先生が呟く。
分厚い報告書なのに、目を通すのが早い。
「検死報告からして、一晩で衣服ごと爆ぜていたのか。この死体はまだ保管されているか?」
「いえ、検死後に埋葬されているわ」
「勿体ない。ヘルメス気密錬金瓶に保管しておけ」
言い放たれた内容に、膚が粟立つ。
覚悟と希望を抱えて北極に旅立ち、志半ばで亡くなった魔術師たちだ。弔いもせず瓶詰めにしろと言うのか。
悍ましさに言葉を失っていると、スティビンヌ猊下が口を開いた。
「オニクス。娑婆にいられなくなる発言は控えた方がいいさね。あたしもそんなこと言って、テュルクワーズに怒られたさよ」
同類かよ。
知ってたけど。
「人権がある遺体は、丁重に扱わなければいけないのは知っている」
知っているんだよな。
じゃあ実践しようよ。
今更ここで諭しても仕方ないので、わたしは北極調査の結果へ意識を戻す。
原因不明で、最高レベルの魔術師たちが全滅した。
四属暴発するのは分かっていて、魔術を使うはずがない。
「未発見魔獣が存在するんでしょうか」
「遺留品から魔獣の痕跡は発見されなかったわ」
反証したのは、ディアモンさん。魔獣の毛なり鱗なり付着していれば、手入れしているディアモンさんが気付くものな。
「では殺人事件が起こったのではないか?」
クワルツくんの仮説に、首を振るスティビンヌ猊下。
「魔術師が魔術師を殺したいほど憎んでいるなら、相手の論文か収集物を火にくべるさね」
スティビンヌ猊下が恐ろしいことを言い出した。
たしかに殺されるより、研究ぶち壊された方がダメージが大きそうである。
「単純に考えて精霊濃度によりサイコハラジック特異体質が底上げされて、魔力暴発が誘発されたのではないか? 暴走だとすると範囲展開制御ゼロだろう」
「ブッソールもその仮説を出していたさね」
通常では確認できないくらい弱いサイコハラジック特異体質でも、北極という精霊狂乱地では暴走をしてしまったということか。
魔法暴走による事故か。
「とはいえ再調査も再実験も危険過ぎるさ。これ以後、北極探査は凍結したさね。ブッソールが連盟に入った時に北極探査を持ちかけられたみたいだけど、金星を選んださね」
北極大陸と金星を秤にかけられるって凄いな。
ブッソール猊下がご存命なら、北極大陸の調査も進んだかもしれない。あの方は真の冒険家で、卓越したサイコハラジック特異体質者だったもの。
「ではエグマリヌ伯爵令嬢はどうやって行ったのだ?」
疑問を呈したのは、クワルツくんだった。
マリヌちゃんは前の時間軸で、【絶対零度】を持っていた。
あれは北極の氷が魔術インクだもの。
「マリヌちゃんに前の時間軸の記憶はないですよ。ああ、でもレトン監督生ならご存じかもしれません」
「静養しているところへ押しかけるなど、気が引けるな」
レトン監督生はオプシディエンヌのせいで、魔弾を受けてしまった。象牙の塔で集中治療を行った後、実家に戻っていると伺っている。
先生は大事な存在に対しては、わりと気を遣うタイプ。
「逆に先生が顔を出したら、監督生の回復が早くなるのではないでしょうか」
「何故?」
推しだからだよ。
なんといっても推しは、生命を活性化させて、寿命を延ばす。そういうものだ。
「とにかくお見舞いに行きましょう」
ちなみにレトン監督生へのお見舞いに、お菓子もお花も厳禁。匂いだけで気分が悪くなるから。
とはいえ書物の差し入れも禁止。目を酷使してしまって回復が遅れるから。
最適選択肢は、エシェックの相手。
「エシェック盤を指せば気晴らしになるでしょう。レトン監督生と対等に指せるのは、先生くらいじゃないですか」
わたしたちはレトン監督生のお見舞いに、地球へと降りた。




