第二十二話 強くてニューゲーム
ひび割れたエメラルド牌に銃声が反響した。
魔導銃による狙撃が、オプシディエンヌの指を撃ち抜いていく。
すでにモリオンくんは間合いを広げ、群晶の物陰でオプシディエンヌに標準を定めていた。
振り返ろうと身を捩るオプシディエンヌ。
「モリオン! あなた、母親を裏切るの!」
「ハァ? ご冗談を。閨狂いのママンなんて要りませんよ。さっさと死んで骸を晒してください」
嘲笑込めた宣言だった。
「悪い子ね」
「なんとでもご自由に。あなたの良い子になるなんて、まったく反吐が出そうですよ。だいたいですね、あなたがこれから何をしようとしているか、知っているんですよ。ボクを喰らって回復するつもりでしょう」
モリオンくんはとっくにオプシディエンヌを吹っ切っている。十二年という歳月は、悍ましい実母を見限るに充分な時間だった。
「しかし11歳の肉体って扱いづらいですね」
そうボヤキながら子供の手で、次弾を装填していく。
23歳から11歳に戻ったら、たしかに自分の手足でも扱いづらいだろうな。
わたしも身長が縮んで違和感があるけど、モリオンくんはその比じゃない。208センチだったのに148センチに低くなったんだから。
「吾輩は両手が戻って、至極、万全!」
オプシディエンヌの死角から、クワルツくんが風を切って突っ込んだ。勢いよく手甲で糸を弾き、オプシディエンヌに接敵する。
指を欠いたオプシディエンヌの糸は鈍っている。
「ハッハッハッ! 命運尽きたようだな、オプシディエンヌ! 抵抗は無駄と知れ!」
「く……ッ!」
オプシディエンヌはクワルツくんの拳とモリオンくんの魔弾を躱すのに、手一杯になっていた。
指を欠いただけじゃない。黒髪や糸には艶がない。
法王聖下の『光輝聖堂』を喰らった後なんだ。先生の脹脛がまだ怪我を負ってないから、寮母さんの暴走前だな。
エグマリヌ嬢がわたしを支えくれる。
「ミヌレ、負傷かい?」
「もっと………アルケミラ雫を」
なんとか吐いた言葉に、エグマリヌ嬢が異常事態だと察してくれた。ほぼ魔力が無限に等しいわたしが、魔力切れを起こしているんだから。
素早くアルケミラ雫の栓を抜いてくれる。
喉を潤せば、魔力が回復してきた。
「啼け、我は獣」
神化の呪文を唱えれば、錫杖の遊環が歌うように輝く。
「わだつみあまつち統べる獣」
背が、四肢が、髪が伸びていく。
「角を宿して、魂清め」
山羊の前脚が生える。
「尾を靡かせ、星泳ぎ」
人魚の尾が翻る。
「汝を愛して殺すもの 【磨羯神化】!」
上半身も二十歳ほどに変化する。
ゼルヴァナ・アカラナとなったわたしに対して、オプシディエンヌの唇が結ばれた。それは怒りめいていたけど、嗤いにも似ていた。
「時空母神………妾の横に並んでも遜色ないわね。時属性の魔術の研究と引き換えに、休戦してあげてもいいわ」
「今更、休戦協定?」
「あなたは勝利できるかもしれないけど、犠牲は少ない方がいいでしょう?」
錯乱している寮母さんや、気絶して血を流しているレトン監督生のことか。
「時を巻き戻せるわたしに対して、愚かな提案ですね」
簡単に巻き戻せやしない。
それでもモリオンくんを虐げ、クワルツくんを操って、オニクス先生を犯した邪淫の蜘蛛と、手を結ぶわけないだろう。
「そもそも和平だの休戦だの、あなたがそんな発想するわけがないでしょう。その脳髄にあるのは、支配と欲望だけ。あなたはただ、休戦という嘘でわたしを喰いたいのでしょう。永遠を生きるために」
悠久の時を、誰とも手を取らず、それどころか踏み躙って生きてきた蜘蛛。
わたしを最高の餌だとしか思っていない。
餌を肥やすことを、休戦と呼んでいるだけだ。
「あなたはここで終焉するのよ、オプシディエンヌ。いいえ、聖娼ネフィラ・ジュラシカ!」
「妾は終焉などしない! 永遠に世界を愛するのよ!」
オプシディエンヌは指先を振る。
瞬間、エルメラルドの粉塵が消えた。
貴石も鉱床も群晶も、瞬く間に無くなってしまう。
オプシディエンヌが『図書迷宮』を魔法空間へ召還したんだ。
わたしたちは空中に投げ出された。
碧の闇から、茜の空へ。
わたしは落下しながら【浮遊】を詠唱する。
展開領域は最大範囲だ。エグマリヌ嬢とクワルツくん、気絶してるレトン監督生、傷ついた寮母さん、それからモリオンくんをフォローしなくちゃ。
オプシディエンヌの糸がわたしへと絡みつく。
わたしを捕獲して、モリオンくんの代わりに喰らうつもりか。
オニクス先生が【飛翔】してくる。
「我は火の恩恵に感謝するがゆえに、天へと逆巻く羽ばたきを賜われ 輝きを、熱きを、いまここに纏う」
詠唱しているのは【焔翼】?
風属性の制御中に、火属性を唱えるなんて死ぬぞ。
「【焔翼】」
風と火が絡んで、膨らみ、火の粉が撒き散らされた。
半ば暴走した炎を纏いながら、わたしを抱き締めて、隕鉄のクリス・ダガーを押し付ける。嵌められている柘榴の護符が煌めき、火の守りがわたしを包み込んだ。
「先生っ!」
これじゃ先生が火傷を負ってしまう。
「私は死んだはずだが………」
棚引くマントの黒と炎の朱は揺れて、声も困惑に揺らいでいた。
先生はまだ事態を把握していない。それどころか死んだはずなのに、意識が続いているから混乱しているんだ。でも兎に角わたしを護ることを、最優先にしてくれた。
だけどやり方が極端すぎる。
「ミヌレ。じっとしていなさい。蜘蛛の糸を焼き尽くすためだ」
「駄目です! 先生の皮膚も肺腑も焼き尽くされますよ」
「きみを守るためなら、至福だ」
暴走していく【焔翼】。
ああもう聞き分けのない男だな!
さっさとオプシディエンヌを何とかするしかない。
わたしの【浮遊】より一拍早く、エグマリヌ嬢の詠唱が結ばれる。
「【氷壁】っ!」
遥かな上空に生じた氷たちを、クワルツくんが蹴って上へ跳ねた。暮れる夕陽に逆らうように、昇っていく。
目指す先には、オプシディエンヌ。
オプシディエンヌは黒髪を乱し、黄金に輝く糸を纏いながら、雲路の果てへと去っていこうとする。
以前みたいに不死鳥フェニックスで炎を啄めないからな。不死鳥はモリオンくんが抑えている。
また逃げを打つか。
「逃がさんぞ!」
クワルツくんの絶叫は届く。
だけど伸ばした指先は届かない。
【氷壁】の足場が途絶える。
落下していくクワルツくん。
わたしの【浮遊】の展開範囲より遠い。
エグマリヌ嬢の【氷壁】も届かない。
クワルツくんが土の加護に引っ張られて、豆粒みたいになっていく。
「先生、クワルツくんが……っ」
呼びかけたけど、炎のせいで意識が半分以上は飛んでいる。
しっかりわたしを抱き締めたまま、【焔翼】と【飛翔】を保っていた。
根性は凄まじいけど、このままじゃクワルツくんが地べたに叩きつけられてしまう。いくらなんでもこの高高度だと死ぬ。
「【焔翼】を解いて下さい!」
一匹の飛竜が、弧を描いて下降する。クワルツくんを掬い上げた。
『図書迷宮』を包囲していた教会の聖竜騎士か。飛竜によって、みんな回収されていく。
いつの間にか【焔翼】が解かれていたけど、世界は赤いままだった。
夕暮れが、雲海を彩っている。
いや、彩るとか染めるとかって形容より、燃やしているって表現したほうがぴったりかもしれない。それほどまでに夕陽は苛烈な光と彩を齎していた。
魔導航空艇は暮れる空と共に燃やされたみたいに、どこもかしこも損傷している。
外壁はぼろぼろだったけど、飛竜に跨った聖竜騎士たちに守られていた。飛竜の翼が紡ぐ風の魔法が、気流を揺らがせている。【飛翔】の構築まで震えるほどの魔法だ。
「オニクス先生、魔導航空艇に戻りましょう」
朦朧としている先生の火傷を、キスで癒しながら囁く。
吹き飛ばされないように、急いでハッチに着地する。
魔導航空艇に迎え入れられ、青白い冷光が満ちる部屋に入った。
ディアモンさん。それから元司祭のテュルクワーズ猊下と、その護衛のイヴォワールさん。
懐かしい顔ばかりだわ。
寮母さんとレトン監督生を折り畳み式ベッドに寝かせれば、テュルクワーズ猊下が治療を始める。ここにはディアモンさんのための治療器具や錬金薬が揃っているから、一安心だ。
安心以上の温かい気持ちが沸き起こる。
オニクス先生が生きている。
それからエグマリヌ嬢も。
わたしの大切なひとたちが、わたしの傍で生きているんだ。
ほっとして【磨羯神化】が解ける。わたしの輪郭が子供に戻った。
ちんまりとした手をまじまじと見つめる。落ち着いてみるとなんて小さい指。わたしはこんなに子供だったのね。
「ミヌレ……きみは一体何を仕出かした? 私は一度死んだはずだ」
背後から先生の詰問が刺さった。
問いは短いけど、肺腑に釣り針が引っかかったみたいだ。このまま黙っていたら、肺腑ごと引きずり出されてしまいそうだった。
ほっとするのはまだ早かったみたい。
「強くてニューゲームという感じですかね」
「さっぱり分からん」
わたしの説明を、先生は無慈悲に切り捨てた。
だろうな。
「分かるわ」
横から入り込んできた野太い声に、視線が集まった。
ディアモンさんは視線を手元に落としたまま喋る。刺繍している時の真剣さだけど、その指先は固まって、虹彩に明るさは一切ない。
「うすらぼんやりした記憶があるのよ。これから先の」
ホモ・サピエンスに義肢ライカンスロープした指先が、そっとチューブを撫でる。
「この大量のチューブとつながった魔導機械が、車いすくらいに小型化されて………アタシはそれごと移動できていたの。未来予知にしては、五感に名残りがあるわ。断片的な記憶だけど、確かにアタシは自由になった」
虹彩に一片の輝きが戻ってくる。
「時間を戻したのね、ミヌレちゃん」
「馬鹿な。そんなことが人の身で出来ようはずがない!」
先生が叫ぶ。
金属質の壁さえ震わす絶叫だった。
信じられない。いえ、信じたくないのかもしれない。
時間への関与は、ラーヴさまが禁忌だとおっしゃったことだもの。
どう説明しようか考えていると、重たい扉が開いた。
スティビンヌ猊下だ。
それほど表情豊かではないはずの魔導ゴーレムの肉体が、凄まじく不機嫌そうな空気を放っている。頭を抱え込んで、硝子の眼を忙しなく動かしていた。
「誰か、あたしの発明を書き留めてほしいさ………ッ! 湧き上がって湧き上がって、もう狂いそうさ」
「アタシが書き留めます」
ディアモンさんが身を捩って寝台机に手を伸ばし、フルスキャップ紙とインクを用意した。鵞ペンにインクがつくより早く、スティビンヌ猊下は口を開いて発明のアイディアを喋っていく。
稀代の天才魔導発明家の十二年分だ。
発明が一気に降ってきて、オーバーヒートしているんだろう。
スティビンヌ猊下は鬼気迫る眼で、発明を喋り続けた。
圧倒的な発明の奔流に、先生が息を呑む。
スティビンヌ猊下の喋り声だけが響く中、レトン監督生が目を醒ました。熱に浮かされた真鍮色の瞳は、緩慢な動作で周囲を映す。
「マリヌが若い………」
傍らのエグマリヌ嬢を目に映し、一拍後、瞳の焦点が定まる。
レトン監督生は未来の記憶が残っているのか。
闇属性の高い魔術師が、未来を覚えているっぽいな。
「オニクス先生! 時間が戻ったんですね!」
レトン監督生は途端にふらつく。己で発した歓喜の大声に、ダメージを受けたんだ。顔色悪くしてまた伏せる。
そして先生はようやく、わたしが時間を戻したのだと呑み込んだみたいだ。
顔色が悪い。レトン監督生より青白くなっている。
「なんてことを! 我が師がお許しになるはずがない!」
「あのお方は未来のわたしが説得しています。おそらく大丈夫でしょう」
「大罪だぞ!」
「すべて承知しております」
黒い隻眼にわたしが映っていた。
重苦しい沈黙の中、開きっぱなしの扉から竜騎士が姿を現した。
「申し訳ありません。魔女オプシディエンヌを取り逃がしました」
「逆に言えば、完全に安全というわけか?」
「はい」
竜騎士に肯定された瞬間、クワルツくんが床に座り込んだ。
ずっと虚勢張らせていたものな。申し訳ない。
「大丈夫ですか、さすがに体張った演技は疲れますよね」
「ハハハ………腰が抜けたぞ」
「迫真の演技でしたよ。あそこで追いかけたのが良かった」
クワルツくんに手を貸したのは、モリオンくんだ。
わたしたちだけが分かってる状態に、先生たちは首を傾げる。
「まさか終焉させるとか啖呵切ったのは、オプシディエンヌの逃走を促すための嘘か?」
「はい」
わたしはすっぱり肯定した。
「もちろんあなたの死を避け、オプシディエンヌを抹消する方法はあります。ですがその呪符がない。オプシディエンヌに勝てないと思わせて逃がし、その呪符を手に入れてもう一回殺すという計画です」
強気の態度はハッタリである。
攻略情報はあるけど、攻略アイテムが手元に無い状態だったもの。
クワルツくんかモリオンくん、どちらか離れたところにいれば、オプシディエンヌを殺せる攻略アイテムを持ってきてもらえたのに。
「ご安心を! オプシディエンヌのアジトは、時間を戻す前に調べ尽くしてあります」
朗々と言ってみたけど、調査したのはわたしじゃなくて、モリオンくんだ。
彼は魔術の素材を集めながら、世界各地にあるオプシディエンヌの隠れ家や隠し財宝を探り当てていた。
「わたしの旅行鞄の隠し底に、調査結果を入れております。今度こそオプシディエンヌを殺して、生き残りましょう」
先生の口許が、陰惨に歪む。
「……いらん仕事だな。死んだままでよかったのに。オプシディエンヌも、私も」
隻眼が逸らされ、背が向けられた。
予測していたことだ。
化け物だと拒絶されても、罪人だと侮蔑されてもいい。
血迷った末期の願いでも、あなたの口から紡がれた望みはすべて叶えたかった。
これはわたしの我儘。
モリオンくんが何か言おうと踏み出したけど、クワルツくんが肩で遮りながら手話する。あれは「やめろ」って意味の手話だ。渋々とモリオンくんが引っ込んだ。
黙っていなかったのは、ディアモンさんだ。
「ニック、それはあんまりにも………」
「私は戦場で死にたかった!」
叫ぶや否や、呪符をひとつ外した。
虹色に煌めくダイヤモンドインクルージョンのダイヤモンド。わたしの【星導】だ。
「ミヌレのために殉じれたら、私は幸せだった!」
癇癪じみた所作で呪符をディアモンさんに投げた。
転がり落ちかける【星導】を、ディアモンさんの手のひらが受け止める。
「本当に死んだ方が幸せでしたか?」
問いかけると、先生は息を呑んだ。
隻眼の黒さが滲む。
泣いてしまう直前の瞳だった。
「ミヌレ、すまない。今のは癇癪だ。見苦しく幼稚な癇癪だ。ただ……私のために、きみは贖いきれん罪を犯した……きみと生きたかったが、きみに罪を犯させたくはなかった」
項垂れたまま、扉を開ける。
「しばらく独りにしてくれ」
扉を閉める音が、わたしの鼓膜にいつまでも残った。
先生が投げ打った【星導】は、幽体離脱しすぎても瞬時に戻ってこれる道しるべ。
外したのは、わたしへの拒絶だ。
傍にいてほしくないのだ。
「あの態度はなんですかね」
モリオンくんは結ばれた唇を解くや否や、刺々しい文句を吐き出した。クワルツくんは腕組みしたまま、肩を竦める。
「ミヌレくんに罪を犯させて心苦しいのだろう。それは分かるが、癇癪は気に食わんな」
わたしの十二年に付き合ってくれたふたりは、閉められてしまった扉を睨む。
ふたりは不服そうだけど、わたしは幸せだった。
傍にいさせてもらえなくても、先生の命が続いている世界なら、わたしの歩んだ十二年は報われたのだ。




