幕間 オニクス
オニクスの半生は主観と客観で、大きく乖離していた。
客観的に見れば、彼は臨時徴兵された初陣で、片目を失って生死の境をさまよった。
生き延びた後に驚異的な勘と度胸で、敵を打ち果たしていったのだ。
だが主観では、そうではない。
生死を彷徨っていた彼は願った。
戦争という幸運を逃がさないため、どうすればいいか。
やっと剣とパンが手に入ったのだ。敵と戦える力と、腹を満たすもの。戦争のおかげで、奴隷の運命から逃げられる。二度と奴隷に戻りたくない。精魂尽き果てるほど働いたあと、心無い愛想笑いをしなければ、鞭が降る。
生きたい、生きたい、生きねばならぬ。戦場で生きればもっともっと手に入る。パンも、肉も、服も、靴も、知識も、権限も。どうすればこの戦乱を生きられる。敵はどこからくる。どこへ行けば助かるのか。戦術も戦略も知らぬ己が、どう戦えばいい。誰を殺せば、誰を信じれば、未来へ繋がるのか。
過去への決別、現在への肯定、未来への渇望。そして人間としては桁外れの魔力が、多重予知を生み出した。
夢の中、彼は芝居を見ていた。
平和な世界で、週末に芝居小屋に通っていた。
繰り返し上演される『隻眼のオニクス』の戯曲。
あるときは敵の大軍を防ぐため英雄的な殉死をし、あるときは天候で物資が閉ざされ飢え死に、あるときは徴兵たちの反乱に巻き込まれ死んだ。十三度目の開幕によって、ようやく『隻眼のオニクス』が生きて英雄となる劇が上演されたのだ。
多重予知の終幕。
そのときすでにオニクスは、狂っていた。
仮想世界の芝居に通っていた己を現実だと信じ、戦場という戯曲の世界に入り込んでしまったのだと思い込んでいた。
狂気を宿したまま戦争を勝ち抜き、宮廷に居を許された。芝居はそこで完結していた。オニクスの予知限界がそこまでだったのだ。それゆえにオニクスは、宮廷で暮らすことを結末だと認識していた。
さあ、これでハッピーエンド。
何をしても変わらない。
何をしてもいい。
だが戯曲の世界ではなく、現実だった。人生はまだ続く。欲しい儘にしてきたオニクスは増長の果てに敵を増やし、国王の崩御とともに宮廷追放の憂き目に遭う。
闇の教団を設立し、四年間、闇の魔術を研究し続けた。
あまりにも凄惨な過程を必要とする研究を続け、七賢者たちは討伐を決定した。
そして世界鎮護の魔術師の役を課せられたのだった。
この時点でも、オニクスはまだ狂っていた。
世界鎮護の魔術師になっても、現実だと認識していなかった。
彼が真実を理解したのは、課せられた役を果たす最中。
偉大なる魔法使いラーヴと出会ったのが契機。
その出会いが呪詛なのか祝福なのか、ラーヴにさえ判断できないことだった。戯曲、物語、絵物語の世界に入り込んだと認識してしまった多重予知者は、入り込んだと信じたまま死ぬからだ。
だがラーヴはオニクスを癒した。
発狂から、すでに九年。
狂気を癒された彼は、ラーヴを師として崇めた。
そして師の勧めによって、罪を償って生きることを決め、【制約】を科せられることを受け入れた。
『七賢者の命令に逆らうなかれ』
『呪符を増やすなかれ』
『自殺するなかれ』
幾多の【制約】を科せられて、戦士からふたたび奴隷に甘んじた。
それが彼の選んだ、贖罪であった。
オニクスはため息をついた。
「温泉、行きたい」
自分の呟きが、牢獄に谺するだけ。
鉄格子の牢獄だ。窓はない。そのせいで、湿って沈殿した空気は饐えて、朝なのか昼なのか模糊として曖昧。どこか遠くから時折、水雫の音がする。
ここは仮想空間だった。
魔術師に対する禁固は、肉体を封印した上で、眠りと五感を奪うことであった。
網膜には映らず、鼓膜は震えず、口腔も鼻腔も虚空、皮膚は無為。
その状態で眠ることも封じられるのだ。
普通の人間なら、あるいは取るに足らぬ魔術師であれば、発狂していただろう。星幽体に枷をかけて、五感を遮断して、星気面へと移動させないままにしているのだ。
オニクスは魔力を使って、意識のなかに牢獄を作った。
気が滅入る牢獄の空間を創り上げ、自我をそこに留めた。
その気になったら、贅の限りを尽くした王宮の広間でも、慣れ親しんだ職員棟の部屋でも、温泉だって具現出来る。だが、現在の自分の状況と解離していると、自我が狂いやすくなる。だからこそ牢獄を創った。
しかし、発狂しないことに意義などあるのだろうか?
賢者たちは死刑を執行しないが、死ぬまで肉体の檻に閉じ込めておく。どちらが残酷なのか。
「自業自得か」
牢獄の扉が開いた。
外部からの意識干渉だ。
賢者の誰かが話をしにきたのだろうか?
思ったより早かったな。
オニクスは顔を上げて、入ってきた人物へと焦点を合わせる。
「………ミヌレ」
牢獄の中、鉱石色の髪が輝いていた。
愛くるしい顔立ちに、人目を惹く髪の輝き。溢れんばかりに豊かな髪は、白鉄鉱、蝋石、珪石、あるいは水銀、角度によっては大理石めいた艶を靡かせている。この牢獄の中でも燦然としていた。
「オニクス先生。大丈夫ですか? わたしが絶対に助けますからね!」
天真爛漫な微笑み。
一瞬、本物かと見まごうほどに。
「誰だ?」
「ふへっ?」
小首をかしげる。
「悪趣味だな。化けるならもっと上手く化けろ」
「わたし、ですよ?」
可愛らしい仕草に、オニクスは鼻で嗤う。
「ミヌレはそんなまともな瞳をしていない。あの子供は多重予知で発狂している。眼窩に硝子玉を埋め込んだような悍ましい眼だ、なにを映しても現実だと思っていない狂った眼球だ」
嘲笑を込めて、口角を上げる。
「………あの狂った眼を模倣するのは難しいわね」
愛らしい唇から、美しいアルトが漏れる。
ミヌレを模していた姿が、蜜のように蕩けて変わっていく。鉱石色の髪が漆黒に染まり、白い膚は蜂蜜に色づいていく。少女の四肢はひこばえの如く伸び、果実めいて成熟した。
そこに佇むのは絶世の美女、オプシディエンヌ。
「オプシディエンヌ………久しぶりだな」
「あら? 驚かないの? 妾を殺したのは、貴方だというのに」
愛しい恋人と再会したように、彼の胸に寄り添った。
「妾は貴方に殺されてしまったわ。貴方と愛し合った臥所で、貴方を慰めた太ももを切り裂かれ、貴方を楽しませた胸を貫かれ、睦言と接吻を交わした首を刎ね飛ばされたのよ」
オプシディエンヌは歌うように、囀るように、囁いた。
膚も声も、すべて蜜の如く甘い。
滴り落ちる程の甘さに、オニクスは隻眼を細めた。
「ミヌレの予知に登場しない人物がいた。ミヌレの魔力に勝るとも劣らず、闇属性に適している存在だ。この世にそんな化け物、きみしかないな。【憑依】の魔術。完成させていたのか。総帥閣下」
寵姫オプシディエンヌ、否や、闇の教団の総帥オプシディエンヌは麗しく微笑んだ。
それは肯定の笑みだ。
「憑依先は、殿下だな」
問いに対しての答えは、言葉でなかった。
彼女の漆黒の髪は純白に転じ、プラティーヌの姿を装ったのだ。
「楽しかったわ。貴方ったら、妾の存在にまったく気づかないのだもの。あなたが教員になったから、妾も入学したのに」
「それはそれは滑稽だっだろうな」
「ええ、おかしくておかしくて」
無邪気に笑う。
そしてオニクスも嗤った。
「不老不死を求めての研究。それはいい。野望を叶えるために罪を重ねる生き方もある。だが不老不死なら、【羽化登仙】がすでに存在していたのだろう。きみは東方魔術にも精通していた。どうしてあれほどの犠牲を払って研究していた?」
「妾が妾であり続けるためよ」
オプシディエンヌは自身の姿に戻って、蠱惑的に微笑んだ。
「【羽化登仙】。東方魔術の最秘奥、妾も学んだけど、あの術はだめよ。あれは人を人としてたらしめる感情や欲望を切り捨て、不老不死となる術。妾は妾のなにひとつ捨てないわ。恋慕も愛欲も歓喜も懊悩も絶望も食欲も情動も憤怒も悲哀も慟哭も殺意も敬意も挫折も希望も、あますところなく妾のまま生きるわ」
「そのためにきみはまた犠牲の山を築くのか? 私のような男を破滅させながら。きみの研究に役立てるため、今まで何人、破滅させてきた?」
「女の過去を漁るのは、品の無いことよ」
蜜色の囁きに、オニクスは鼻で嗤う。
「私はきみが今まで破滅させてきた男のひとりにはならん。きみを私だけのファム・ファタールにする」
「素敵」
絶世の美貌に浮かべたのは、恍惚とした喜悦。
蕩けんばかりの微笑みで、オニクスを見つめる。
「足掻いてくれるのね。あなたの破滅と終焉は、きっと美しいんでしょうね」
「愛しい私の怨敵。必ず共に地獄に堕ちよう、オプシディエンヌ」
「楽しみね。愛しているわ、オニクス」
口づけをする直前、オプシディエンヌの姿が霧散する。
独りになったオニクスは、膝をついた。昏い望みを抱く胸を掻き毟る。
オプシディエンヌの姿を目にした瞬間、心が狂おしいほど高ぶった。一瞬、他のすべてを忘れるほどの愛憎。まさに彼女こそ、己のすべてだった。
闇の教団に君臨していた背徳の日々。
身の毛もよだつ研究をし、己の探求心を満たしていった。
不老長寿を餌にして富豪から金を吸い取ることに、なにひとつ罪悪感を抱かなかった。有り余るほど貯め込んでいるなら、金を有効活用してやれば世界は発展する。
救済だと吹き込んで農民を検体にすることに、なにひとつ疑問を抱かなかった。無学な人間など半家畜に等しいのだから、命を有効活用してやれば人類は進歩する。
倫理無き研究を、いつも理解して、肯定し、賞賛してくれたのは、オプシディエンヌだった。
なんと甘美だったか。
四年間の蜜月が忘れられない。
愛していた。
いいや、違う。
愛しているのだ、今でも!
狂おしいほどオプシディエンヌを愛していた。殺してしまえばもう心から切り捨てられると思っていたのに、殺めたあとは苦しみだけだった。会いたいと願うのはオプシディエンヌだけだった。
殺してから一年が過ぎ、また一年を重ねて、それからさらにまた一年、六年経っても忘れられる気配もない。ときおり夢に現れて、心を乱していく。もはや愛でなく未練かもしれないが、それでも強く強く想うのは彼女ただ一人。
これはもはや恋の奴隷、愛の家畜。
豚にならぬと決めて、人として生きようと覚悟し、それでも彼女が目の前に現れてしまえばすべて瓦解した。
「すまない………」
ミヌレを想う。
哀れなほどに狂っている少女。
傍らにいると、支えると、そう告げた気持ちに嘘偽りはない。
師ラーヴと交わした贖罪の誓いも、姉に生きると約束したことも、心からの真実。
「だが私は………彼女と、死にたい」




