最終節
脈打ちながら荒れ狂う溶岩色が凝り、巨大な翼となって羽ばたき、四肢となって伸び、尾となって跳ね、牙となって唸り、竜の輪郭へと結ばれていく。
わたしは今まで、溶岩色の瞳しか会ったことはなかった。
全身を露わにしたラーヴさまは、わたしの視界はおろか、知覚できるよりも広い。胸の中に満ちるのは、畏怖。
この御方に一瞬でも【睡眠】を通せるか?
いや、通さないと、時間を戻せない。
≪許されざることだ。それはけして許されざることだ。我が弟子から聞かなんだか、混沌の娘よ≫
「伺っております、偉大なる古き竜の御方」
わたしより膨大な魔力が、時間障壁を支配しようとしている。
相対しているだけで、こころが折れそうだ。
いっそこのまま膝を折って、頭を下げてしまいたい。
敗北の誘惑がわたしを押しつぶしてくる。
≪世界は過去と未来が円環となっておる。成体になりおおせたそなたなら、時の全貌を視れるだろう≫
「成体………?」
≪もしや気づいておらなんだか≫
ラーヴさまのお声は厳しいままだけど、僅かばかりの憐憫が含まれている。
≪異なことと思わなんだか? 第五人類は数十もの予知を繰り返せば、未来視か現実か判別できず狂う。まして千も繰り返せば、末路は廃人よ。自我があろうはずがない≫
だからわたしは人格が崩壊して、再編成された。
そう思っていた。
でも、本当に?
田舎に戻ってミカちゃんと両親に会った時、わたしの性格が激変していたら、もっとみんな訝しむんじゃないか。我がままになったとか、攻撃的になったとか、あるいは先生に洗脳されているとか、色々と言われるんじゃないか。
性格が変わったと指摘する家族はいなかった。
わたしは予知発狂で現実認識齟齬を起こしていたけど、人格崩壊までは至らなかったのか。
人類が千度の予知で廃人になってしまうなら、わたしは一体………
≪そなたこそ、この世界に誕生せし、最初の第六人類≫
「わたしが第六人類?」
さらに進化した人類なの?
以前、法王聖下がわたしを新人類と呼んでいたけど、それは第六人類を意味していたの?
≪刮目せよ、混沌の娘。そなたの眼は空間を視るためでなく、時間を視るためにあるのだ≫
万華鏡めいた輝きが、円環の象となる。
それは何十億年という時間の圧縮された姿だ。
万華鏡色の円環は、わたしを取り巻き、世界の創世から終末までを映していく。
完全なる無。
わたしの周囲は、何もない。物質だけでなく、法則も概念も存在しない。
これは宇宙が始まる前の光景だ。
虚無の一点が、煌めく。
あれは無限特異点。宇宙の卵だ。
無限特異点が爆発を起こし、時空間と原始精霊テイアが生まれた。
大いなるものの誕生によって、光が放たれ、闇が翳り、風が吹き、熱が生じ、塵が凝り、雫が散る。
何十億年もかけて四属性が安定し、惑星が生まれた。
原始精霊テイアはもう摩耗していた。
地球とまぐわう。
テイアは月をふたつ産み落とし、地球を取り巻いていく。
原始精霊は擦り切れ、散って、星幽気となって、地球を守るように揺らめいた。
さらに時が流れ、テイアの残滓から、無限に近い精霊が生まれた。
そのなかに自我宿す精霊たちがいた。
第一人類だ。始祖人類や原始人類とも呼ぶ。
さらに何十億と時が経ち、自我の重みを抱えた精霊が、北極大陸へと堕ちて受肉する。エーテルのマテリアル化現象だ。
十九億年前の北極は温暖で、肉体という枷を纏っても生きていけた。
第二人類。北極人と呼ぶ。
受肉した精霊は、性別や骨を持たず、膜がある液滴を皮膚から産卵して増えていった。
しだいに北極人以外にも、生命が誕生する。
どの生命も、争うことは無い。若い太陽の光を呑み、浅瀬の膜を舐め、泥流の沈殿物を啜り、海底の死骸を食む。あらゆる生命たちは、戦いという概念を知らず微睡むように生きて、眠るように死んでいった。
安らかな楽園だ。
だが、ラーヴさまが地球に降り立つ。
楽園は刹那のうちに壊滅した。
第一次大量絶滅。
だけどラーヴさまから散る鱗や涙を、楽園の生き残りたちは食み、進化する。
弱肉強食が現れた。
自分以外の生命を食べるという行為、食物連鎖という循環が、地球に誕生した。
食い食われる諍いを経て、生命は劇的に進化していく。
目を宿し、外骨格を纏い、鱗を生やす。
逃げること戦うこと守ること増えること、生命のかたちは爆発的に多様化し、加速していく。
ラーヴさまによって幾度か世界は滅びかけ、生き残りはさらに邁進し、そして生命が豊かになっていった。
第三人類。レムリア。
滅亡。
第四人類。アトランティス。
滅亡。
第五人類。ローラシア。
滅亡。
第六人類。メガラニカ。
滅亡。
最終人類。マゴニア。
地球が終焉してもなお、人類は精霊化して生き続けた。だけど宇宙そのものにさえ寿命は訪れる。
七番目の人類は、滅びを受け入れなかった。
大規模な移住を決意した。
魔術師たちのように月へ渉ったわけでもなく、アトランティスのように金星を目指したわけでもない。
移住先は、遥かな過去。
産まれたばかりの宇宙を目指したのだ。
時空転移という大掛かりな魔術を行うため、魔力と自我を統一し、ひとつの大きな意思となる。
その名は第七人類自我統一精霊テイア。
宇宙の創世から終焉まで、一瞬にしてわたしを取り巻き流れ込む。
最終人類が過去へ跳んだがゆえに宇宙が生じ、地球が生まれ、そして始祖人類が誕生したのだ。
終わりにして始まりの人類。
歴史は円環となって、一部でも毀せば世界はどうなってしまうのか分からない。
≪時間の箍を外せば、時間は奔流となって荒れ狂い、はじまりも消え失せるやもしれぬ。はじまりを欠いた時空がどうなるか、ワシにも視えぬのだ。ワシに視えるのは、因果律。律の外された時間は、もはや眼に捕らえきれぬ。だが最悪、人類どころかこの時間障壁内すべて消し飛ぶやもしれん≫
「存じております」
≪痴れ者が!≫
ただの一呼吸で、わたしのすべてが霧散してしまいそうだった。
錫杖を強く握り、吹き飛ばされないようにする。
一瞬でも気を抜いたら、消滅する。
≪聞け、混沌の娘よ。愛しきものを失った悲しみに都市を水没させようと、愛しきものを奪われた怒りに国家を火の海にしようと、好きにするといい。愛は死より麗しきがゆえに。されどそなたが因果律を崩さんとすれば、招かれるのは虚無。過去も未来もとこしえに失われるのだ≫
「いいえ、消滅させはしません。わたしは先生の願いを叶える!」
≪そなたでは力不足だ。たとえ無限にも等しき不可説不可説転の魔力を宿していても、それだけでは欠けておる。秩序を伴わない混沌に何が出来よう。虚無に等しきと知れ≫
秩序。
それは循環の秩序たる蛇のこと、先生のことだ。
時間を跳躍できたのも、砂漠でラーヴさまを眠らせたのも、オプシディエンヌを倒したのも、ふたりだから出来た。
わたしと先生、揃っていたから成し遂げられたんだ。
………では、独りでは無理なの?
わたし独りで時間を戻すことは、不可能なの?
≪時に干渉できる身となれば、もはや時間障壁に留まれぬ。因果律の内側に留まることは、そなたにとっても、時間にとっても不幸なことだ。ワシが時間の外へ、そなたを送り届けよう≫
駄目だ。
わたしは魔術を構築していく。
「我は汝を愛すがゆえに、呪を紡ぐ。汝こそ死に似ており、死からいのちを守りたまうもの」
熱気を持った吐息が吹き抜けていく。
ラーヴさまの溜息たったひとつで、わたしの構成は跡形もなく霧散する。魔力ごと散らされた。
≪どうあっても諦めぬ気か。ならばワシの力で、弟子の形代を作り授けよう。せめてもの慰めとするために≫
「嫌です!」
形代など要らない。
わたしは先生に会いたい。でも会いたいから時間を戻そうとするんじゃない。先生に生きてほしいからだ。
≪強情よな≫
ラーヴさまの吐息と共に、時間が濁流となって、わたしに押し寄せてきた。
宇宙の誕生から終末までの時そのものに、伸し掛かられる。
胸が潰れて、息が出来ない。
流れは混沌を増していくばかりだ。荒れ狂って、逆巻いて、わたしという異物を滅しようと叩きつけてくる。
負けられない。
たとえわたしが消滅しても、せめて先生を生き返らせなくちゃ。
「ミヌレ。あなたが消滅したら、オニクスの願いは叶わない。だってあのひとの願いは、あなたと生きる事なんですもの」
涼やかな声と共に、鴉色の影が伸びてくる。
そこにいたのは、わたし。
いや、正しくは『夢魔の女王』ゼルヴァナ・アカラナ。
銀のサークレットを冠して、鉱石色の髪を靡かせ、オリハルコンドレスを棚引かせている。そしてその顔には、神秘的な微笑みを唇だけに浮かべていた。
「『ミヌレ』では力不足でしょうね。でも『夢魔の女王』たちなら可能よ」
足元に伸びていた鴉色の影が、大蛇の形になる。
無窮の混沌たる『夢魔の女王』と、循環の秩序たる『尾を咬む蛇』が、寄り添いながら佇んでいた。




