第十七話(後編) 埋葬された道化師はかく語りけり
目を開けば、いつもの小部屋。
壁の本棚には、漫画と資料集が詰まっている。学習机にはミリペンと落書き帳。あとマグカップ。そしてゲーム機とディスプレイ………のはずだけど、ディスプレイがアクアリウムになっていた。
「またアプデしたの?」
よく見たら水槽じゃなくて、ディスプレイにバーチャルアクアリウムが映っているだけだ。
極彩珊瑚とレースめいた海藻が揺れる水底で、人魚たちが泳いでいた。比較的浅いのか、日差しが水模様を水底に届けている。
すごく綺麗だけど、ゆっくり眺めている暇はない。
蝶々柄のカーテン開けて窓の外を見下ろせば、玄関前で幽霊がうろついていた。
輪郭は熔けていたけど、まだ這いずり回っている。
這いずり回った後には、白粉と口紅が混ざったような跡がついていた。
ラピス・ラジュリさんは死んでも、人の形を維持して、窓辺まで来ていた。ポンポンヌは形を保てないのだろう。
魔力量の差が浮き彫りになっている。
【乱鴉】を唱えればすぐに消える。このまま放置しても、魔力を消耗して星幽体は地球に還るだろう。
傍観していても良かった。
奴隷売買をするような人間なんて、惨めったらしく死んでほしい。
だけど少しだけ、彼女を知りたいと思った。
ポンポンヌが副総帥オニクスに、どんな世界を創ってもらいたかったのか。「絶対にして荘厳なる闇」とか「正しき秩序」とか言っていたけど、どういう定義で語っていたのだろう。
好奇と呼ぶほど浮ついているわけじゃないし、関心と呼ぶほど優しい気持ちではない。
副総帥オニクスを慕って狂った女の最期を、わたしは見届けたくなったのかもしれない。
窓を開けて、外へ飛び出す。
「………ぅ」
ひどい臭気だった。夏に濡れたまま放置した白粉と口紅が、黴たり腐ったりした匂いだ。いや、腐ったものを煮込んでいるみたいに、肌にむわっとした不快感が伝わってくる。鼻を塞いでも、毛穴へ腐臭が染みてきそうだ。
これはわたしの魔力が腐敗しているんだ。
「ポンポンヌさん………」
「閣下に寄生する蛆虫が!」
化粧が泥めいて渦巻き、金粉や銀粉が噴き、罵声が轟く。
鼓膜どころか、精神を劈くほどの裂帛だった。
「まさに蛆虫だよ! 蛆虫! 蛆虫! 子供のくせに閣下を腐らした。お前みたいな分別も付かんガキなんて、年上の男なら誰でも良かっただろうが!」
罵声は途切れない。
「囲われてる自覚無いのが、生意気を通り越して気色悪いんだよ! どうせ甘やかしてれる父親が欲しかっただけだろう! 新しくて若い父親に股開けば、ずぅっと甘やかされて生きていけるからねぇ!」
下品な断末魔だ。
だけど言わんとすることは理解できる。
わたしみたいな子供が年上と結婚すれば、巣立ちの苦労を知ること無く、一生、親元にいるような甘ったれた生活ができるかもしれない。
これを言われたのが砂漠に流される前なら、胸に突き刺さっただろう。あの頃のわたしは先生から与えられた価値観で生きて、それを疑問にも思わない。巣立つ前の雛鳥だったもの。
でも価値観や倫理の相違で、わたしと先生は苦しんで、藻掻いた。
わたしは砂漠で先生の価値観から巣立って、それでも先生と共にあること選んだんだ。
あれは地獄じみた苦しみだったけど、たぶん必要だった。
ポンポンヌの罵声は的外れだ。
師弟のような、あるいは親子のような関係は、もう千年前に通り過ぎている。
ため息の代わりに、わたしは呪文を唱える。
攻撃するためでも、身を守るためでもない。それどころか魔術でもない。
わたしの姿を顕すための魔法の呪文。
「それは受肉した女王、それは夢みる胚胎、それは大いなる息吹…………それらは永遠であるが、ひとつのもの。ただ唯一のもの。すなわち『夢魔の女王』!」
わたしの手足と背丈が伸び、髪が足元まで流れ、完全な『夢魔の女王』の姿になった。
ポンポンヌだった残骸を見下ろす。
「どうか呪詛ではなく祈りを聞かせてください。真なる闇、正しき秩序とは、あなたにとってどんな形をしているんですか?」
残骸は震え、金粉や銀粉を噴く。
それはすすり泣きめいた動作だった。
「知るもんかい。閣下が言っていたことだよ、あたしに分かるもんか」
教義をそのまま信奉していただけか。
「………ただ見たかった。閣下が目指す世界が、あの方の示すものが見たかった………あたしは何も分からないけど、あの方が作る世界が見たかったんだ…美しくなくても、正しくなくてもよかったから………」
それが彼女の祈りで願いか。
闇の教団に出会うまで、きっと彼女にとって世界は醜く歪んだものだったんだろう。以前、クワルツさんが「社会から爪弾きにされてしまった者には、社会が用意している救いでは救われん」って語っていた。
ポンポンヌにとっては、副総帥は救いだった。
そして救ってくれた人間が創る世界が見たかったのか。
「閣下の世界にいたかった………」
副総帥オニクスがどんな世界を創っても、彼女はきっと受け入れただろう。
間違いであっても、過ちでも、歪んでいても。
妄信だ。
それこそ新しい父親の臥所に侍るようなものだな。
「………あたしは死ぬんだね。終わりなんだ。こんな終わりか、みじめったらしいねぇ」
「終焉ではありません。むしろ死は生まれるための儀式です。拒めば死は行き止まりですが、受け入れれば扉となります。あなたの新たなる旅路に、このわたし、ゼルヴァナ・アカラナより祝福を授けてよろしいでしょうか」
問いかけに、ポンポンヌだったものは沈黙した。
もし拒否されたら、攻撃魔術【乱鴉】を唱えて、手荒く星に還すしかない。
「祝福ねえ。そんな胡散臭いもん遠慮するところだけど、いいか、頼むよ……」
錫杖になったヴリルの銀環を振るう。遊環は鳴り響くこと涼やかで、嫋々とした余韻が尽きない。月のひかりを音に変えたら、きっとこんな風に耳に届くんだろう。
死出の旅へ逝く彼女のための香華だ。
「死は生まれるための儀式。新たなる旅路に祝福を」
この言祝ぎを、わたしは今まで幾つ唱えただろうか。
呼吸するように、紡がれる祈り。
「ポンポンヌさん。あなたの来世に、まことの幸福を」
埋葬されたピエロは崩れていく。しばらくして、化粧の残り香も消えた。
わたしは意識を浮上させる。
目を開けば、先生がわたしを抱き締めていた。
先生はすでに身なりを整え終えている。纏っている呪符たちが、鉱石の輝きを反射させていた。
エメラルド牌が背景に聳え、石たちに囲まれ、先生が抱き締めている現実か。こっちの方が魔法空間より幻想的だな。
「追い払ったか?」
「来世へ誘ってきました」
「すまない。教団のことは、私が責を負うべきなのに」
苦しそうに呟きを絞り出した。
鉱石が織りなす翳りに、表情は昏さを増している。
「あなたが責を負うのは道理ですね。でもわたしは手伝えるの、嬉しいですよ」
闇から拍手が響いた。
拍手?
どこから?
わたしが群晶を見回せば、翳溜まりに、それはいた。
「オプシディエンヌッ!」
邪淫の蜘蛛オプシディエンヌ、あるいは聖娼ネフィラ・ジュラシカ。
闇色のドレスを纏っていて、翳色のレースが縁どられている。夕方の影みたいに長く豊かなマントを、右肩とパニエで膨らんだスカートに留めている。エクラン王国の宮廷第二礼装だ。
レースの黒手袋が奏でるのは、喝采の無い拍手。むしろ嘲笑めいた拍手だった。
腕が四本じゃなかったら、宮廷の貴婦人そのものだ。
「ポンポンヌを嘉してあげなかったのね。最後まであなたのことばかりだったのに」
白と黒の双眸は、折り重なっているふたりの死体を眺める。
愛しむように、慈しむように、眺めていた。
これは本物のオプシディエンヌか?
それとも囮で、また隠れているのか?
囮だと思ったら本物ってオチもある。目の前のオプシディエンヌに油断したら、全滅だぞ。
クソ、人魚避けの香水を使ってしまったのが痛い。先生も人魚を追い払うために、水中で使ったはずだ。
静寂に鋭い音が走る。
先生がマントの下から、鞭を振るったんだ。
ポンポンヌの鞭を隠し持っていたのか。
鞭を振るいながら、小さな硝子瓶を出す。
あれはもしかして人魚除けの香水?
溺れた時に使ったと思ってたけど、予備を隠し持っていたんだ。
流れるような動作で硝子瓶を投げつけて、鞭で叩き渡った。
もし目の前のオプシディエンヌが傀儡されている人魚だったら、肉体が拒絶反応を起こすはず。
【焔翼】を詠唱。
わたしも自分の機動力を上げるため、【浮遊】と【飛翔】、【防壁】をかけていく。
オプシディエンヌのふたつの腕は黒髪を掻き上げていたけど、空いているもう二対の腕が動く。
糸の盾が張られた。
鞭が防がれ、香水が弾かれ、宝石たちへと降りかかる。香水の雫が、宝石の輝きのひとつみたいになる。
「オニクス。贈り物をありがとう。とても洗練された香りだけど、妾の好みは薔薇と菫だって教えたでしょう」
「人魚除けの香水。予測していたようだな」
「監視していただけよ」
暗がりから、女性が一歩踏みでてきた。
密偵を紛れ込ませていたのか。
その女性がさらにもう一歩踏み出すと、先生が息を呑んだ。わたしだって心臓が潰れそうだ。
「寮母さんっ!」
「……姉さん」
いつもひっ詰めている黒々とした長髪を、ひどく重そうに垂らしていた。ドレスはラヴェンダー色と銀が縞になった半喪服だから、肩や胸元にまで深く垂れる黒髪が、哀弔に纏うレースみたい。
黒い瞳はどこか硝子めいていて、焦点はどこか遠くだ。
【魅了】された人間の眼だった。
「相変わらずこっちの味方を篭絡するとか、変わり映えのしない手口だな!」
わたしの罵声が、エメラルド牌に響く。
マジでこれ何回目だよ!
フォシルを唆して、クワルツさん【魅了】して、サフィールさま【屍人形】にして、先生を記憶喪失にして、ほんとに毎回同じパターンじゃねぇか!
いい加減にしろよ!
「同じ趣向ばかりでは退屈かしら? でも妾にとってはいちばん楽しいもの」
オプシディエンヌは妖艶に微笑む。
妖艶だけど唇が吐くのは、邪悪そのものだ。
「人間は人間として生きるために、友情や恋慕が不可欠だわ。肉体に押し込められた自我を、人間と呼ぶのかしら? いいえ、人と人との絆に、交わされた言葉の狭間に、培ってきた時間に、分かり合おうとした努力と誠意に、真実の魂が宿るのよ。その美しく貴い本質を踏みつけに出来るなんて、最高に甘美でしょう!」
この女の邪悪さ、歯止めがないのかよ!
他人の大事なものを壊すのが大好きって、頭おかしいぞ!




