第十六話(前編) 黒き真珠が孕むもの
オプシディエンヌが支配している『図書迷宮』が、エクラン王国の空に君臨している。
「最悪の一歩手前って感じですね」
エメラルドの光を浴びながら、わたしは胸のしこりを吐く。
「これは最悪だぞ。オプシディエンヌが四属を支配し、『図書迷宮』の我が物にしたことが最悪ではないなら、きみの想定していた最悪は一体なんだ?」
先生は威圧的に顔を顰めるけど、わたしも言いたくないことを口にするので顔を顰めた。
「オプシディエンヌが卵を産んでいることですよ」
スティビンヌ猊下が語った呪わしい仮定だ。
【憑依】の素材のために、先生との卵を産む。
産卵してる仮定が外れたのは、マジで良かった。
「ぅ……」
先生は短く呻いて、黙り込んでしまう。
黎明の風が険しさを増した。
彼方だった『図書迷宮』が、どんどん近くなってくる。この速度と距離は危なくないか?
「なんで急接近してるんですか!」
「違う。これは『図書迷宮』がこちらへ近づいてくる! ミヌレ、警戒最大。防御展開は魔導航空艇、自身の機動性も確保しろ」
「うい!」
一角半獣化して、皮膚にすべての呪符を浮かせる。
薄いオリハルコンドレスのプリーツの下、輝き放つ呪符たち。
唱えるのは【防壁】【庇護】【飛翔】。
風属性を即時性の高い魔術から、詠唱していく。
唱える順番はこれでベスト。
【飛翔】が発動しきった瞬間、『図書迷宮』が振動した。
無数の宝石の雫が降り注ぐ。
ステンドグラスが水飛沫になったみたい。
綺麗だけど、見惚れている場合じゃない。
あんな凶悪な速度で石が降り注がられたら、魔導航空艇が撃沈する。もっと守りの風を重ねなくちゃ。
「我は風の恩恵に感謝するがゆえに、盾となりてわが身を守り賜え」
舌が動く最速で、呪文を紡ぐ。
空間に作られていく風の加護。
「【防壁】!」
風系防御魔術【防壁】は、物理攻撃を確実に防ぐけど、一度で消滅してしまう。連弾には手数が足りない。
喉が擦り切れるまで詠唱する。
先生は【水】と【飛翔】を詠唱して、水のヴェールで魔導航空艇を包み込んだ。
分厚く流れる水のヴェールによって、宝石弾の速度が落ちる。
それでも【防壁】が間に合わない。
涼やかな空気が、わたしの素肌に触れた。
水よりもっと冷たい氷の気配。
この感覚、エグマリヌ嬢の魔術だ。
「【氷壁】!」
風と氷の壁が重ねられた。
壁の隙間と、朝の陽ざしに、水晶色の影が身を躍らせた。
クワルツさんだ。
「ハッハッハッ、迅雷より速き黒水晶とは吾輩のこと!」
己を鼓舞するように名乗りを上げる。
魔術の壁の間隙をすり抜けてくる宝石たちを、拳で弾き、受け流し、あるいは砕いていった。
クワルツさんには先読みと俊敏さがある。
だけど、それでも手数が足りない。
魔術師三人と魔法使い一人の手数でも防ぎ切れないって、マジかよ。
まあ、防衛戦が得意な奴がいないから仕方ない。
先生が殲滅戦担当、クワルツさんが遊撃戦担当で、エグマリヌ嬢が白兵戦向きだぞ。わたしがいちばん防衛戦向きってどういうことだよ。ここにレトン監督生がいてくれたら手数足りたけど、無いものねだりしても仕方ない。
ついに魔導航空艇に被弾する。
「ぅわっ!」
大きくバランスを崩す。
魔導航空艇、また撃沈させられるの?
つい最近、大炎上したばっかりなのに!
魔導発動機が大きく唸った。
航空艇が、一気に推進していく。
「なんだこの速度」
「制御できなくなったらしい。落ちる前に『図書迷宮』に突っ込んで、墜落だけは防ぐつもりだと言っている」
【透聴】を発動させている先生は、淡々と説明してくれる。
「わざと突っ込こむとか、マジかよ、スティビンヌ猊下」
「若干、自暴自棄だな」
高所恐怖症が墜落するってなったら、そりゃやけっぱちになるよな。でもならないでほしい!
わたしとエグマリヌ嬢は、外壁通路の柵にぎゅっと捕まった。
臓腑ひっくり返りそうな振動がくる。
鼓膜を劈く不快な響き。
「ぐへ……」
『図書迷宮』の一角に、魔導航空艇の船体が引っかかったんだ。正面衝突じゃなくて、接触事故って感じだな。
「宝石の雨が止んだな」
クワルツさんが深呼吸するように呟いた。
たしかに静けさが戻っている。
「私が魔導航空艇を【飛翔】させる」
先生は帆船ひとつ、丸ごと【飛翔】させられるものな。
「離れたらまた宝石の雨が降ってくるのでは?」
「このまま止まっていても、ミノタウロスやケンタウロスに占拠されるぞ」
それはぞっとする話だ。
魔導航空艇は、空を飛ぶために装甲は軽くしてある。まさに紙。狂暴なモンスターに襲われたらひとたまりもない。
「私が【水】の膜を作って魔導航空艇を包み込み、同時に【飛翔】させる。ただ大量に【水】を作るとなると、時間を要する。その間、魔物を警戒しておけ」
「ただの【水】の膜で防げるのか?」
クワルツさんが疑問を呈した。
「むしろ弾丸は速ければ速いほど、水とぶつかった時に自壊しやすい。【水】の厚みを変えて計ってみたが、90センチの厚みを構築できれば防ぎ切れる」
水にゆっくり入れば抵抗感はないけど、高いところから落ちると痛いからな。
とはいえこの魔導航空艇に、厚さ90センチの水で膜を作るとなると、相当量の【水】を呼ばないと駄目だな。
隻眼の視線がこっちに投げられた。
「ミヌレ、きみは【水上歩行】を魔導航空艇へ掛けたまえ。【水】で直撃を防いでも、着弾衝撃が動力部に伝わると危険だ」
「ういうい」
承諾してみたものの、そんな広い範囲、展開指定できるかな~…
魔導航空艇まるまるひとつ【水上歩行】って、さすがに広すぎるな。
まあ、やらなくちゃいけないなら、やるしかないけど。
「生徒番号220は怪盗の補佐をしておけ」
命令に対してエグマリヌ嬢は眉を顰めたけど、一応は返事をして従った。
頭上で響く、何かがひび割れる音。
「ぽぇ?」
ベリルの結晶柱に亀裂が入っていた。
巨大な結晶柱は、最悪の方向、つまりわたしたちの方向へと倒れてきた。
先生が魔導航空艇を【飛翔】させて、高度を下げていく。でも【飛翔】の発動より、倒壊の方が早い。
外壁通路が結晶柱に引っかかる。
ここで墜落なんかしたら、ディアモンさんが危ない。
墜落してもわたしたちは魔術で何とかなるけど、ディアモンさんは魔導機械に繋がれている。簡単には逃げられない。
【飛翔】して、結晶柱へ【浮遊】を詠唱する。
魔導航空艇が危険域から離脱できるまで、崩壊する結晶柱を何とかしなくちゃ。
「ミヌレ! 頭上から崩落する、回避しろ!」
倒れてきた結晶柱は一本だけじゃなかった。まるで亀裂が感染していってるみたいに、周りの結晶たちを罅割れさせていく。
結晶の柱を避けていると、『図書迷宮』の洞へ入り込んでしまう。下へと追いやられていく。
まずい。
回避行動をミスった。
こんな崩落の中、洞に入り込んだら、魔導航空艇へ帰還できない。
「ミヌレっ………!」
洞に先生の声が響く。
追いかけてきた先生が、わたしを抱き締めた。
「魔導航空艇はどうしたんですか!」
「不時着できる場所まで【飛翔】させた! あとは知らん! 脱出するぞ!」
崩落は酷くなっていくばかりだ。
結晶柱が折り重なって天への道を塞ぎ、地は崩落して開かれる。
落ちていくしかない。
「きみに魔導航空艇の制御を任せるべきだった!」
戦術手順を打ち間違えた先生は、苦渋を絞るように叫んだ。
しかしふたりで『図書迷宮』に落下してくの、既視感あるな。
脳みその片隅で、のんきな考えが浮かぶ。
あの時と違うのは、しっかり手を繋いでいるってこと。
結晶柱の崩落に巻き込まれ、わたしたちは『図書迷宮』の奥へと沈んでいった。
群晶の崩落。
降り注ぐ結晶の破片を躱しながら、下へと降りていく。
洞は大きくなっていく。
空間の広さに対して、闇の暗さも比例していった。
「ミヌレ、十時方向の壁がひび割れている」
先生の忠告が聞こえ、それを理解して、思考する。それより早く、左側から大音響が爆ぜた。
真横から放たれる濁流。
こんな水量が、『図書迷宮』にあったのか。いや、【水】を唱えて大量に結露するってことは、水源があるよな。
そんなこと考えながら、わたしは呪文を詠唱する。
太ももの呪符が煌めき、魔術が展開されていく。
「【水上歩行】!」
反水属性魔術。
水をはじく魔術が、わたしと先生に展開し、発動する。
よし。突発的だけど成功した。
ほっとした瞬間、水音が耳障りに唸る。
渦巻く濁流に、巨大なアクアマリンが流れてくる。水が凝ったような宝石だけど、水と違って【水上歩行】では弾けない。
先生とわたしを吹き飛ばす巨石。
「………あっ!」
繋がっていた手が、離れた。
あっという間に水の激しさに飲み込まれ、先生の姿が小さくなっていく。
追いかけなくちゃ。
わたしが軌道を変えたと同時に、轟音が響く。壁からまた濁流が噴き出してくる。
水の気が強すぎる。
四属はその属性が強いフィールドでは発動できない。【水上歩行】の構築が壊れる。
水魔術を唱える。
耳朶の真珠が揺れて、わたしの肺腑を変えていった。
「【水中呼吸】!」
呪文の末尾が結ばれると同時に、背骨に濁流を叩きつけられ、わたしは水の底に沈められた。
大量の水。
音声によって魔術を発動させる現代魔術にとっては、水没って最悪の状況だ。
わたしは【水中呼吸】があるけど、先生にはさらに最悪の状況だろう。
沈む。
いや、上下も定かじゃない。濁流に翻弄されて、方向が分からない。
思考まで溺れてしまいそうだ。
何をしようとしていたか目的まで沈む。思考がぶつ切りになって、取り留めないことが浮かぶ。
だめだ。
先生を探さなくちゃ。
霊視で……
視界のレイヤーを切り替えようとするや否や、眼前にノイズが走った。眼球が砂を噛んでいるみたい。痛みに似た不快感が、眼窩まで絡んでくる。
なんだ? 霊視が、うまくいかない。
気づかないうちに肉体が損傷して、霊視できないくらい魔力が枯渇しているのか?
遠くで一瞬、炎が揺らめいた。
あれはもしかして【焔翼】か!
完全一角獣化して、わたしは冷たい水を掻いていく。
だけど逆巻く濁流が、四肢も視覚もかき回す。水圧が内臓を押しつぶそうとしている。周囲に存在するすべての水が、わたしに無慈悲だった。
人魚みたいに泳げたら。
『夢魔の女王』は、こんな荒れ狂った水のなかでも泳げるんだろうか。
女の上半身、山羊の前脚と、人魚の尾。
宇宙でさえ泳げそうな姿。
あの姿が、欲しい。




