第十五話(前編) 蒼穹のエメラルド
くすんだ薄雲が伸びて、ピンク色の夕焼けが村いっぱいに広がっていた。なんだか月下老に貰った蟠桃を思い出す。ちょうどあんな感じの黄色交じりのピンクだ。
太陽は音も無く落ちていくのに、家の中はばたばたしている。
近所のひとや親戚が引っ切り無しに来て、手伝ってくれているのだ。
介護しやすい踏み台を貸してくれたり、消毒済みタオルとか新品のリネンとか必要なものの差し入れ。あと夕飯や果物を持ち寄ってくれたり、山羊の世話や納屋の掃除をしてくれるひともいる。暇そうなご隠居が、柵の周りの草むしりをしてくれていた。
母はお礼を発音するだけで手一杯だった。
ただオニクス先生とか父の容態の話題を振られると、分からないって台詞の繰り返しになる。
「みんな蛇蝎ちゃんを見物しにきてるね」
ミカちゃんが笑う。
田舎だからな。近所の噂話と動物の交尾くらいしか娯楽の無い田舎で、魔王が来襲したら見物もしたくなるよ。
物見がてらでも親切はありがたい。
無遠慮に覗こうとしている野次馬もいるけど、それは警兵長さんが追い払ってくれる。
しかしお客さまが引っ切り無しだというのに、ミカちゃんは相変わらずのぼろ雑巾ルックだった。
「ミカちゃん。お姉ちゃんのお古は着ないの?」
サイズが小さくなったわたしのドレスのなかで、田舎でもそれほど悪目立ちしないデザインを譲った。もちろんディアモンさんの許可を得て。
わたしが学院に持っていったモノトーンワンピースも譲っている。ウールと木綿の交ぜ織りだから普段着だ。
「やだ。汚すと叱られそうなの着たくない」
「え……? お姉ちゃんは妹に、そんなぼろ雑巾ルックしてほしくないんだけど」
「やだ。綺麗な服を汚したら、染み抜きしなくちゃいけないでしょ!」
今までわたしは散々ドレスを汚して、クリーニングをディアモンさんにまかせっきりだった。
そうか。あの修繕と洗浄を自分でやるとなったら、大変だよな。
でもぼろ雑巾と変わらない恰好はやめてほしい。
身なりがぼろ雑巾だと、中身の扱いまでぼろ雑巾と同じにしてくるやつはいるぞ。
ずっと前、エグマリヌ嬢に使用人みたいな髪型をしないでほしいって言われことある。半分以上、聞き流していた。でもエグマリヌ嬢もこういう気持ちだったのかな。
「それよりおねーちゃんは何してるの?」
ミカちゃんがぐいっと覗き込んでくる。
「稼ぎ手が倒れたから、補助してくださいって申請書を書いてます」
魔術ランタンに照らされたキッチン。
テーブルに書簡板を置いて、わたしは申請書を作成していた。
食事用のテーブルって、木目がそのままだったり傷やへこみがあったりして、書き物に向かないんだよね。とはいえ田舎村に、書き物机なんて表面がつやつや加工された机なんて、そう置いてあるわけがない。だから書簡板を使うのだ。小ぶりな画板みたいな感じ。
「ふーん。夜のお客さまには蜜酒を出すけど、蛇蝎ちゃんは蜜酒いるひと?」
「気遣い結構。不要だ」
「じゃあ村長さんは要りますか?」
ミカちゃんは壁に立っている村長さんへ問う。
書類が書き上がるまで、ずっと壁際に立たされているのだ。立っているというより、直立不動って感じ。
定年退職が近い年齢のおじいさんに、長時間、直立不動させているの心苦しい。
とはいえ、村長さんとしては、先生の横に座っているのも気詰まりだろうな。
「いや、蜜酒は結構です」
「ふーん。じゃあいいや」
「先生、書き終わりました」
隻眼が一瞬でチェックする。
「よし、綴りミスも無い。これで治療の見舞金が出る。で、次が税収免除嘆願書」
「まだあるんですか」
「倦むな。すべて書けば、きみの実家の年収くらいは返ってくる。こういう時のために税金を払っているのだ」
呪符はすごい課税されてるからな。
機会があればキャッシュバックしてもらわないとな。
「文字を学べば、古い料理や調薬のレシピも読める、手紙で近況をやり取りできる、税金を活用できる。そもそもこのエクラン王国において、文字の読み書きは基盤だ。エクラン王国を魔術先進国として足らしめているのは、識字率の高さなのだから」
良く通る声で語る。
これはわたしでなく、田舎の連中にあてつけがましく言ってるんだよな。
先生としては、わたしが文字を読み書きできるようになって、こんなにも役に立つんだぞって村のひとたちに見せつけたいんだよな。たぶん。
ただこの申請書、読み書きできるだけじゃなくて、公式文章の形式をきちんと身に着けてないと書けない。
先生は宮廷で学んだし、議会に魔術関連の意見書を出しているから、このくらい簡単だと思っているかもしれない。けど、これは事務弁護士とか代書屋に頼まないと書けない。
わたしは一度やればムービー収録されるからいいけどさ。
先生に指導されつつ、申請書をすべて書き終わった。
「では処理を頼む」
先生の確認を経た書類たちは、村長さんへと渡された。
村長さんは書類を受け取るや否や、喜び勇んで役場に戻っていく。先生と同じ空気を吸っているのが、よっぽど気詰まりだったらしい。
「妹君も学校に通う手筈が整った」
先生の言葉に、ミカちゃんはきょとんとした。
「でも蛇蝎ちゃん。魔力が強いひとだけ、読み書きできればいいんじゃないの?」
「良くない。高魔力保持者を強制収容して、国家管理して、特別に教育を施す。それを実行した国家もあったが、すぐに崩壊した。魔女狩りによって植え付けられた魔術への嫌悪を残したまま魔術師を育成しても、魔術師たちへの風当たりが強くなるだけだ。結局、魔術師のエリート意識と、非魔術師の差別によって国家分断した」
いつの間にか魔術世界史の授業が始まってる。
北シャンスリエール貴族共和国と南シャンスリエール魔術共和国だ。今でも紛争中である。
「低魔力者でも魔術へ関われるように門戸を開き、魔術の利便性を国民に浸透させ、差別や偏見を改善していく。それこそが魔術国家として発展の礎だ。そのためには国民の識字率向上が不可欠だ」
呪符にしても護符にしても、まず呪文を綴るからなあ。
識字は魔術国家の基盤だ。
だからこそどんな貧しい家庭でも識字だけは学べるように、日曜学校がある。
「先生ってそこまで魔術師の社会的向上に熱心でしたっけ」
「これは建前だな。本音としては戦争状態になった場合、使い捨てできる立場の連中が魔術を使えると、戦術的にも戦略的にも幅が広がる。国家総力戦になれば、兵站部隊がどれだけ魔術を使えるかで補給線の伸び具合が違うだろう」
「戦争狂……」
まあ、そんなことだろうと思ったよ。
オニクス先生が差別の改善とかに精を出すとは思えんし。
「【浮遊】と【土坑】を使える部隊が、恒常的に機能していれば、私は飛地戦争を三ヶ月早く勝利に導けた」
「三ヶ月分の兵士の消耗は大きいですね」
「建前としても本音としても、本人の能力があるにも関わらず識字を学ばせないのは、魔術国家に対しての背信だ」
過激なことを言い切る。
間違っちゃいないけど、理想論である。
法律上、教育遺棄は親権を取り上げられるくらい厳しいけど、辺境や貧村だと形骸化してたりするものな。
「ふーん、そうなんだ」
先生の大袈裟な物言いに対して、ミカちゃんは軽く受け取った。
もう少し重く受け止めてくれ。
「蛇蝎ちゃん、ちょっと椅子ひっこめて。お皿取れない」
ミカちゃんは先生に椅子を動かさせ、棚のお皿を取る。夕食の準備を続けた。
態度が図太い。
わたしもインクやペンを片付けよう。
そろそろお夕食だ。
テーブルに運び込まれているのは、取れたての夏野菜の煮込みに、山羊チーズ、木苺と林檎のバター、蕎麦粉のバゲット、ミラベルの実とかソルダムの実。あとたんぽぽやエニシダから仕込んだ田舎ワイン。
近所のひとたちが、お見舞いとして持ってきてくれたものばかりである。明日の朝ごはんや昼ごはんまで賄えそうだな。
「私は魔導航空艇に戻る」
「急ぎのお仕事があったんですか」
まだ査読する論文あったのか。
申請書の面倒みてもらって申し訳なかったな。
「いや、食事が気に食わん」
「ほへ?」
わりと豪勢だと思うけど。
「善良な奴隷肯定派の親切などというものを、この私に受け取れというのかね?」
嫌味たっぷりだ。
ミカちゃんの件で、先生もこの村のひとたちを嫌悪している。親切を受け入れるのは、悪事に加担するほど屈辱なのだろう。
「ミヌレ。きみは家族団欒を楽しみたまえ」
口調が優しい。
いつもこういう言い方だったら、魔王って思われずにすむのに。
………いや、外見と能力が魔王だから、やっぱり魔王だな。
先生は【飛翔】して行ってしまった。
護衛ならクワルツさんがいるものな。
今は魔狼モードになって、ずっとわたしの足元にいてくれる。
「おねーちゃん、おねーちゃん! ハムと赤砂糖もらった! おねーちゃんハムのキャラメリゼ好きだったよね。作るよ」
「好きだけど、食べきれそうにないかな」
「じゃあちょびっとだけ作るね!」
ミカちゃんは意気揚々と、肉切り包丁を持ってくる。
「クワルツさんは冷製ハムでいいでしょうか?」
頷いたクワルツさんと一緒に、わたしは本当に久しぶりの家族団欒をした。