第十九話(後編)「世界を侮るなかれ」
この世界が、わたしの、元々の、世界。
わたしは魔術でなく魔法で、無自覚の予知を繰り返していた。
だって貴族ばかりの学院に入れるのだ。なんて幸運。この千載一遇は逃がせない。幸運だけど幸福に繋がるのか分からない。幸運を幸福にしてみせる。どんな世界なのか学ばなければ。知らなくちゃ生き残れない。みんなどんな言葉遣いをする? どう振舞えば馴染める?
村へは戻りたくない。あの閉鎖的な村。わたしに日曜学校さえ許さない父親。「かあさんが文字なんて読めたら、結婚してやらなかった」と嘯き、わたしに学ぶことを許さなかった男がいる。わたしは学校に行きたかった、学びたかったのに!
日曜に飲み会に連れていかれ、少し年上の男の子の酌をさせられる。「愛想よくしてないと貰ってもらえないぞ」とわたしを小突く父親。何も関係ない男と顔を合わせるたびに、父親はそう笑う。わたしはまるで家畜だ。家畜の屈辱はもう嫌だ。
だけど学校に行ける、この村から出られるのだ!
平凡から逸脱することを許さないこの村から!
この幸運を逃がすものか、逃がすものか。
だから予知を繰り返さないと、遥かな未来の先、分岐点、すべて見ないと。誰が味方で、誰が敵で、誰がわたしを助けてくれる?
ありとあらゆる想定を、夢の中で繰り返して。
繰り返して。
繰り返して。
繰り返して。
繰リ返シテ。
「ここが、現実………」
喉の奥が嗄れていく。
頭の芯が軋んでいく。
目の底が熱くなって。
涙が落ちた。
ああ、この世界が現実だったら、わたしは今まで何をしてきた!
周りの人間を、虚構の玩具のように扱っていた。なにが恋愛値だ、なにがイベントだ。このすべてが現実なら、わたしはどれほど傲慢で、醜悪で、気持ちの悪い人間だったんだ!
硝子窓が鳴る。
分厚い硝子の向こう側に、フォシルくんがいた。
「ミヌレ。助けにきた」
フォシルくんが窓を開けて、冷たい空気と一緒に入ってくる。
「馬を用意してある。ここからすぐ逃げよう。心配しなくていい、近くに遠縁の牧場があるんだ」
………先生はわたしが、遠視と読心と探知を組み合わせて予知をしていると言っていた。
それだけ?
ほんとうにわたしが使っていた魔法は、それだけだったの?
わたしは予知を繰り返し、さらに情報を得るために遠視と探知で知識を得ていた。そしてわたしに接する人たちが、どう反応するか読心していた。
だったらその間、わたしは魅了を使ったんじゃないか。
フォシルくんがわたしに好意を向けてくるのは、魅了の結果じゃないか?
だとしたら、わたしは、なんて醜い。
幸福を得るために、未来を確かめるために、彼の心を飽きるまで歪めに歪めて、放置してきたのだ。
「ミヌレ?」
フォシルくんが近づく。
「いや、だ」
近づかないで、近づかないで。
わたしは、わたしの醜さに耐えられない。
耐えられないことさえ、耐え難い!
「どうせ魅了されているだけなのに! あなたなんて! 魔法で左右される程度の感情しかないくせに!」
感情なんて、魔法や魔術で狂わせられる。
そんな脆弱なものを向けないで。
「ミヌレ、あの男の魔法で操られているのか?」
「何も知らないくせに喋るなッ!」
「知らなかったのは今更しょうがねぇじゃん! ………でも、これからは何があっても、俺が、守るから」
手を、握られる。
がさがさした、獣の匂いがついた手のひら。この世界で懸命に生きてきた手だ。
「放せ!」
フォシルくんを突き飛ばす。
「……あなたは何も知らないのに、何も知らないくせに」
わたしはこんなにも知ってしまっているのに。
未来も、知識も、己の醜悪さも。
「わたしは知ってるのよ! 鼻梁白の薄墨毛の馬! 稲妻が嫌いなの! あなたは雷雨の晩に、胸を蹴られて肋骨を折るわ!」
フォシルくんとのイベントだ。
肋骨の骨折は、わたしのキスで癒える。
でも、わたしはもう誰ともキスしたくない。イベントを起こしたくない!
だって先生はわたしの運命の相手じゃなかった!
駆けよってくるエグマリヌ嬢とレトン監督生。
このふたりの未来も知っている。
「レトン監督生! 妹のエランちゃん。来年の雨の日に迷子になるわ。あなたはエランちゃんを探して、肺を患ってしまう!」
「予知か……」
「エグマリヌ嬢! サフィールさまは再来年、春先のグリフォンに襲われるのよ。春が早く来て産卵が早まったから、グリフォンたちは気が立ってる。まだ雪が残ってるけど、卵を守るために縄張り意識が強くなってる!」
ああ、それから、それから。
「ミヌレ! 未来を口から出すんじゃない! 因果律が狂う!」
先生がわたしの口を押さえつける。
因果律なんて知らない、そんなもの知らない! 知らない、いらない、何もかも!
もう、いやだ。この心臓が止まってしまえばいい。
そうすればわたしは消えられる。
この醜悪な己を消したい。
息を止めようとしたその瞬間、わたしを包む月下香。
「鼓動しろ! 呼吸を止めるな! 私をこの世界に独り、置き去りにするつもりか! 許さんぞ!」
オニクス先生は必死に怒鳴ってる。
なんで泣きそうな顔で、怒鳴っているの。
わたしはあなたの運命の相手じゃないのに、そんな表情をするなんてひどい。まるでわたしがたったひとりの掛け替えのない人間みたい。そんな風に扱わないで。誤解してしまう。
「逝くんじゃない、逝かないでくれ!」
泣かないで。
あなたに泣かれるなんて、いや。
「………オニクス先生」
わたしの布団、わたしのゲーム機。
壁一面の本棚には、漫画や資料集、それから同人誌がびっちり。
「…………夢」
額には嫌な汗がねばついているし、心臓がばくばく鳴っている。
夢の中でまた夢を見ていたのか?
絶対これゲームのやりすぎじゃねーか。オタクとしては誇らしいとはいえ、ちょっとメンタル疲れた。
「また狂ってるのか」
オニクス先生が枕元で胡坐をかいている。
「いや、きちんと把握してますよ。この世界はわたしが予知のため創造した、虚構の世界です」
ここはわたしの魔法世界。
わたしに連なる未来と過去を知るための空間。
オニクス先生は表情を和らげた。
「そうだな。見た目も本来のものに戻っている」
わたしの肩に流れる髪は、きらきらした鉱石色だった。
ミヌレの髪の色。
いや、ミヌレはわたしだ。わたし自身だ。
わたし自身だったのだ。
そして周りのひとたちはキャラじゃなくて、血肉を持った人間。
「先生。わたしは今まで、周りの方々をただのキャラクターだと思っていました。こんな狂った人間、他人と関わらせたくない………」
己の気持ち悪さが喉にせり上がってくる。
エランちゃんのことだってそうだ。わたしはあの小さな子が誘拐されるって知ってたのに、なにひとつ防ごうとしなかった。イベント扱いして、起こってから自慢げになんとかして。
子供の誘拐さえ、娯楽として認識していたんだ!
わたしは吐き気がするほど醜悪だ。
この空間に永遠に引きこもっていたい。
「些細なことだ」
先生はバッサリ切り捨てる。
「………でも、フォシルくんにだって、ひどいことを言ってしまいました………」
「きみは馬鹿か。勝手に寝室に入ってきた小僧に、お優しいことだ。親切だろうが恋慕だろうが、女の寝室に無断で入るような男に、礼儀などかなぐり捨てて構わん」
「でも……フォシルくんは緊急時だって思ったんですよ………」
「思慮のない人間が、緊急時に行動するな。下手に接触したら、きみの性格が崩壊していた。私は情けをかけるべき相手とは思わんぞ」
「それに、フォシルくんがわたしを助けてくれるのは、魅了の結果かもしれません………」
「それを考え出すときみの精神が病むぞ」
わたしは項垂れる。
先生でも可能性は否定できないってことか。
静まり返った部屋に、本が捲られる音だけが響いた。
ぱらり、ぱらり。
そういやここに存在する書籍は、過去視と未来視なんだよな。
先生、なに読んでんだ?
「同人誌読むなァアアウアアッ!」
しかもよりによって、いちばん過激なやつじゃねーか。
「未成年の部屋にあって許される内容ではないな」
真剣な顔するな!
正直、今までの衝撃がすべて吹っ飛ぶレベルのダメージきたぞ。荒治療過ぎんか?
「これは、あれだな。あの小僧の妄想だな」
「ひへほ?」
「なるほど。個人の妄想を読心した情報は、私家版として区分けしているのか」
……えっ?
この寝取られ凌辱もの同人誌って、フォシルくんの妄想だったのかよ。それをわたしが勝手に脳内で同人誌にして読んでたの?
「フォシルくん可哀想すぎるだろ!」
自分のえげつないエロ妄想を好きな女の子に読まれていた思春期の男の子の気持ちなどさっぱり分からんが、たぶんひどく可哀想な話だと思う。
「待ちたまえ。こんな妄想をされている私が理不尽だし、こんな妄想の餌食にされているきみがいちばんの被害者だ」
全方向に被害者しかいねーのかよ。
「でも『思想に関税はかからない』って言いますし」
口に出すまでは、どんな思想も自由だ。
自分の意見を口から出してしまったら責任がある。フォシルくんは出さなかったのに、わたしが勝手に同人誌化してしまったのだ。
っていうか、フォシルくん視点で、わたしは脳みそふわふわパンケーキなのか。
「思想に関税はかからんが、思想は行動に出る。だからきみの寝室に押し入る愚行を犯したんだろう」
先生はまだ同人誌を読んでいた。
「もう読むのやめてあげてください」
「童貞の妄想が幻想過ぎて逆に面白くなってきた」
「最低だ! 先生の過去も読みますよ!」
わたしの裂帛に、先生は素早く同人誌を棚に戻した。よし。
先生が重い吐息をつく。
「この部屋を観察した結果」
「すんな」
「きみは読むことに長けているが、他人の精神を直接介入してない。書籍という形態での予知は、介入率はゼロだからな」
「でもゲーム……」
わたしの呟きに、先生がゲーム機をちらっと見る。
「このゲームという予知形態は寡聞にして知らんが、とどのつまりは彩色挿絵と音声付きの書物だろう? 内部に何百冊だか何千冊もの本が内包されており、選択肢で違う書籍へと移る。きみが書き込んでいるわけではなく、あくまで反応を予知して、選択しているに過ぎん」
「それは……そうですね………」
「他人を魅了している可能性は極めて低い。断言は出来んがな」
少しほっとした。
「きみは予知と同時に、他人の過去や妄想を覗いているだけだ」
「最低な人間じゃねーか……」
ここにある同人誌は、他人の想像を読み取ったものなのか………
なら処分すべきだ。
一片のこらず消してしまわないと。
他人の妄想を無断で読み取ってるって、ほんともう最悪だ。
処分。
「出来るわけねぇ………」
このミヌレとマリヌのほのぼの冒険絵本とか愛しいし、園丁×怪盗の話はブロマンスでごっつ萌えなんだよ!
しかしフォシルくんの妄想は処分してあげた方が……いいな…
「ミヌレ。他人の精神に意識介入すると、魔力消耗が激しくてかなわん。一度、目覚めてくれないか?」
「あ、の、だったら! わたしの魔力! いかがでしょうか!」
「いらん」
素っ気なく断られてしまった。
ちぇっ。
わたしはゆっくりと覚醒した。




