第九話 (前編) 抱卵の如く、大樹の如くに
六角形の居間に満ちるのは、カーテンで薄められた日差しと、ちやほや。
「ミヌレ、監督生がオランジェリーを自由に見学してもいいって」
「ミヌレくんは植物も好きか」
ちやほや、ちやほや
「ミヌレ、それともワルツの練習の続きの方がいい?」
「ミヌレくん。吾輩がワルツを奏でよう。クラヴィコードを調律した」
ちやほや、ちやほや。
「ミヌレ、そうだ、ピクニックに行く?」
「ミヌレくん。屋外音楽会でもいいぞ」
ちやほや、ちやほや。
エグマリヌ嬢とクワルツさんが寄ってたかって、わたしを甘やかそうとする。
ふたりとも元々優しいんだけど、今日は不自然なくらい優しかった。
産まれたばかりの赤ちゃんを、寄ってたかってちやほやしている。そんな感じ。保護を通り越してもう過保護だ。
エグマリヌ嬢はわたしの髪を梳いて、編み込みを作ってくれていた。髪の毛一本一本を貴重な宝物たみたいに扱ってくれるから、なんだかちょっと気持ちがくすぐったい。
クワルツさんは縦じま乗馬服っていう、中流階級の紳士の恰好だ。ディアモンさんのアトリエにあった着換えである。
この光景、客観的に見ると逆ハーっぽいな。
「カードゲームはどうかな」
「ごめん。吾輩、ミヌレくんの持っているカードは予知できんが、エグマリヌ伯爵令嬢のカードは予知できる」
クワルツさんの瞳はド近眼だけど、その代わりに予知が宿っているからな。
エグマリヌ嬢じゃ視えちゃうのか。
どのくらい闇耐性あれば、先読みの未来視できないんだろ。
レトン監督生くらいだと視えないかな。
監督生のところへ思考が向いてしまって、気持ちが重くなった。
先生を眠らせるために、レトン監督生は怪我を負ってしまった。怪我そのものはキスで快癒したけど、未だにベッドから離れられない。
なんでかっていうと、回復するために体力消耗して精魂尽き果てたからだよ。
今までは先生とかロックさんとか、人並外れた体力の持ち主を癒していたから気づかなかったけど、魔法での強制回復は体力的に負担なのかな。それともレトン監督生が度を越した蒲柳だからかな。
「レトン監督生は大丈夫でしょうか」
重い気持ちを吐く。
「まだ熱があるみたいだけど、でも心配ないよ。監督生なら主治医がいるんだから」
監督生の主治医が有能だってのは、予知で視た。
でも心配。
世話になった上に、わたしが作戦に巻き込んだから重症なのに、遊ぶのも気が引ける。
それに巻き込んだというなら、このふたりも巻き込んでしまっている。
ふたりとも自分の意思でわたしを助けてくれるけど、エグマリヌ嬢はサフィールさまのことも心配だろう。
「エグマリヌ嬢はサフィールさまのお傍にいなくて、よろしいんですか?」
「兄は教会に保護と事情聴取されているからね。傍にはいられないよ。ミヌレの傍にいた方が力になれるだろう」
「嬉しいです。でもエグマリヌ嬢は、ご婚約の件もありますし………」
口に出すのも悍ましい婚約話だ。
婚約が進んだらどうしよう。社交界ごと殲滅するしかない。
脳裏で焦土作戦が進行しているわたしに、エグマリヌ嬢は柔らかく微笑んでくれた。
「ミヌレは何も心配しなくて大丈夫だよ。王姫が降嫁するなら、うちの家格が上がる。婚約も白紙だよ」
伯爵家に降嫁があれば格式UPで、エグマリヌ嬢もさらに格上の婚約相手を選べるってわけか。
結婚相手がハイスペックしか選べないのは良いことなのかどうか分からんが、あのクソ横領役人が除外されるなら万々歳だ。
「それはそれとしてあの横領役人は、この世から滅したいです」
「社会的にって意味だよね?」
エグマリヌ嬢は平和主義だなあ。
隣のクワルツさんは難しい顔で腕組みした。
「騎士団からの横領の証明できれば社会的に抹殺できるが、いささか難儀だろうな。証拠を掴ませるような雑な横領であれば、とうに発覚している」
「先生が認める才能だもんな」
従軍文官随一の事務能力って、評価していたもんな。
先生が殺すのが惜しいと思う手腕で横領していたら、そりゃ証拠掴むの難しいよな。
「それにあの横領役人は、苦学生への援助も行っている。留学援助や仕官の口利きだな。横領がおおやけになってしまったら、援助を受けていた苦学生たちの世間的な立場が無くなるだろう」
「たしか孤児院や職業訓練校にも寄付もして、視察もしている。社交界的には評判の良い方なんだよ」
「うむ。マダムは昔から社交界にいるため、裏の事情にもお詳しい。だがあの小役人、表面的には篤志家だ」
そ、そうか。
あのクソ横領役人、子供を寝所に引っ張り込んでいるけど、成人後も律義に世話しているのか。
先生も戦後の世話をしてやるって約束で、いかがわしい取引を持ち込まれたものな。その約束は嘘じゃない。
横領役人を社会的に抹殺すれば、道連れになる被害者たちがいる。
にっちもさっちもいかねぇなあ……
「ハァ、メンドクサ。じゃあもう惨殺しましょうよ」
溜息といっしょに殺意が零れた。
扉が開く。
寮母さんが入ってきた。相変わらず未亡人っぽい色調の服だけど、ヴェールは被っておらず、作業用の麻エプロンを付けている。
持っているお盆には、ハーブティー。香りは強いけど、青臭さのない爽やかさだ。
漂う香りは心地よいけど、寮母さんの眼差しは底冷えしていた。
ヴェールを越しではない視線の鋭さときたら、先生以上だった。
「学院女生徒にあるまじき単語が聞こえましたけど、どういうことですか? 愚弟からの悪い影響を受けているようですね」
「いえいえ、そんなことありません。お手伝いします」
寮母さんに近づくと、しっとりとした甘い香りがする。
いつもラヴェンダーのリネンウォーターが香っているけど、今日は違う。やたら甘くて濃厚だ。
「いつもと違う香りですね」
「ああ、バニラの香りですよ。さっきアイスクリームのタネを作っていたので、香りが移ったんですね」
ヴァニーユ蘭の種子から採取される香料、バニラ。
南方島嶼でしか採取できず、レムリア時代から身分の高いひとたちに愛されてきた香りだ。たしかに濃厚で贅沢な香りだな。
「わたし、アイスクリーム回したいです」
アイスクリーム回しは重労働だけど、楽しいよね。
しかも香りがバニラなんて素敵!
バニラアイスクリーム作るなんて、大貴族か王宮の厨房みたい。
「ミヌレは疲れてるんだから、そんな大変な事しなくていいのに」
「アイスクリーム回しは娯楽ですよ!」
「そうだぞ。アイスクリーム回しをした人間に、ボウルを舐める権利がある!」
「クワルツさん。いきなり三歳児みたいな発言しますね」
「狼のすがたならボウル舐めていいよって、オンブル言ってたぞ」
怪盗さんちのルール、そうなんだ。
オンブルさんは相変わらずクワルツさんに対して甘いな。
「舐めるなんて品性に欠けます」
寮母さんは厳しかった。
「そもそもライカンスロープすれば食器や器具を舐めていいとは、どういう了見ですか。品性や礼節や道徳に欠いた行為を、ライカンスロープ化によって許されると思っている術者がいるせいで、ライカンスロープ術者、および『妖精の取り換え仔』の社会的地位の向上が芳しくないのですよ。たとえライカンスロープしても、世間に恥ずかしくない振る舞いは不可欠です」
あっ、寮母さんのお説教が始まってしまった。
始まると長いんだよな、説教。
お茶、冷めないかしら?
でも身動きすると、寮母さんのお説教が被弾しそうで嫌だな~
「たしかにライカンスロープすると、理性が飛びやすいでしょう。獣性模写したため、星幽体の役割のひとつである精神と肉体との架橋、この機能を圧迫すると言われています。ライカンスロープ化においての理性喪失は、精神論で片付けられない問題です」
理性が吹っ飛んでる感覚は無いけどな~
って言ったら、元から理性が吹っ飛んでるって突っ込まれそうだから、口を噤んでおく。
わたし、予知発狂者だもの。
そういやウイユ・ド・シャくんが、サーベルタイガー化すると頭が働かないとかなんとか、弁解していた記憶がある。
「だからといってライカンスロープする前から、人間としての振る舞いを諦めるはよくありませんよ。あなたは学院の生徒ではないので、くどくど長く申しませんけど、獣化魔術を使うなら謹んで下さい」
長かったよ、説教。
「お茶にしましょう」
冷めてしまったハーブティーは、飲み干しやすい。
クワルツさんはさっさとティーカップを空にして、アイスクリームを回すため酪農室に急いだ。
わたしたちは片づけを手伝ってから後を追う。
酪農室はチーズやバターを造ったり、生クリームやミルクを保管する場所だから、温度管理が肝心。だから石造りで、北側で、傍には大木が茂っているのが定番だ。
特にこの酪農室に使われている石は白っぽくて、見た目もひんやりしている。しかも窓枠には綺麗な透かしが入っていて、白い床や壁に落ちる影模様がレース細工みたい。
「お洒落な酪農室ですね」
こんな気品漂う酪農室、はじめて。
ロックさんのうちの酪農室は素朴で、母屋に引っ付いた差し掛け小屋タイプだったな。
いちばん暗いところで、クワルツさんはアイスクリーム機を回していた。
細長い樽で、横には鋳物のハンドルがついている。これこそアイスクリーム製造機。
樽の中には錫の器が仕込まれていて、そこにクリームを流し込むのだ。寮母さんが作っておいてくれた生クリームと卵たっぷりのカスタードクリームが、氷に冷やされて素敵なデザートへと変身していっているところ。
「氷が解けてきたな。氷室から取って来る」
「ボクが作ります」
エグマリヌ嬢の詠唱が流れ、冷気となって、酪農室の温度をさらに下げていく。
「【氷壁】」
魔術によって、氷が結ばれる。わたしたちは氷の塊を麻袋に入れて、クワルツさんの拳で粉砕していく。わたしの蹄で粉砕した方が早いけど、撹拌機の中に投入する氷だから、土足で砕くのは抵抗があるんだよ。
氷をたっぷり足したし、これでアイスクリーム化が早くなるぞ。
みんなと交代で、樽についたハンドルを回していく。
くるくる回る撹拌機。
塩と氷の冷たさで、カスタードクリームがアイスクリームになっていく。もうわくわくしてきた。頬が緩む。
「でもこの量で足りますかね」
「ミヌレが好きなだけ食べたって足りるよ。レトン監督生は冷たいものは好まれないし」
「術後の先生にも差し入れたいんです。先生って思った以上に大食らいだから……」
わたしがそう告げると、エグマリヌ嬢は眉宇を曇らせた。
露骨じゃない。ほんの僅か。一瞬だけ。
一秒にも満たないその表情から、オニクス先生のことが許せないんだって嫌になるほど伝わってきた。
所在を無くしていくわたしの気持ち。
三人分の沈黙が、酪農室を淀ませていた。
扉が開いて、寮母さんが入って来る。思わず伸びる背筋。
「ランチはキッシュでいいかしら?」
「はい!」
わたしが即答すると、寮母さんは樽から生クリームを掬っていく。
「あと愚弟の分のデザートは確保してありますから、アイスクリームはあなたたちで召し上がって下さい」
クリーム壺を片手に去っていく。
寮母さんは先生のこと、気にかけてくれているんだ。
ちょっと気持ちが回復したぞ。
「よし。頑張ってアイスクリーム回しましょう!」
わたしとエグマリヌ嬢とクワルツさんは交代で、アイスクリームを回していった。




