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第八話 (前編)  胡蝶の寝覚め


 うららかな陽気だ。

 北方の山では、季節が一気に移り変わる。

 暖炉の火はもう必要ない。

 灰がすべて掻き出された暖炉には、松製の暖炉板が填め込まれていた。板は古びて色褪せているけど、春や秋の花が彫刻され彩色されている。

 代わりに窓は大きく開かれて、風を迎える。朝焼けのよそ風に木綿プリントのカーテンが膨らみ、揺れて、床に透けた陰影を描いた。微かに獣の匂いが混ざるのは、放牧場の方から風が吹いてきているんだろう。

 視界の端にひらひら揺れているのは、蝶々だろうか。

 初夏の心地だ。

 わたしは室内へと目を戻す。

 現実空間に戻って、はや一時間。

 つまりオニクス先生が土下座して、一時間経過したということである。

 自分がやった行為に耐え切れなくて、額が床から離れないのだ。

 言わんこっちゃない。

 だからわたしが記憶を処理するって言ったのに、もうこれどうしよう、ほんと。


「ォ……」


 先生が何か呻いているぞ。

 しゃがんで耳を傾けた。


「オンセン………オンセン………」


 土下座の隙間から、珍獣の鳴き声みたいな呻きが聞こえますが、オニクス先生の声ですね。

 床に爪立てて引っ掻く。

 爪、割れないか?

 わたしは先生の手を取って、ぎゅっと抱きしめた。

 記憶喪失中の記憶を得たいと願ったのは、先生の自由だ。わたしはその意思を尊重しよう。

 そして辛いなら気が済むまで付き合おう。わたしが予知発狂した時、ずっと傍らにいてくれたみたいに。

「ご自分を傷つけないでください。獣適性がないのでしょう」

「すまない。こんな見苦しい姿を見せるつもりはなかった」

「こころの膿を出しているだけですよ」

 わたしが予知発狂を自覚して癇癪起こしている時、先生がかけてくれた言葉だ。この台詞が先生にとって慰めになるか分からないけど、わたしは先生に労わってもらって安定してきた。

「わたしが先生を引っ掻いたように、先生も引っ掻いてくれて大丈夫ですよ」

「そんなことは出来ん」

 先生は顔を上げる。

 潤んだ隻眼と目が合った。

 なんて顔色の悪さだ。土気色だし、額には脂汗がにじみ出ている。蝋人形みたいだぞ。

 でも生きている。

 蝋人形みたいな顔になって震えているけど、生きているんだ。

「よかった。生きていてくれて」

「私はきみに許されてしまうのか?」

「許すも何も、先生がいきなり舌を噛み切らなくてほっとしているところですよ。よかったです」

 マジでよかったよ。

 最悪、記憶戻った瞬間に、クリス・ダガーで頸動脈を掻っ切るかもしれんかったし。

 いきなり土下座モードになって微動だにしなくなったから、めちゃくちゃほっとしたぞ!

 さすがに一時間動かないと、困るけどな!

「生きてくれて、ありがとうございます」 

 いつも死にたいと思っているひとが、生の此岸で踏ん張ってくれたんだ。

 それが泣きたくなるくらい嬉しい。

「生き恥晒しているだけだ」

「わたしのためでも生き恥晒すのは嫌ですか?」

「………ミヌレ。きみのためなら、どんな生き恥も晒すし、恥辱も飲もう」

「じゃあいいじゃないですか」

 わたしは先生にぎゅっと抱き着く。

「大好きですよ、先生」

「ミヌレ………この腕を断ち切った私を、抱き締めるのか」

「わたしの腕の使い道はわたしが決めますよ。何か問題でも?」

 そう囁くと、先生は抱き締め返してくれた。おずおずとだけど。

 抱き締める力が強くなる。

 そろそろ落ち着いてくれたかな。

「あの、責めるつもりはないですし、これは単なる事実確認したいだけなので聞きますが……」

「な、なんだ?」

「わたしが眠っている間、何かしました?」

 先生の肩が大きく跳ね、口を押えた。

 うぅわ、先生が胃液吐いた!

 まずい。これはまずい。聞かなきゃよかった。

「大丈夫ですから! 落ち着いてください! 洗い流しましょうね!」 

 わたしは水差しと洗面器を持ってきて、先生の背中を撫でる。

 魔術師の喉が潰れると戦術幅が狭まる。とか。

 胃液吐くレベルの罪悪感って、いったい寝てるわたしにどこまでしたんだ。とか。

 ただもう苦しむ姿が辛い。とか。

 いろんな気持ちがぐるぐる回ってくる。

「……寝てるきみの、唇や胸部にキスした」

「その程度で、胃液を吐くほど苦しまないでください」

「魔術で強制的に寝かせた未成年に、三十過ぎの男がキスをしたんだぞ。気色悪いだろう」

 まあ、たしかに。

「去勢した後、首括らせようと思って当然だ!」

「そこまで酷いことは思っていません」

「いいや! そういう顔をしていた! 以前、去勢してから首括りにしろと断言した時と、表情がそっくりだ」

 わたし、そんなこと言ったっけ。

 ああ、たしかに『図書迷宮』での一件の後、言ったような覚えがなくもない。

「たしかにあの時、私が去勢していれば…」

 先生は蒼白な顔で、腰のダガーを抜く。

「やめてください! オプシディエンヌと敵対している状況で、肉体にダメージを与えてどうするんです。戦線離脱するつもりですか!」

 わたしの叱咤は覿面だった。

 戦術的な損得を説くと、先生は素直に従ってくれる。ダガーを鞘に納めてくれた。

「わたしが罰を決めます」

「きみが決めたら、同じことをし返すと言い出すに決まっている。却下だ」

 見通されていた。

 でもそれでいいと思うんだけどな。

「ミヌレ……私はきみを穢してばかりだ」

「あなたがしてくださることで、穢らわしいことなどひとつだってありませんよ」

 先生の嗚咽が落ち着くまで、わたしは抱き締めていた。


 また一時間経過。

 

 先生を抱きしめたままなら、わたしはあと一時間くらいいけそうだけど、そういうわけにはいかない。

「落ち着きました?」

 問いかけると、先生は一拍遅れて頷いてくれた。

「わたしはあなたが好きですし、抱きしめたいです。それはそれとして今回の件は【死爆】が破壊されても撤退しなかったあなたに責任がないわけではないのですし、他の方々が迷惑をこうむったのは確かなので、みなさんにはきちんと謝ってくださいね」

「……謝罪せねばならんか」

「わたしが許したからって、全人類が許したってことにはなりませんからね」 

「了解している」

 土気色の顔でふらふらになりながら、隣の部屋へ赴いた。

 続き部屋になっている居間には、透明感のある日差しが満ちている。ハーブティーの素朴な香しさ。モスリンのカーテン。なにもかもが、微睡みから目覚めるにぴったりな優しさだ。

 ただクワルツさんとエグマリヌ嬢のおふたりは、不機嫌オーラで待ち構えていた。メルヒェンな居間の雰囲気を陰鬱に塗りつぶしている。

 クワルツさんはお行儀悪く寝椅子に寝転がって足を投げ出し、エグマリヌ嬢は凛とした佇まいでハーブティーを飲んでいた。

 レトン監督生は不在。

 厩でオニクスに吹っ飛ばされた時、足を捻挫し腰を打撲した。そこはキスして治したんだけど、発熱がひどいのだ。回復に肉体がついていかなかったらしい。今度はレトン監督生が床に伏している。

「ミヌレくんにメンタル介護してもらってきたか?」

 クワルツさんが寝ころんだままで、毒を吐いた。

 いきなり辛辣だな。

「クワルツさん。それは言い過ぎでは……」

「必ず許してもらえる相手に頭を下げるのは、頭を撫でてもらうに等しい」

 横になっている状態から、腕組みしたまま、予備動作ゼロで起き上がる。

「吾輩から言いたいことがないわけではないが、ミヌレくんが許した以上は何も言わん」 

「ミヌレが許しているからって、ボクは絶対に許せないけど、それでもミヌレの前で責めたりはしないよ」

 目付きや声の端々から殺意とか怒気が漏れてますよ、おふたかた。

 わたしは誘拐されて、両腕を切られて、監禁されて、また誘拐されただけなのに。

 ……うん。わたしの友人がこんな仕打ちされたら、その疫病神の頸動脈を掻っ切ってやる。

 オニクス先生に襲い掛からないだけで、ふたりとも礼儀正しい……!

「きみたちにも迷惑をかけた」

「迷惑。迷惑ときたか。事態を的確に表現するとしたら、いささか軽い単語だな。たしかに吾輩の労など、ディアモンに比べればなんとも他愛ないことだ」

 その名前が出た瞬間、隻眼が曇る。

 ディアモンさんにしてしまった仕打ちが、脳内で再生されているんだろう。

 たぶんクワルツさんがこれだけ毒づいているのは、わたしだけじゃなくてディアモンさんのこともあるからだ。

 先生は細く息を吸い、唇を結び、そして意を決したように口を開いた。

「………刺繍遣いはどうしている?」

「ディアモンならさっき到着した。上空だ。魔導航空艇に、いる」

 お空の上にディアモンさんが来ているの?


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