第七話 (前編) 世界劇場
蜘蛛の巣だ。
目の前が真っ白になるくらい、蜘蛛の巣が張られている。
ねばっとしてて、不快だ。
埃が混ざって、濁って粘りが強くなった年代物の蜘蛛の巣って感じだ。
オプシディエンヌの仕込んだ魔術を、具象化すると蜘蛛の巣になるんだろうな。
これをどうにか駆除しなくちゃ。
わたしは広範囲無差別攻撃闇魔術を詠唱する。
「さあ、死肉啄む姿を借りて、いざうつつに炳焉と舞え! 【乱鴉】」
金属質の雄叫び上げる無数の鴉。
羽ばたきながら、蜘蛛の巣に向かう。
鴉たちに啄ませようとしたけど、逆に羽根が蜘蛛の巣に絡めとられていく。黒い羽根が残骸になっていく。
【乱鴉】が効かない。
じゃあ次は……
「【焔翼】」
わたしは炎を纏う。
紅玉色に盛り、火星色に猛り、赤錆色の火の粉まき散らす炎。
モノトーンだった空間が、赤だけ集めた万華鏡みたいになる。
わたしの周りで炎が羽ばたく。燃え盛る翼に、蜘蛛の巣は少し溶けた。
溶けただけかよ!
燃え移れよ!
どばーっと蜘蛛の巣完全駆除されねぇのか~
うーん。
魔術が通用しないとなったら、魔法を使うか。
わたしはラーヴさまから授けられた呪文を詠唱する。
「それは永遠であるが、ひとつのもの。ただ唯一のもの。すなわち『夢魔の女王』!」
夢魔の女王化し、ヴリルの銀環も錫杖化!
わたしは錫杖フルパワーで、蜘蛛の巣を払っていく。
さくさく掃えるぞ。
ある程度の塊になったな。
塊に【焔翼】すると、燃えていった。
よしよし。
集めて燃やすって手順で、術式を駆除していくか。
この見渡す限りの蜘蛛の巣を?
手間のかかる手作業で?
雑役婦のおばちゃんみたいな作業しながら、ちまちまちまちま蜘蛛の巣を取り除いていく。気が遠くなりそうだった。
いつまでこれ続けるんだ?
っていうか、蜘蛛の糸、ほんとに減ってる?
徒労じゃない?
大丈夫?
一呼吸つく。
「ミヌレ」
優しくて甘い呼びかけが、わたしの耳朶まで届いた。
「先生!」
叫んでしまってから、間違いに気づいた。
ちがう。
背後に立っていたのは、『先生』じゃない。
顔立ちが若すぎる。クワルツさんと同じくらいの年齢だもの。
副総帥オニクスの方だ。
纏っているのは、身丈に余る漆黒の衣装。金糸銀糸の縫い取りが施されて、首元にはわたしの知らない呪符を、いくつも纏っている。羽虫や爬虫を象った装飾の数々は、ブッソール猊下のお弟子さんに壊された呪符かな。
その姿は漆黒の星夜みたいだった。夜から星と闇を引きはがしてきたみたい。
見るからに魔王じみてて邪悪なんだけど、オプシディエンヌみたいにねっとりとした毒蜜じゃない。オプシディエンヌが気に入った相手を破滅させる邪悪さだとしたら、オニクスは気に入らない相手を殲滅する邪悪さだった。
禍々しい、だけどたしかに美しかった。
でも好きじゃないな。見慣れていないせいなのかな?
三十路の先生の方がときめく。
わたしの心臓を高鳴らせるのは、オニクス先生だけなんだ。
「やはり、ミヌレか。それがきみの真の姿か。美しいな………」
オニクスは『夢魔の女王』の姿を、恍惚と眺めていた。
視線の熱っぽさに、嫌な感覚になる。
「可愛らしい仔猫だったが、まさかこれほど麗しく成長するとは。まさに女神だ。私がかしずく女王として相応しい」
蜘蛛の糸を掃い、優雅にマントを広げる。
若く傲慢な魔王そのものだった。
頭下げるの嫌いなのに、かしずくのはいいのかよ。
「きみさえいればいい。この世界で」
周囲の糸が、解け、広がり、わたしの首に手首に絡みついてくる。
磔状態だ。
「ぐ………っ!」
わたしがどれだけ抵抗しても、糸はびくともしない。
空間の支配権を、オニクスが掴んだんだ。
元々ここは、この男の魔法空間だ。支配権はオニクスにある。
「ミヌレ。愛らしい仔猫にして、麗しの女王。私を、どうか私だけを愛してくれ」
「愛していますよ」
わたしの言葉に嘘偽りはない。
この男は先生の過去だから。
先生の歩んできた足跡のひとつ。
「きみが愛しているのは、足萎えた腑抜けの方だろう。誇り無くした老いぼれに、どうして拘泥する」
「先生は老いぼれじゃない!」
蜜蜂の指輪が嗤われた時よりも、胸が苦しい。
胸が押し潰されそうになって、涙腺が緩んでくる。
オニクス先生自身にだって、先生を否定されたくないんだ。
「先生はわたしをいつだって導いてくれた! 寄り添ってくれたひとです!」
「その男を忘れるまで、こうしていようか」
「わたしは先生の事を忘れたりなんかしない!」
叫んだ瞬間、空間を覆っていた蜘蛛の糸に、ヒビが入っていく。
割れた。
糸が割れて、雪のように散っていく。
次の瞬間、闇底から手が突き出してくる。大きな手はわたしの手首を握りしめた。
「ぴぎょおえっ?」
わたしの手を掴んだのは、先生だ。
三十歳の教師オニクス。
わたしが好きになったひとだ。
時間の歪んだ合わせ鏡のように、ふたりのオニクスが向かい合わせになる。
なんでふたりいるの?
先生が指揮するように指を動かせば、わたしを捕らえていた蜘蛛の糸は霧散していく。
「ミヌレ。きみが私を呼んでくれたのか」
力強い両腕が、わたしを抱きしめてくれた。
月下香に包まれる。
ああ。先生の匂いだ、先生のぬくもりだ。ただそれだけで泣きたくなってきた。
なんでこんなに幸せなんだろう。
なにひとつ事態は解決してないのに、この香りと温かさに包み込まれるだけで、幸福感で酔ってしまいそうだ。
「きみの唇が紡ぐものはすべて魔法だ。名を呼ばれて覚醒できた。いや、きみに召喚された」
「先生って呼びましたけど……肩書でしょう」
ラーヴさまの名を呼べば、召喚になるのは分かる。まことの名だもの。
だけどさっきわたしが口にしたのは、肩書だ。名前じゃない。
「たしかに肩書に過ぎん。だが私にとって、きみから『先生』と呼ばれることは、魂の輪郭が変わるほどの影響があるのだ。きみがそう呼ぶたびに、私は師として振舞おうとし、歪んだ魂が整っていく気がする。きみが呼ぶときだけは、まことの名前と等しいのだ」
囁きがわたしの膚に触れる。
不道徳な悦びが、薄い膚の下から沸き立ってくるみたい。
「ミヌレから離れろ!」
すべてを両断するほど苛烈な怒声。
副総帥オニクスは、面構えを歪めてわたしたちを睨みつけていた。嫉妬と憎悪と呪詛で、どろどろに歪み切った形相だ。いちばん歪んでいるのは、その黒い隻眼。
「それは私の女王だ! 私の! 私だけの女王だ!」
先生の眼差しが、過去の己に向けられる。たったひとつしかない瞳の奥底に、微かな憐憫を含んでいるように見えた。いや、気のせいかもしれない。憐れんでいるのは、わたしなのだから。
「若造が。私という幹から、オプシディエンヌの魔術で生じた忌み枝、それがきみだ。切り落とすべきひこばえに過ぎん」
「……忌み枝、剪定されるべき邪魔者か」
副総帥オニクスの呟きは、今までと打って変わって凪いでいた。
負の感情で歪んだ表情は整っていき、全身からは底冷えするような熱気を放っていた。ひどく矛盾した感覚だけど、そう表現するしかない。
これは殺意か。
オニクス先生への殺意に、感情が集約したのか。
「たとえ貴様が幹であっても、貴様を切り落とせば私が新たな幹になる!」
副総帥オニクスが地面を蹴る。
エストックを抜き放ち、繰り出した。
先生はわたしを突き飛ばし、目に映らぬ速さの切っ先を躱し、間合いを広げた。
副総帥オニクスの猛攻は緩まない。
刹那で詰まる間合い。
エストックとエストックが噛み合うようにぶつかり、火花が散った。