第五話 (中編) 黒葡萄酒のしずく
わたしの蹄は、厩へと駆けだしていた。
「お待ちなさいっ」
寮母さんの制止を振り切る。
待てるわけないじゃないか。
記憶を失っている時の犯罪行為だって、最終的にオニクス先生がひっかぶることになるんだぞ。
なんとかしないと。
裏庭へと飛び降り、井戸を通り過ぎて、厩へと目指す。
微かな家畜臭を道しるべにして、わたしは駆ける。
魔術ランプが下がっている二階建ての茅葺屋根。家畜臭も強くなってきたし、造りからして、あそこが厩だ。
常夜灯に照らされた扉を開ける。
「どうしました!」
藁と獣の匂いが満ちた空間だった。
家畜の匂いは密度が高い。むわりと肌に纏わりつく。ヴァン・ド・ノワールが破水しているせいか、厩の匂いがさらに独特な臭いになっていた。
柵の奥には、ヴァン・ド・ノワール。
オニクスやレトン監督生、それから馬丁さんや園丁さんがいる。みんな藁塗れになっていた。
いろいろ散らかっているけど、異常な事態は起きてない。
人間が惨殺死体に変わっているわけでもない。
じゃあ、何に叫んでいたんだ?
ぽかんとしていると、寮母さんも追いついてきた。スカートの裾を直しながら、背筋を伸ばして厩を見回す。
「死体はありませんね」
わたしと同じ感想だった。
「どうした、ふたりとも血相変えて」
オニクスが不思議そうに問うてくる。
おまえのいるところで悲鳴が上がったら、おまえが犯人だと思っちゃうんだよ。という気持ちを丁寧に述べたい。
「叫び声が聞こえたので、何かあったのか心配になったんです」
「ああ、なかなか仔馬が産まれんから、腹に手を突っ込んでみたら馬が暴れてな。間抜けがひとりすっ転んだ」
冷徹な物言いで、転んだ馬丁さんを見下ろしている。
怪我は無いみたい。
「お世話になってる方に対して、冷たい物言いは控えて下さい」
「使用人に愛想を振りまくのか。卑しいな」
倫理と見解の相違が甚だしい!
はらわた煮えくり返ってるし、言い返したいんだけど、今、大切なのはヴァン・ド・ノアールだ。
「それより難産なんですか」
「双子だ。二匹の足が中で絡まっている」
それは良くない話だ。
足が絡まっているのも良くないけど、双子がそもそも問題だ。
お馬さんって人間や山羊と違って、双子を産みにくい体格なのに。
自分のとこの馬が双子を孕んでいたら、農家のおやじさんはがっくりするよ。
「破水から何分経過した?」
オニクスは馬丁さんに問う。
「25分です」
「あと5分待って分娩できなかったら、胎の中で潰すか」
「やめて!」
寮母さんの悲鳴は騒霊となって、木材を軋ませ、周囲の藁を切り裂いた。舞い上がり破水の匂いと混ざる。レトン監督生が咄嗟に【庇護】を詠唱して、被害を抑えた。
ヴァン・ド・ノアールは怯えなかったけど、馬丁さんと園丁さんと他の馬はびっくりしているぞ。
「何とかして頂戴! 潰すのはいやよ、それは嫌。赤ちゃんを潰さないで!」
「馬の双子が無事に産まれるケースなど、稀でしかないぞ。このまま出産させたら、生殖器が傷ついて母体に負担が………」
「分かってます!」
「私がやらなくても、死産する可能性の方が高い!」
「それでも!」
寮母さんの叫びに対して、オニクスは舌打ちした。あの厭味ったらしくて長ったらしい舌打ちだ。
姉弟のあいだで、空気が濁って強張っていく。
解決する方法はある。
わたしのキスだ。
キスをすれば、飛竜ワイバーンだって天馬ペガサスだって癒せるんだ。
出産時にひどく痛い思いをさせてしまうし、体力の消耗はわたしじゃどうにもできない。それでもヴァン・ド・ノアールが生きていてくれさえすれば、傷を癒すことができる。
でもヴァン・ド・ノアールはそれでいいの?
死ぬかもしれないんだ。
わたしは完全一角獣化する。
一匹の一角獣になって、ヴァン・ド・ノアールに寄り添った。
黒いつぶらな瞳に、白い一角獣が映る。
「わたしがキスすれば、ひどい傷も癒せます。でも死んでしまったら癒せない。もし産みたいなら、首を縦に振って下さい。嫌なら………」
言葉が終わる前に、ヴァン・ド・ノアールは首を縦に振った。はっきりと。
産みたいんだ。
わたしは一角半獣化して、上半身だけ人間の輪郭に戻る。
「ヴァン・ド・ノアールは産みたいそうですよ」
「……分かった」
オニクスは腕を突っ込み、馬の胎を探った。
「仔馬の脚を引っ張るぞ」
ヴァン・ド・ノアールは悲痛に嘶く。耳を塞ぎたくなる。
ぺしゃりと仔馬が流れ出す。
汗まみれで崩れるヴァン・ド・ノアールの口に、わたしは唇を寄せた。魔力を込めた息吹きを与える。
わたしの息吹きは魔法となり、傷ついた内臓を治癒していった。
ヴァン・ド・ノアールは黒葡萄めいた瞳で、わたしを見据える。頬を寄せてくれた。
「無事、産まれたな」
ん?
もう二匹とも産まれたのかな?
わたしは産み落とされた赤ちゃんを見る。
仔馬の生首?
いや、胴体はある
薄暗い厩の中、顔だけが真っ白くて、身体は真っ黒だから、一瞬、生首かと思っちゃった。
まるで黒い仔馬が、精製した小麦粉に顔突っ込んだみたい。
「双子ではなかった」
「ァア?」
さっき双子だから潰すって言っておいて、誤診?
それはかなりふざけた話では?
「双子だった、というべきか」
「じゃあ………もう一匹はお亡くなりに?」
「いや、生きている」
オニクスが魔術ランタンを掲げ、生まれたばかりの仔馬を照らす。闇から浮き上がる黒仔馬の下肢。
脚がたくさんあった。
今度は見間違えじゃない。影で増えてるようにしか見えないけど、たしかに脚が八本ある。
八本………?
わたしの脳は、タコを連想する。
「ミミックオクトパス?」
「異馬………」
レトン監督生が呟いたのは、聞き慣れない単語だ。
「馬型幻獣と馬とのハーフの総称だな。これはペガサスとのハーフか」
「馬とペガサスって交配可能なんですか」
ウマ科の動物同士って、すべて異種交配できるのは知ってる。騾馬とかよく見かけるもんな。
でもペガサスはウマ科じゃない。
馬って、ウマ科じゃないペガサスでも、受胎して出産できるのか。驚き。
もしかしてペガサス側の魔法が、受胎に関与してるのかな。月下老みたいに人類とホモ・サピエンスのハーフが誕生することもあるから、片親が魔法を使えれば、どんな生物だって交配できるよな。
「グリフォンと馬は交配できるし、ペガサスと馬も交配可能だ」
ああ、グリフォンと馬とのハーフは、ヒポグリフって幻獣になるからな。
「ヒポグリフのように、頻繁に産まれはしない。ペガサスが彷徨ってきて、雌馬を孕ませるのは稀だ。とはいえ探せば記録に残っている。コーフロ連邦王国では、ヒポカンパスとの異馬も三件確認されている」
深海が生息域の海馬ヒポカンパスと、馬。どうやって交尾したんだろう……?
「ただし雄のペガサスと雌馬が交配した場合、間々、減胎が失敗する。翼が生えるべき要素が脚になり、多脚化するのも減胎失敗のひとつだ」
「減胎って何ですか?」
「ペガサスが身ごもると常に双子になる」
「馬の体形で、双子?」
お馬さんって双子は産みにくいのに?
ペガサスはウマ科じゃないけど、骨格とか生殖器とかほとんどウマ科だったはず。
「途中で弱い方が、もう一方の胎児に吸収される。吸収された兄弟が、ペガサスの翼だ」
「………吸収された、兄弟」
ペガサスには自由な翼が備わっている思っていた。
どこまでも翔けられる美しい両翼。
だけど、それは兄弟を犠牲にして得た自由だったんだ。
ヴァン・ド・ノワールは八本脚の我が子を、ぺろぺろと舐めていた。
仔馬も八本脚で立ち上がり、へその緒がついたまま乳を飲む。
慈愛だな。
馬の赤ちゃんって足が長すぎて、馬っていうより鹿っぽいな。
「ミヌレも解剖してみたいだろうが、この馬の所有権は姉だ。さすがに無断で腑分けはできんぞ」
オニクスの言葉に、わたしの肩が震えた。
たしかに雄の仔山羊とか、生まれてすぐにレンネット取る話するよ。
でもお馬さんって積極的にお肉と皮にする家畜じゃないから、そういう発言をされると怖気が走る。
「寒いのか、ミヌレ」
オニクスが上着を羽織らせてくれる。
さっきまでわたしの首を絞めていた手は、暖かくて優しかった。
「部屋に戻ろう。いや、部屋はひどい有り様だったな、別の寝所を仕立てさせよう」
「こんな真夜中過ぎにご迷惑ですよ」
「きみの命令を迷惑だと感じるような人間など、生かしておく価値はないぞ」
うん。この男と話し合いは通じないな。
「それよりヴァン・ド・ノアールの傍にいたいんです。容態が悪化したら、わたしの魔法で回復させなくちゃいけませんし」
「ミヌレ一年生。あなたは休みなさい。部屋はわたくしが整えます」
「ですが」
「今のでまた魔力を消耗したでしょう。ヴァン・ド・ノアールには愚弟とわたくしが付き添いますし、何かあったらあなたを叩き起こしますよ」
ヴァン・ド・ノアールが心配だ。
いや、だけどこれはチャンスか……?
わたしが先に寝て、オニクスが夜番すれば、睡眠時刻に時間差が生じる。
オニクスが眠っている隙に、魔法空間に潜り込めるじゃないか!
素直に頷くことにした。