第五話 (前編) 黒葡萄酒のしずく
黒葡萄酒は、優しくて賢いお馬さんだ。
フォシルに監禁された時、わたしを助けに来てくれた。
「姉さん。妊娠してる馬で、こんな山道を来たのか?」
呆れを含んだ眼差しで、寮母さんを見下ろす。
「まさか! そもそも懐妊してるわけがないんですよ。牡馬を近づけさせてないのに………何か別の病気?」
「いえ、もう足胞が出てます」
レトン監督生の報告に、寮母さんは震える。
「そんな! いえ、たしかにしばらく前から太って………」
寮母さんが狼狽していたのは、数秒だけだった。すぐに眼に力を入れて、オニクスを睨み上げる。
「オニクス! あなた、馬の産婆できるでしょう。早く行きなさい」
寮母さんにまくし立てられてた勢いで、オニクスはわたしから離れた。
「姉さんこそ産婆の弟子だろう」
「わたくしは人間のお産しか面倒みたことありません!」
「私だって馬の出産は、数回しか……」
「ほら、汚れてもいいエプロンを用意してもらって。ヴァン・ド・ノワールはわたくしよりあなたに懐いているんですから、あなたがサポートしなさい」
「断る。私はミヌレから離れない」
「我儘言うんじゃありません! どのみちあなたは一度、ここから離れなさい。わたくしがミヌレ一年生を落ち着かせますから」
言いながら背中を押す。
半ば部屋を追い出されるかたちで、オニクスはレトン監督生と一緒に厩に行ってしまった。
静まり返る寝室。
そう、あたりは静かになっていた。もう騒霊現象は起きていない。
花瓶は割れて、灰は散って、ひどい有り様になっている。あとわたしが召喚した家具たちが残っている。
「無理に声を出さなくて結構ですよ、ミヌレ一年生。あなたの自己治癒能力なら、それほど問題ないでしょうけど、診せてもらいます」
わたしはベッドから転がり落ちて、ヴリルの銀環を掴む。錫杖化して、肉体回復ブーストした。
「治癒完了しました」
「もともとずば抜けた才能がありましたけど、見るたびに凄まじくなっていきますね」
寮母さんは肩から力を抜いた。持っていた火かき棒を暖炉の灰に刺し、動かす。
灰に文字が綴られていった。
『愚弟は【透聴】を所持しています。これで会話しますよ』
わたしは頷く。
オニクスがいやいやながらも厩へ向かったのは、わたしが逃げようとしても分かるからだ。【透聴】を持っているもの。こっちの部屋の音を拾っているだろう。
「ひどい目に遭ったようですが、愚弟もあなたを愛しているの。そこは分かってあげて」
『わたくし、さっさと愚弟を絞め殺しておくべきでした』
建前を口で語り、本音を灰に綴っていく。器用だな。
しかしどっちも肯定できねぇな。
先生を絞め殺さないで。
「婚約した縁があるんです。記憶を無くしても、もう一度……いいえ、何度だって絆を育めます」
『あの愚弟から逃げますよ。連盟に連絡済です。保護してもらいましょう』
わたしは首を横に振った。
ヴリルの銀環を振るって、召喚した家具たちを消す。そのまま灰に突き刺した。文字を綴っていく。
『連盟には頼りません。先生が寝ている隙に、わたしが幽体離脱して精神に潜り込み、オプシディエンヌの魔術を消去します』
『危険すぎます』
寮母さんが反対するのも当然だ。
死亡事故が多いやり方を、世界鎮護の魔術師にさせたくはないだろう。
『でもわたしが逃げたり、連盟が拘束しようすれば、死人がでます』
先生のメンタルは、副総帥時代に戻っている。
賢者連盟は敵じゃないと理解してもらった。
でも、敵じゃなくても、オニクスにとっては殺さない理由にならないんだ。
分かっていたはずだ、砂漠で。
──戦争は味方をどう死なせるか、敵の機嫌をどうやって取るか──
──面白いように敵味方燃えたぞ──
千年前の砂漠で聞かされた言葉、いいや、呪詛がわたしの鼓膜の奥底でリフレインする。
オニクスは敵も味方も分け隔てなく殺す。
敵味方どころじゃない。
あのひとは憎んでいても愛していても、他人でも自分でも、死ねばいいと思っている!
宮中の蛇蝎。
闇の教団の副総帥。
賢者連盟が討伐に踏み切った邪悪な魔王。
それがオニクスという男だ。
わたしがここから逃げても同じ。
だってわたしが村からいなくなったら、恋に狂っているオニクスがどう思うか。
癇癪や憤懣の八つ当たりとして、目につく人間を皆殺しにしかねない。
それに……ヴェルメイユ枢密卿に宣言したんだ。
先生が洗脳状態で残ったら、拘束してその状態の解除に努めるって。
実際その状況になって危険だからって、おめおめと尻尾巻いて逃げられない。わたしはオニクスを拘束して、この状態を解除するんだ。
寮母さんは眼差しに優しい憂鬱を含ませた。溜息めいた所作で、火かき棒で文字を綴っていく。
『危惧は理解しました。ですがあなたが生き延びることが肝要です』
わたしは首を横に振る。
これ以上、先生に罪を犯させたくないんだ。
「わたしはあのひとを愛しているんです」
だから、わたしが始末をつける。
もう犠牲は出さない。
「愚弟を愛してくれて嬉しいですよ」
『愚弟のことはわたくしに任せておきなさい。身内のごたごたで割を食うのは慣れていますから』
身内のごたごたか。
寮母さんは、オニクス先生と縁切ったって言ってたのに。
「優しいですね………」
「あなたはわたくしの義妹ですよ」
「ぷぇ……」
口から珍妙な音が出た。
義妹。
わたしのことちょっとくらい義妹だと思ってくれてるかもしれないと思っていたけど、はっきり認められたのは、初めてだった。
「正直、夫が生きていれば、今回の件にかかずらうことも無かったでしょう。でも、わたくしは愚弟以外の血縁は亡くして、夫にも親類はいなかったんです。愚弟はどうしようもない男ですが、いえ、だからこそ義理の妹くらいは大事にしますよ。家族というものは、掛け替えのないものですから」
そういうものなのかな。
寮母さんの心遣いはありがたい。
でも家族が大事とか、肉親だから面倒みるとか、そういう心境さっぱり分かんない。
レトン監督生がエランちゃんを可愛がったり、エグマリヌ嬢がサフィールさまを尊敬してるのは理解の範疇だ。
でも『家族』だからって理由は、無条件過ぎる。
ブッソール猊下の時もそうだった。理解できなくもないけど共感できないんだ。
わたしの内側で、家族への気持ちが、ぽっかりと欠けている。
──あなたの家庭環境は劣悪だったんですよ──
鼓膜の奥で、モリオンくんの嘲りが反響する。
暖炉で爆ぜる火の粉が、炎上する魔導航空艇を思い出させた。
──あなたが忘れて、誤魔化しているだけだ!──
──羨ましいですね! 親からの仕打ちを忘れてしまえるなんて!──
モリオンくんは炎の渦中で叫んでいた。
肺腑さえ焦がす紅蓮に取り囲まれても、途切れないほどの壮絶な叫び。
「……モリオンくんの言う通りなのかな」
ここまで家族への情を欠いているのは、モリオンくんの推測通り、わたしは愛されていなかった子供なのか。
そして予知発狂によって、愛されたかった願いと辛い記憶を、忘却の淵に捨てたのか。
「モリオン?」
うっかり呟いた独り言を、寮母さんは聞きつけていた。
「ええ、先生の息子さんの………」
わたしがそう言った途端、寮母さんの顔から表情が、ごそっと抜け落ちた。
表情が落ちる音が聞こえるレベルの豹変だった。
モリオンくんの存在、知らなかったんだ。
たしかに先生だってモリオンくんのことを知ったの、つい最近。砂漠から未来に行きすぎてしまった時だ。その後、寮母さんには会ってないしな。
「息子? オニクスに? ………子供が?」
「え、ええ。つい最近まで先生もご存じなかったんですが、息子さんがいるんですよ。オプシディエンヌとの」
「あの子に子供が?」
悲鳴じみた言葉と同時に、暖炉の薪が割れた。
また騒霊現象が起こってる。
薪籠に入っている薪まで、木くずを舞い上げ潰れていく。割れるどころじゃない、へしゃげて、まるで焚き付けみたいになっていった。
「子供は授かり物です。望んだからと得られるものではないと、でも、でも、なんて不条理な………」
窓硝子まで罅割れる。
次の瞬間、裏手から叫びが響いた。
ひとが駆ける足音に、なにかがぶつかる音。喧噪。
何かあったのか?
まさか、オニクス、また何かとんでもないことしでかした?




