序 ロブスター食べ放題大会
右を見たいのに、視線は上へ。
下を見たいのに、視線は後ろへ。
くるっと回って視界は逆さま。
世界がふわふわ儘ならない。
これはきっと夢だ。
灰色の海原と、漆黒の星空を、わたしはふわふわ漂っていく。
ここは月だ。
夜空に散りばめられた星の配列は、象牙の塔から見たものとそっくりだもの。
「ではこれよりロブスター食べ放題大会を開催する!」
聞き慣れた声が聞こえた。
クワルツさんの声だ!
どこ?
わたしは声の先に急ぐ。
月の海辺には、螺旋階段が建てられていた。二階の無い螺旋階段で、蔦模様の手すりには宝石の果実たちが巻き付き、古木めいた支柱に支えられている。綺麗だけど、階段だけってずいぶんと唐突だな。
展望台っぽいな。なにかの観測所かもしれない。
いや、それよりクワルツさんだ。
どこにいるんだ?
必死で視界を巡らすと、浜辺に怪盗姿のクワルツさんがいた。
ロブスターを両手に抱えていた。
わあ、珍しい食材!
ロブスターっていったら、貴族と財閥しか食べられない超高級食材だぞ。
「丸ごと茹でて割って、バターをかける。これが本場の食べ方だ」
「地元はそういう豪快な食べ方なんですね。テルミドールにしたものは食べたことありますが、ボイルは初めてです」
エグマリヌ嬢までいる。
ボイルしたロブスターを豪快に割った。真っ赤な殻が割れれば、ふわっと舞い上がる湯気。ぷりっぷりに肥えた身に、黄金のバターを滴るほどつけて齧る。
「上品に食べるのが難しいですね」
「ハッハッハッ、構わんではないか。賢しらに上品に振舞おうとするのは、最も下品だ」
クワルツさんは豪快に食い千切って頬張る。
意味が分からん夢だ。
なんでクワルツさん主催エグマリヌ嬢来賓の食べ放題パーティーに、わたしが参加してないの?
おかしくない?
「エグマリヌ伯爵令嬢。ここは社交界ではないし、吾輩は賞金付きの犯罪者だ。そう畏まらんでもいい」
「兄を救ってくれた方です。ボクができる最大の礼儀を」
頭を下げるエグマリヌ嬢。
何故か倒れ込むクワルツさん。
感謝されるとダメージ食らうわけでもないのに、苦しそうに呻いている。
「説教師でもないのに、説法してしまった……」
そこがダメージポイントかよ。
聴罪師じゃあるまいし、説教師は司祭資格は不要じゃん。
「でもご立派でしたよ」
「礼拝の代理ではないのだ。一辺倒の綺麗な言葉ではいけなかった。言葉は薬であり毒だ。真に救いを求めている相手ならば、患者に調剤するように慎重に選ばねばならんのに。やはり安易な単語を寄せ集めても、安っぽい砂糖菓子にしかならん! 吾輩は怪盗だ。月に哄笑し、闇を舞うが吾輩の宿世!」
「いえ、説法もご立派でしたから、犯罪から足を洗って説教師になられてはいかがでしょうか」
エグマリヌ嬢ときたら、怪盗相手にまともな意見を言ってる。
神学生→怪盗→説教司祭。
転職ルート的には無茶じゃないけど、クワルツさんは怪盗を廃業しないよ。生業とか義務じゃなくて、メンタルのかたちが農家と怪盗だもの。
「それより伯爵令嬢。兄に付き添わなくていいのか?」
「兄も大事です。でも兄はヴェルメイユ枢密卿の管理下で面会もできません。それにミヌレから聞いた未来が正しいなら、兄は……最終的に伯爵となり、プラティーヌ殿下を娶ることになるのでしょう」
ぅぐ。
そういや未来で、サフィールさま×プラティーヌ殿下のカプ確定していたな。
無事にプラティーヌ殿下をサルベージできたのはいいけど、ご本人のご性根があまりよろしくないんだよな。しかも腹の中に子供が付属してる。
それと結婚させられるって、お辛いはなしじゃん……
王姫降嫁って、貴族社会的には誉れだけどさぁ。
「今はミヌレを救う方が肝要です」
「うむ。ミヌレくんの居場所が早くつきとめられるといいのだが」
「ミヌレを筆頭に全員、闇耐性世界トップクラスで【探知】できませんし、空を飛ばれたらライカンスロープの嗅覚追跡も不可能ですから」
「そこは承知してはいるが、もう何日目だ……」
「英気を養うしかありません」
ふたりはロブスターを食べる。
クワルツさんが五匹目を平らげ、顔を上げる。
「お、マンモス殿がやってきた」
マンモス?
場違いな単語だ。
螺旋階段は地下に続いていて、そこから上がってきたのは、イヴォワール魔術師だ。
東方的な面立ちに、ストイックな表情を浮かべている。象牙の膚に殊更ゆったりしたローブを纏っていた。耳には紫水晶のピアス。素足だから、異国の神職っぽい雰囲気だった。
マンモスのライカンスロープ術者で、テュルクワーズ猊下のお弟子さん。
「マンモス殿。吾輩が突き刺したシャンデリアの傷は、完治したのか?」
「ライカンスロープ系の魔術師にとって、肉体の復元は呼吸と等しい。それは貴方が一番ご存じだろう、未来視の狼どの」
淡々と言葉を返す。
「ミヌレくんの追跡は……」
「絶望的だな。途中にふたりの囮が置かれてしまって、【書翰】がそこに留まっている。ウイユ・ド・シャたちがその場所を起点にして、捜索中だが芳しい知らせはない」
【書翰】妨害していたもんな、オプシディエンヌ。
「教会の組織力で捜査する他はない」
「信用に値しない」
クワルツさんはロブスターに殻ごと食らいつきながら、きっぱりと言い張る。
「ヴェルメイユ枢密卿は、エクラン王宮を戦場にするつもりはなかったのだ! もとよりオプシディエンヌがミヌレくんを狙うと推測して、ミヌレくんの肉体を囮にしていたのだぞ」
マジかよ。敵を騙すにはまず味方からって戦法かよ。
囮に立候補するのはいいけど、勝手に囮にするのは勘弁してくれ。二度と手を組みたくねぇなあ。
「魔力のある人間など、化け物に等しいと思ってるのが教会だ。そこは魔女狩り時代から、一向に変わらん!」
「背に腹は代えられん。現状、賢者連盟は再編成で手一杯だ。女王と蛇蝎と狼が、賢者連盟に殴り込んでこなければ、教会など頼る必要もなかったのだが」
ぐぅの音も出ません~~~
わたしと先生とクワルツさんが原因です~
処刑されかかったのだって、砂漠を滅ぼしたわたしに全責任があるので、ほんとにぐぅの音も出ないですね。ぐぅ。
「まだ再編成は終わらんのか。人手を減らした覚えはないが……」
「トップが悉く死んだ」
淡々と述べる。
「賢者は取り換えが利く人材ではない。頼みの綱だったスティビンヌ猊下もボティが破壊されて、寝たきり状態に戻っている。星幽体がご無事とはいえ、いつ回復されるか見通しが立ってない」
スティビンヌ猊下………
魔導ゴーレムの肉体をぶっ壊されちゃったもんな。
精神の方は無事だったのを喜ぶべきか。
「現状、組織として機能しているのは、我らがテュルクワーズ門下のみ。とはいえ連盟内では、施療や福祉や医療研究が主軸の部門だ。こういう危険な任務で動けるのは、自分とウイユ・ド・シャくらいなもので、広範囲探索を期待されてもお門違いだ」
「では医療は期待できるのか。ディアモンの負傷は?」
「一命をとりとめた」
ディアモンさん、生きているんだ!
空中で炎上した魔導航空艇に乗っていたんだ。そのまま死んでもおかしくないけど、救助されたのか。よかった。
喜びが噴き出したけど、すぐ萎む。
だって「一命」はってことは、完全に回復させることはできなかったってことだもの。
特に、あの指。
美しいものを紡ぐ指先。
あれは灰燼になってしまったんだ。
「ミヌレくんの行方は未だ知れず、ディアモンは重態か」
お通夜みたいな空気になった。
月の潮騒の中、クワルツさんがロブスターを食べる音が響く。
「ところでどうして海老を食べている?」
「吾輩の親友が、ロブスター特急便を届けてくれたのだ。ロブスター食べ放題といえば、海辺と決まっている!」
月まで特急便が届くの?
それともエクラン王国経由かな?
「まだたくさんあるから、きみも食べていくといい。栄養を摂取せねばライカンスロープも巧く出来ん」
おがくず入り木箱から、ロブスターを引っ張り出す。
それと、大きな包み紙。
「なんだこれは? ロブスターじゃない?」
クワルツさんは首を傾げながら、結び紐を解き、包み紙を広げる。
中から金蜜色の輝きがまろびてできた。
「琥珀の塊だな」
え? 琥珀?
あれが、琥珀?
めちゃくちゃ大きいな。赤ちゃんサイズの琥珀だぞ。博物館や美術館の目玉になりそうなレベル。
琥珀の内部に、何か入っている? 黒い絹の束、かな?
包み紙の裏側に、文章が書かれていた。
オンブルさんからのお手紙っぽいな。
「………魔法使いの髪は、その魔法使い自身の拘束に使えるのだったな」
「利用は出来る。古代魔術系の分野だが………」
「これはオプシディエンヌの髪だ。あの魔女を拘束できるモノだ!」
魔女オプシディエンヌの髪?
どうしてそれが琥珀の内側に?
そっか、琥珀はレムリア文明の時代の樹液だ。
オプシディエンヌの髪が樹液に落ちたか捨てられるかして、それが琥珀化して、現代まで残ったんだ。なんて偶然。ううん、あの魔女が二億年以上も生きてるとしたら、偶然じゃなくて必然かもしれない。
いや、でもなんでそんな都合のいいアイテムを、オンブルさんが手に入れてるんだろう。
ちょっと罠を疑うぞ。
「だとしても拘束具にできる織り手がいない」
「古代魔術の織り手は、ディアモンだけでないのだろう」
「古代魔術を織れる魔術師は、この世に五人。パリエト猊下、その弟子であるアルマース魔術師、アルマーザ魔術師、ディアモン魔術師、そしてブリヨン魔術師のみ。だがそこまで高度な織りが出来るのは、パリエト猊下かディアモン魔術師だけだ」
イヴォワール魔術師は、苦虫かみつぶしたように呟く。さらに口の中で潰れた苦虫を吐き出すように溜息をついたけど、まだ苦虫がほっぺのなかで這いまわっているみたい表情だった。
シッカさんは亡くなり、ディアモンさんの指は失われた。
織り手がいないんだ。
砂漠の帝国、わたしが滅ぼしちゃったから………
「今更だ、今更過ぎる」
その面持ちから、苦渋が滲みだしている。
「治療が専門だと言っただろう。ディアモンの指をなんとかできんのか?」
「たしかに象牙の塔こそ、魔術の最高峰だ。東方魔術と西方魔術と古代魔術の粋だ。だが! それでも出来ることと出来ないことがある! 指は切られたわけではなく、焼け落ちてしまった。完全再生するには、ディアモン魔術師の基礎魔力が少なすぎる」
「せっかく勝機が届いたのにか」
「遅すぎた!」
イヴォワール魔術師が叫ぶ。
「何度も言わせるな。もう遅い。遅すぎた。これが王宮に赴く前に届けられたら、魔女オプシディエンヌの拘束は可能だった。逆転の切り札だった。だが、もう手遅れだ!」
風の加護の薄い空気に、何もかも打ち付けるような叫びが轟いた。
そして沈黙。
クワルツさんもエグマリヌ嬢も何も喋れない。
わたしだってこの場にいたら、なにを喋ればいいのか分からない。
「む。そこに誰か来る」
クワルツさんの視線が、外に向けられた。
視線を向けられた月面が、緩み、泥濘み、波紋する。
「あれは東方魔術【縮地】だ」
イヴォワール魔術師の説明が終わると同時に、ミルククラウンめいた波紋が月面に広がり、ひとのかたちに結ばれていく。
銀に艶めく黒髪、二十歳ほどの女性の姿。
スティビンヌ猊下だ。
ボディが修復できたのか。
相変わらず素敵な衣装。
東方大陸の民族衣装で、飾り気は一切無し。だからこそ布地の美しさが引き立つ。使われている絹は濃緑なんだけど、光が差し込む角度が変わると冴えた銀色に輝く。苔に降りた霜みたい。
まるで冬の大樹の精霊だ。
「や、お三方。百年ぶりさね」
茶目っ気いっぱいのウインクは、シリアス空気をぶち壊すに充分な威力だった。
「新しい魔導ゴーレムをもう完成させたのか?」
「このボディはプロトタイプさね。こっちのボディは兵器が仕込まれてないし、自爆システムもないからつまんないさ」
スティビンヌ猊下は肩を竦める。
………ということは最初、会った時の魔導ボディは、自爆システムが組み込まれていたのか。
豪気だなぁ。
「ほお、予備のボディがあったのか。それは重畳。復帰の見通しが立たんとか言っていたが、早かったな」
「見通しが立たないのは、あたしのダーリンの動向さ。このボディに魔力供給してもらうなら、ダーリンじゃないと嫌さね」
ひょっとして魔導ゴーレム起動させる魔力、【房中術】で賄っているのかな。
旦那さん、東方系魔術師だって言ってたもんな。東方魔術【房中術】が使えるのかも。
「剣仙ロイ・エン・シャンさまご帰還されたのですか?」
イヴォワール魔術師の顔にあった鬱が、一気に晴れていた。
スティビンヌ猊下の旦那さんって非常事態に役に立つタイプなのかな。
「やっと戻ってきたさね、あの風来坊。今まで時代錯誤な武者修行してた分、魔術騎士団の面倒ごとを片付けてもらうさよ。これで鎮護魔術師たちの捜索が、組織立ってできるようになるさね」
めでたい知らせだな。
助けにきてもらえるならありがたい。わたし今、魔力と両腕が無いから。
硝子と金属の眼が、エグマリヌ嬢へと向けられた。
「エグマリヌ伯爵令嬢。ずいぶん顔色悪いさね。捜索は進むさよ。それとも螺旋観測所の空調、淀んでいるさね?」
「いえ、ディアモンさんの指が直らないと、伺ったものですから………」
エグマリヌ嬢は雪めいた膚を蒼褪めさせる。もう唇なんて氷細工みたいじゃないか。喋るたびに、氷片が散りそうだ。
だけどスティビンヌ猊下の唇は、笑みを描いていた。
「落ち込むことないさね。ディアモン魔術師を回復させる手段は、今日ないだけさ」
「では明日には出来ると?」
クワルツさんが詰め寄る。
「この世に魔導銃や魔導兵器を産み落としたのは、誰だと思ってるさね。あたしは稀代の天才魔導発明家さよ」
たしかに発明家ってのは、発明するから発明家だものな。
スティビンヌ猊下は天才的な兵器発明家だ。
その魔導ゴーレムを人と見紛うほど進化させ、己の義体として利用している。
もしかして義手を作ってくれるのかな。
「猊下が義肢を製作して頂けるのか?」
わたしがしたかった質問を口にしてくれたのは、イヴォワール魔術師だった。
「義肢じゃないさね。それに義肢の素材のオリハルコンが、古代魔術にどう干渉するかデータ不足さよ。義肢じゃなくて、別のアイディアがあるさ。とにかく予算と倫理が歯向かってこないなら、あたしはこの世に存在しないものだって産み落としてみせるさね」
スティビンヌ猊下は自信たっぷりにウインクした。
「ただ問題があるさ」
「予算か? 資金なら盗んでくるぞ」
怪盗の美学はどうした?
盗んだ金で遊んでも楽しくないって言ってたけど、これは遊びじゃなくて切羽詰まってる事態だからいいのか?
「頼もしい言葉だけど、賢者連盟は無制限にしてくれたさ。世界鎮護魔術師の保護は最優先だし、ディアモン魔術師は次期賢者候補さよ。そこでケチりはしないさね。問題はひとつ、産み落とした発明が倫理に抵触するか、あたしには分からないのさね」
スティビンヌ猊下は微笑んだまま語る。
瞬かない瞼。
動かない焦点。
作り物の目玉が、みんなを映している。
映しているだけだ。
スティビンヌ猊下の内側を、なにひとつ見せていない。宿る魂さえも、無機質になってしまったんじゃないか。
あたたかみを欠いた笑みのまま、口を開く。
「あたしの脳髄に湧くのは、発明だけさ。倫理や慈悲は不得意さね。だからディアモン魔術師の友人たちに伺いにきたさね。怪盗と騎士さま、あたしの思いついた指の蘇生方法を、ほんとに実行していいかどうか教えてほしいさね」
耳が痛くなるほど静まり返る。
月の海原は、鏡のように凪いでいた。




