第十八話(前編) 元の世界に帰還?
わたしの部屋のお布団。
手の届くところに、ゲーム機。壁には漫画と資料集が詰まった本棚。
………………夢。
そうだ。わたしはゲーム『モン・ビジュー』の中に入った夢を見ていたんだ。
えらい長くて楽しい夢だったな………
入学して、冒険して、試験を受けて。
それからゲームシステムじゃできないこと挑戦したり、攻略キャラじゃない相手とキスして。自分の願望が駄々洩れだった気がする。
わたしオタクなんだけど、腐女子や夢女子じゃなかったはずなのに………
そんなに深層心理で、オニクス先生に萌えてたのかな。
いや、最近買った同人誌の影響かも。
薄い本が詰まった本棚をちらっと見る。
最近手に入れた同人誌は、絵柄はめちゃくちゃ愛らしいが、内容は男性向け。エロ方面に実用性が高いタイプだった。
冒頭はフォシル×ミヌレの甘酸っぱい恋愛漫画だけど、寝取られでオニクス先生に凌辱と調教の限りを尽くされる話だよ。
可愛い絵だから買っちゃったけど、キャラ解釈がなぁ。オニクス先生が鬼畜なのはそういう解釈するひといるよなって許容範囲だけど、ミヌレってあんな脳みそふわふわパンケーキじゃねぇと思うんだけどなぁ。
なにより引っかかったのは、世界観設定だよ。
魔術と魔法は違うのに、ごっちゃにしてんのが激マイナス。この描き手、未プレイってほどじゃないけど、あんまりやり込んでねぇな。はー、許せん。
対抗意識的な気持ちが、あんな夢を見させたのかも。
わたしはパジャマのまま部屋を出る。
一階のキッチンでは、母がフライパンをコンロにかけていた。
「ミカちゃん、きょうはお蕎麦でいい?」
「やったァアア」
母がフライパンから、お蕎麦のガレットを出す。
お蕎麦ガレット、これこそわたしの愛する主食だ。半熟卵を乗せて、お蕎麦の風味を味わう。
テーブルの横に分厚い封筒があった。
「えっ、なんか届いてるじゃん。あっ、外伝のノベル? 言ってよ!」
ガレットを平らげる。
「汚水捨てるのあとでする」
どの家でもそうだけど、流しの下には汚水バケツが仕込んである。汚水を外の空き地に捨てる仕事は、わたしの役目だった。でも今日はそんなことしていられない。
わたしは部屋に戻って、封筒を開ける。注文していたゲームの外伝小説。
三冊、一挙刊行だ。
一巻は『戦争の梟雄』、二巻が『闇の教団』、三巻が『邪竜の覚醒』。
わたしはページを開く。
舞台は、飛び地の鉱山。
主人公は、鉱山奴隷の少年。
親の無い少年にとって、鉱山での酷使と使い捨てが世界のすべてだった。どれだけ働いてもひどく硬いパンだけを与えられる。たったひとりの姉は年頃になって、人買いに売られた。
家族とともにあることさえ儘ならない。
それが当然な日常だったが、戦争が始まった。
激化し、長期化し、徴兵年齢は引き下げられる。少年は規定年齢に達していなかったが、背丈が高いため徴兵された。
武器を与えられて、敵を殺すたびに、与えられるパンは白く柔らかくなっていた。
殺意もない。
祈りもない。
絶望も理想もない。
落盤で死ぬかもしれない鉱山も、殺されるかもしれない戦場も、少年には等しい。
片目を失っても尚、敵を殺し続けた。
戦場で生きて三年。十四歳になった彼は、部隊長代行までも務めるようになった。
「武器と物資を押収しろ」
燃え盛る煉獄。
隻眼の少年は、部隊に己の指示を行き渡らせる。
「部隊長代行。どうして兵士が難民に化けてるって、分かったんですかね」
「分かるさ。私は初陣で、片目を戦場に置いてきたからな。地獄はよく見通せる」
稚気を含んだ笑みと声だが、それを笑えるものなどひとりもいない。
彼は誰より強く、誰より先を見通していた。敵の軍隊の策略も読み通し、本陣も知り尽くし、勝利を齎していく。
「戦争はいいものだな」
少年の呟きに、笑って返した男がいた。
「ま、暮らし向きは楽になりましたな。楽にならんやつは死んだ。多少は胸糞悪いが、飢えて死ぬよりいい」
初老の男だ。年かさではあったが、体つきは隆々としている。肌はもともとホクロや赤痣が多く、さらに裂傷や火傷痕にまみれていて、まるで斑の岩石だった。
腰回りに下げられた銀のダガーや鉈型ナイフは、よく手入れされた鉄の匂いをさせている。
「ガブロ? きみには後方を任せていたはずだが、本土のお偉方でもおいでなさったか?」
「さすが隻眼どの。とうとう本土が本腰入れなすった。騎士さまが部隊長代行に会いたいと」
「こっちにこいと言ってやれ。私は忙しい」
部隊長代行。
本土の騎士とまみえるほどの地位だった。
「本陣に行きましょうや、『歯くたびれ』以外が食えるかもしれんでしょ」
「『歯くたびれ』?」
「乾パンのことですよ」
ガブロは快活に笑った。
本陣に張られた天幕で、彼は騎士たちと軍議する。
「敵部隊はここまでの進軍で、消耗しているのは間違いありません。我らが戦略的撤退をすれば、敵部隊はこの村で略奪を行うでしょう。陣を張るより略奪に浮かれるのが兵士の心理。思う存分略奪させて、その間に、部隊を後方へ回します。伝令兵の分断。しかるのちに敵部隊へ襲撃を」
少年は地図を前にして、滔々と語る。
「勝利に近い手段かもしれんが、非道を歩むことは出来ん」
断ったのは、騎士だった。
美しい金色の髪に、端正な面持ち。貴族として優雅さと、騎士としての威厳を持っている。
「国民の命を餌にして、敵を倒すなどあってはならん。正々堂々と村の街道前で陣を張る」
「エリオドールどの。戦力の彼我差を承知の上で」
「むろんだ」
「何故。私の作戦のほうが、兵士の損傷は少ない」
「無辜の民を、平和の礎にするわけにはいかん」
「兵士にも命や帰る故郷があります」
少年の言葉に、騎士エリオドールは僅かばかり顔を顰めさせた。
「それでも民の平和を守りたい。国とは民あってこそだ」
「分かりました」
少年の返答に、エリオドールはほっとしたように息を吐いた。
「あなたは不要だ、エリオドールどの」
少年は腰のエストックを抜く。
予備動作など一切なく、呼吸より早く、騎士の胸を貫いた。周囲の供回りが状況を呑み込むより早く、彼は従僕たちの喉を貫き、殺す。
凄惨な血が、天幕の内側を染めた。
「何を、きみは……」
騎士エリオドールはまだ息が合った。寸前で心臓を躱したのだ。
「勝利の邪魔だ。あなたは退場するがいい」
少年はエストックを握り、騎士の片目を貫いた。悲鳴と血飛沫が弾ける。
天幕は沈黙が下りた。
もはや生きているのは少年ひとり。
「ストラス! 用意しておいた捕虜を持ってこい」
少年の声が響く。
ストラスと呼ばれた中年の従軍文官が、縛った敵兵を連れていた。
凄惨な現場を目の当たりにした途端、ひどく挙動不審に陥る。彼は文官であって、武官ではないとはいえ、度が過ぎる臆病さだった。
「これはいかがした? エリオドールどのは?」
「騎士のエリオドールどのと、従僕の方々は、この暗殺者に殺された。いいな」
その言葉を吐くと同時に、エストックが捕虜の喉を貫いた。
「指揮はこれまで同様、私が取る。撤退だ」
「本当に勝てるのですか?」
「私が指揮して負けるなど、あり得ん」
隻眼の少年は、部隊の指揮を執る。
隻眼のオニクス。
敵に回したくはないが、味方にしても胸糞悪い。
裏で悪態を叩かれながらも、彼は勝利し続けた。
パンのために戦っていた彼は、ただ勝つために戦っていた。
激化する戦争に、腹心だったガブロも負傷する。
隻眼のオニクスは、書類仕事で本陣の机に齧りついていた。不慣れではあるし不愉快であったが、不得手ではなかった。
「ガブロ。きみを名誉除隊として申請する。推薦文も書いた」
「書類仕事がお嫌いな隻眼どのが、これはまたお珍しいことで」
「パフォーマンスだ。きみほど活躍して見返りがないとなると、残された部隊が弛緩しかねん。一度、部隊が離散しはじめたら、どんな将でも歯止めは効かせられんからな」
「どうせワシは本国に帰るんですし、適当に申請だけしておけばよろしいのでは?」
ガブロの軽口に、オニクスは睨む。
「私が出世したあと、恩着せがましくたかられても厄介だ。恩は返しておく」
失われた片目を指先で叩く。
初陣で目を失った彼を、本陣まで引きずってきたのはガブロだった。
「ワシの些細な恩など。勝利を齎したのは隻眼どのですよ」
「分かっていればいい」
尊大に応えるオニクス。
「隻眼どの。もし出世に倦んだら、ワシの故郷に顔を出してください。美味いスイカが採れるんですよ」
「スイカが美味い……?」
スイカの味を思い出して、顔を顰めた。
彼にとってスイカとは、えぐさと青臭さの凝固物である。水分補充のために口にするだけのものだった。
「飛地のスイカは野生ですからな。ありゃロバの餌にしかならん代物ですが、本土のスイカは品種改良されててそりゃ美味いんですよ。水気のある果肉は、そりゃもう見事に真っ赤なんですわ。塩をちぃっと振ると、そりゃもう美味いもんですよ」
「気が向いたら行ってやってもいい」
「ついでに孫の頭を撫でてやってくれませんかね」
ガブロの言葉に、オニクスは皮肉な笑みを浮かべる。
「私に頭を撫でられるなぞ、縁起が悪い事この上ないな」
親も師も無い少年にとって、ガブロはささやかだが良心だった。
ほんとうにささやかではあるが。
その僅かばかりの良心さえ失って、少年の戦術はますます悍ましく容赦なく薄汚いものへとなっていった。
十六歳になった年、勝利によって終戦した。
オニクスはまだ若い、否や、老獪な廷臣たちからすれば、幼いといってもおかしくないほど年齢であった。
時の国王ピエール18世は、この幼い軍人を育てようと思った。正規に戦略用兵を学ばせれば、将軍職に就ける人材だろうと判断したのだ。立憲君主国となって王権より議会が力を増した時代に、議会や軍隊に対して反抗の気持ちがなかったわけでもない。
国王は彼を宮廷で学ばせるために、叙勲し、俸禄を与える。
飛地の奴隷から、彼は、宮廷の寵臣までの地位に昇った。
己の武勲と才能を鼻にかけ、驕慢の春の盛りを迎える。
宮廷の蛇蝎と忌み嫌われることさえ、彼にとっては歓喜であった。
そして十七歳になった彼は、麗しきエトランジェと出会う。
オプシディエンヌ・フロコン=ドゥ=ネージュ。
国王ピエール18世の公妾。絶世の美貌に、黒と白の瞳。
彼女の黒髪の艶やかさは鏡の如く傍らの人間が映り、その豊かさといえば寝床から起きて化粧台に腰かけてもまだ髪は枕元に残った。その蜂蜜肌の豊満な姿態からは、つねに甘い蜜の香りが漂っていたという。
宮廷では彼女が華であった。
「どうか妾と踊っていただけませんか」
蛇蝎である彼に、オプシディエンヌは手を差し伸べた。
国王の舞踏会で突っ立っていただけの彼は、断る文句も思いつかず、彼女の手を取った。
「蛇蝎と呼ばれる私に構うとは、悪趣味だな」
「妾がどれほど貴方さまに感謝しているか、ご存じないのかしら。貴方さまの戦果が、妾を救ってくださったというのに」
「私の戦果と貴方になんの関係が?」
「妾は国王の公式な愛妾。優雅な身分だと思われます?」
「ああ」
オニクスは迷いなく頷く。
手入れされた黒髪に、苦労一つ知らない指。蜂蜜色の肌に飾り立てられた宝石は、すべて最高の護符であった。
「でも隻眼の御方。公妾とは生贄なのですよ」
憂いに潤んだ眼差しだった。
「政治も戦争も人が行う限り、失策がございます。悪意や怠慢は少ない。状況を正確に把握できなかったゆえ、突発的な事態が重なったゆえ、人手が足らなかったゆえ、予算が少なかったゆえ、あるいはそのすべてゆえに、国は失策するのです」
「痛感している」
「だけど国民はそう思いません。陰謀だの、怠惰だの。どこかに犯人がいるのだと思うのです」
「ただの失敗を謝られたら、石を投げられんからな」
「民草は愚かなるもの。ゆえに生贄が要るのです。財政が悪化したのは公妾が贅沢したゆえ、戦争に負けたのは公妾が唆したゆえ。そして断頭台に上げて、国民の留飲を下げるのです」
「生贄か……」
「もしこたびの戦で敗北していたら、妾の首はどうなっていたかしら。高貴なる方々を愚かな怒りからお守りするため、妾は断頭されるのです。それを救ってくださったのが貴方さま」
その微笑みは麗しく、そして哀しげであった。
オニクスはほんの少し心を許した。
寵愛深い公妾といっても、断頭台に上げられるための奴婢に過ぎないと知って。
澄み渡った午後の庭園。
国王のための薔薇園だったが、オニクスは入ることを許されていた。特権を享受するため、そして独りになるためにやってきた。
先客がひとり。
オプシディエンヌは供回りも連れず、蔓薔薇のなかに腰を下ろしていた。繚乱の中に沈む寵姫は、あたかも一幅の絵画であった。芸術を解しないオニクスだったが、足を踏み入れ難い空気を感じてしまう。
白い鸚鵡が、彼女の傍らに留まる。
剥製めいていたが、嘴が動いた。
「我ガ主。我々ハ、城下近くニ宿ヲ取っております」
「分かったわ。城下に入ったら、また連絡をちょうだい。婆やの占いで見てほしい子がいるのよ。妾では占いきれないの」
オプシディエンヌはそう語って、己の舌を針で傷つけた。鸚鵡に舌の血を啜らせる。
血を食み、飛び立つ白い鸚鵡。
どこかぎこちなく翼を羽ばたかせて、晴天へと飛んでいく。
オプシディエンヌは鸚鵡と会話していた。
何か見てはいけないようなものを見てしまった。直感的にそう感じたオニクスは立ち去ろうとする。だが咲き誇る蔓薔薇がそれを許さなかった。産毛ほどでも棘は棘、オニクスの裳裾に絡みつく。
オプシディエンヌは彼に気づく。
「隻眼の御方? 鸚鵡をご覧になられましたのね? どうかこのことはご内密に……」
「何故?」
オニクスの問いかけに、彼女は黙って長い黒髪をしばらく指で梳く。あたかも竪琴を奏でる指使いで、薔薇園に無音の音楽が満ちるようだった。
「あれは獣魔術【鸚鵡】。妾の魔術は、この国で異端とされるもの」
オプシディエンヌは、魔女だった。
異端を秘して、宮廷にいた。
「もしよければ魔術をお教え致しますわ」
魔術。
力を求める彼にとっては、魅力的な単語だった。
「興味がおありなら、妾のブドワールにいらしてくださいませ」
ブドワール。
意味としては『淑女の小部屋』である。
貴婦人はこの部屋で、身支度を整え、手紙を書き、親友とお喋りするのだ。
夫婦の寝室とはまた別の性質を持っており、淑女のためだけの空間であった。ゆえに許しがなければ夫であっても、国王であっても、立ち入ることは許されない。
それほどに私的な空間だった。
隻眼のオニクスは、彼女から魔術を学ぶ。
それが宮廷でどんな目で見られるか、彼は考えていなかった。どんな噂が立つか知っており、認識もしていたが、その先を深く考えていなかったのだ。
十七になったばかりの青年が持つ絢爛たる驕りなど、誰が歯止めをかけられよう。
彼の地位など、春の夜の夢の如く儚いものだったのに。
どんっ………
わたしの手から、小説が滑り落ちる。
「ふへっ?」
「やっときみの精神にアクセスできた」
本を弾いたのは、オニクス先生だった。