序ではなく伝説 聖娼ネフィラ・ジュラシカ
エーテルが凝って雫となり、原始の大海原へと打ち付けていました。
砂浜に落ち、海に散っていきます。
モノティス貝の群生地である浜辺にも、雨が降ります。
そこには漆黒の貝が、ひとつだけありました。
いいえ、いいえ、貝ではありません。よく似ていますが、あれは卵です。
この世でただひとつの卵です。
漆黒の卵が、罅割れます。
その浅い亀裂に、エーテルの天雫が注ぎ込まれました。ひとつ、ふたつ、そしてみっつ。黒い卵にエーテルが染み渡ります。よっつ、いつつ、そしてむっつ。
小さな音を立てるたび亀裂は深くなり、ついに黒い卵が割れました。
産声を上げたのは、ちっぽけな蟲です。
月の無い夜が凝ったような蟲でした。
黒髪を頭部から垂らし、八つの単眼を爛々と光らせて、八本の脚で殻から這い出します。
小さな小さな蟲は、生まれてきた意味も与えられず、生きていく理由も持ちません。ただ生きる手段だけは、本能的に知っていました。
蟲は八本の脚を器用に動かし、自分の黒髪を編みました。髪を布のように編み上げて、風を捕えて飛びます。エーテルを孕んだ重い風を受けて、気球のように彼方へと飛んでいきました。
風の強い夜には飛び、雨降る朝は泳ぎ、乾いた昼は這います。
苦難の旅でした。
エーテルと泥の沮洳地に足を蝕まれても、暁盗竜エオラプトルの群れに腹を啄まれても、水龍獣リストロサウルスに踏みつけられても、火霊竜サラマンダーの炎で焦がされても、なお進みました。
蟲の本能だけで、進むべき道を進み、目指すべき地を目指しました。
見守るのはふたつの月だけでした。
幾度か白い月が欠けて満ち、黒い月は昇り沈み、幾つもの引き潮と満ち潮を渉りました。
八本あった脚は何本か千切れ、八個の単眼はひとつ以外すべて潰れてしまい、もはや肉体は残骸めいていました。
なんともまあ気が遠くなる遥かな旅路でした。
ですが旅路の果てに、ついには望みの地へと辿り着いたのです。
美しいバイエラ樹の森。
その森の奥底に、とても白くて清らかなものが歩いていました。
白い仔です。
白い仔は、黒い蟲と違う胎から産まれた双子です。とはいえ弱々しい個体です。瞳はふたつしかありませんし、手足合わせて四本しかないのです。しかもなんて柔らかそうな皮膚。あれではすぐに喰われてしまうでしょう。
黒い蟲は嗤いました。
とても嬉しかったからです。
あれを食えば、己は完全になると知っていたからです。
黒い蟲の髪が伸びます。黒髪は金に輝きながら、編まれていきました。規則正しく編まれた輝く糸に、白い仔は囚われます。
そして黒い蟲は、白い仔へ鋏角を突き立てました。
まさに一瞬。
この一瞬のために、黒い蟲の長い旅路があったのです。
黒い蟲は喰らいました。白い腹を喰い破り、白い骨を噛み砕き、白い漿を飲み干しました。
生まれて初めて、腹を膨らませました。
今までどれだけたくさんの貝や卵を喰らっても満たされてず飢えていた腹が、はじめて満たされたのです。
次に起こる肉体の変化を、蟲は本能で知っていました。
脱皮です。
しかし脱皮を成功させるためには安全かつ、快適な寝床が必要です。
竜や獣が跋扈している世界では、なかなか手に入らないものです。
黒い蟲は膨れ上がって肥大した腹を引きずり、ひとつだけ残った単眼を眇め、欠けた脚であちらこちら這いまわりました。どこもかしこも寝床にするには貧弱でした。
寝床は見つかりませんでしたが、『人』を見つけました。
獣でもなく、竜でもなく、虫でも魚でもない生き物たちです。
後世、第三人類と呼ばれる生物でした。
精霊が意思を宿し、受肉し、進化してきた生命体です。獣弓類と分類される肉体を持っています。
人類という不思議な生き物たちは、喉から発する音で意味を紡ぎ、意志や感情を伝えあっていました。
黒い蟲は良いことを思いつきました。
ここでいう良いとは、蟲にとって利点があるという意味に過ぎません。公平な観点からは、良いとは言い難いものでした。
蟲は人に近づきます。
そして森羅万象のありとあらゆることを教えました。
炎の熾し方や、水の清め方、風の掴み方、土の耕し方、海の渡り方、空の飛び方、字の書き方、詩の吟じ方、病の癒し方、獣の捌き方、竜の殺し方、星の読み方、夢の解き方、魔法の使い方までも教えたのです。
意思疎通しあえる集団生物を丸ごと奴隷にして、安全で快適な寝床を作らせるためです。
黒い蟲は人類に、知恵を齎し、技術を教え、恐怖を与え、快楽を授け、そして神殿を造らせました。
これはのちの世で、レムリア文明と呼ばれるものの基礎となりました。
人類が建てたのは、稚拙な神殿でした。
黒い蟲は気に入らず、何度も何度も作り直させました。長い旅のせいで外殻が罅割れていましたし、残った脚も千切れかけていましたが、それでも完璧を求めて作り直させました。
腹違いの双子を食べたおかげで満腹でしたが、遅々として進まぬ普請にはらわたが煮えくり返ってきます。単眼に浮かぶ怒りは隠しきれていません。
恐れおののく第三人類たちは、己が産んだ卵や、殺した敵の心臓を献上して、蟲のご機嫌を伺いました。
蟲は献上された卵や心臓を啜りながら、神殿の完成を待ちます。
それから百年でしょうか、二百年でしょうか、それともさらに三百年、いえいえもっとでしょうか。
世代は移り変わり、奴隷は増えましたが、満足いく出来とは程遠いものです。
ですが技術はなくとも、奴隷たちの心の底には美しい神殿が生まれていました。
理想郷、あるいは魔法空間とも呼ばれる存在です。
黒い蟲は人類から、魔法空間を引き出させました。
引き出した奴隷を殺せば、魔法空間は安定します。何千人、何万人もの奴隷から魔法空間を引き出し、殺して、顕現した空間を組み合わせていきました。
ついに完成しました。
天に届くほどの階段と、地を貫く支柱で作られた極彩無限の大神殿です。
これこそ黒い蟲のための揺籃でした。
己が占座するに相応しい祭壇が完成して、ご満悦でした。
祀られた蟲はさらに糸を紡ぎ、繭を織り、己のための寝床を作ります。そして生まれて初めて眠り、ゆっくりゆっくりと脱皮しました。二度目の孵化ともいえる大掛かりな脱皮です。
無防備な状態でしたが、恐怖と快楽と叡智に溺れた人類は、蟲の聖域を侵すことはありません。
侵すどころが守り抜きました。獣が迷い込んでも、竜が襲ってきても、聖域を守ったのです。ときどき人類はお互いに、己こそが最も蟲の役に立っていると言い争い、己こそ蟲に近しいのだと争いを繰り広げたりもしました。
血がいくたびも流れましたが、聖域は眠り続けました。
長い月日をかけて蟲は脱皮し、とうとう新しい肉体の輪郭を手に入れたのです。
瞳はむっつ、手足は合わせて八つ。黒曜石めいた髪がどこまでも豊かに流れ、首も腹も細く、蜂蜜色の皮膚は柔らか。背筋に細長い心臓が脈打ち、乳房の下にある書肺はエーテルを吸います。
第三人類の心臓や卵を食べていた影響で、姿かたちは人類に似ていました。竜や獣と比べて、見かけは強くなさそうな肉体です。
ですが余りある魔力と、途方もない寿命を宿したのです。
もうちっぽけな蟲ではありません。
偉大な蜘蛛です。
繭から這い出して、祭壇から降り立ちました。
随分長い年月が経ったため、大神殿には大樹の根が張り、羊歯がはびこっていました。石床も苔生していました。脱皮したての柔らかな肢たちにとって、心地よい湿り気です。
大神殿の闇から出て、太陽の日差しを浴びました。
そして黒い眼と白い眼で、世界を見渡します。
緑濃き大樹林を切り開き、増え続ける神殿。さらに姿が多様化した竜。そして己を崇め奉る人類たち。
脱皮している間も、人類は増えながら蟲を崇めていたのでした。
人類は歓喜で、蜘蛛を出迎えます。
「めでたきや、復活せし、復活せし、占座せし蜘蛛の御方」
「大密林に占座せし蜘蛛さま!」
己以外はすべて糧。
己以外はすべて奴隷。
生けるものはすべて己の狂信者、死せるものはすべて己のための殉教者。
これぞまさに絶対的なる至福の世界。
蜘蛛は嗤いました。
腹の底から嗤いました。
これでもまだ満ち足りなかった己に、嗤いました。
もっと魔力を。
もっと知識を。
全知全能を求める蜘蛛は、考えを巡らせました。
蜘蛛は腹違いの双子を喰らい、圧倒的な力を得たのです。
己の祖を喰らえば、さて、どうなるのであろうか。