幕間 フォシル
フォシルは目付きも悪くぶっきらぼうだが、正義感の強い少年だった。
馬に対しては愛情深く、仕事に責任感もあり、技術も確か。このまま大人になればお屋敷の厩舎長か、あるいは馬車宿をなり馬牧場なりを経営する立場になれただろう。
彼の悲劇は、ミヌレに一目ぼれしてしまったところから始まった。
初恋だった。
ミヌレの美しさや愛らしさは、故郷にいる仔白馬を思い出させた。
鉱石色の髪はきらきら輝き、四肢は生き生きと弾む。
寝る前にミヌレを思い出して胸が締め付けられたり、女の子たちの声が聞こえればミヌレがいないか探してしまう。馬を放牧場に連れていく時も、学院に近い道をゆっくりと歩くのが日課になっていた。
ミヌレと一緒にサーカスを見に行けたら、可愛いアクセサリーをプレゼントできたら。
妄想するだけでなく、フォシルは小遣いを貯めはじめる。普段なら、菓子に消えてしまう小遣いだ。育ち盛りの勤労少年が菓子を買い控えるのは忍耐が必要だっだが、それでもフォシルはやり遂げた。
もしもミヌレが清掃女中や皿洗い女中として学院に訪れたなら、フォシルはとっくに告白していただろう。
だがミヌレは女生徒だ。
使用人から話しかけるなど、エクラン王国の常識では考えられない。まして告白なんて出来るはずがない。
だから距離を詰めてきたのは、ミヌレの方だった。
あれは秋のはじまり、クエッチの実が紫に色づく頃。まだミヌレが学院に来て間もなくだった。
「フォシルくん。教えてほしいことがあるんです」
学院の女生徒に話しかけられるなど絶無だ。
女生徒から感謝の言葉を貰ったり、雑用してチップを受け取ることはある。だが雑談を振られるなんて無い。まして教えてほしいとお願いされることなど、あり得なかった。
ぽかんとするフォシルに、ミヌレは物怖じなく近づく。石鹸の香りがした。貴族が使う良質の石鹸の匂い。
「夜光蛾の集まってる場所が知りたいんです。フォシルくんから聞くイベン……じゃなくて、フォシルくんならきっと私有林のことも詳しいと思って」
知ってる。
私有林の湧き水の近くに、夜光蛾が集まる大樹がある。
「そんなもんどうするんだよ、標本にでもするのか?」
「魔術のインクに使いたいから、捕まえたいんですよ。思いっきりたくさん」
「危ないから連れて行ってやるよ」
「ほんと! ありがとう」
満面の笑みを浮かべるミヌレに、フォシルの心臓は高鳴った。
ふたりきりで、誰にも内緒で、真夜中の森へ行く。
秘密のデートだ。
頼りない月明りの下で歩くミヌレは、闇に押しつぶされそうなくらい小さく見えた。夜光蛾に照らされているミヌレは、消えそうなほど淡く見えた。
夜が更けるたび、ひらりひらりと集まる夜光蛾。
その鱗粉には、ごく微量ながら光の魔法が含まれているという。
「綺麗。夜光蛾って夢みたい」
「夢みたいって。口癖か?」
「………だってわたし、いつまで夢を見ていられるか分からないから。明日には、もう、ここにいないかもしれない」
ミヌレは項垂れた。
彼女は給費生だ。
成績が悪くなれば在学資格を失う。
もし成績を保っても、彼女は庶民。
上流階級の人間は、基本的には親切だ。
ただし分を弁えている場合に限る。身分を越えようとすれば、周りの貴族や財閥からどう扱われるか。それを想像するとフォシルはぞっとした。
自分がミヌレを守ってやりたいと思った。頼られたいと思った。ミヌレが困っていたら手を差し伸べ、ミヌレに敵がいるなら拳を握る。そんな自分の姿を想像すると、フォシルの心臓は鷹が羽ばたくように鼓動した。
力強い心臓の高鳴り。
それは勇気だ。
フォシルはミヌレの勇者さまになりたかったのだ。
もし初恋が破れたとしても、その相手がフォシルの納得できる男ならば、ほろ苦い思い出になるだけだった。
ロックのように腕力や、レトンのように財力、クワルトスやサフィールのように社会的地位や外見。フォシルの基準で敗北を受け入れられる相手なら、運命はここまで捩じれなかった。
捩じれの源は、一角獣。
一角獣に刺されたミヌレを手にしたのは、オニクスという教師だった。
闇魔術の教師オニクス。
優秀らしいが、言動は毒ばかりで、誰からも忌まれている。
フォシルからすれば、オニクスは悪の魔術師だった。
給費生というミヌレの弱い立場に付け込んで、不適切な行為を強いたと思い込むのに、オニクスの見た目と噂は十分過ぎるものだった。疑惑は妄想を喰らって膨れ上がった。
レトンという商人上がりの監督生に訴えたが、話にならなかった。むしろミヌレの方がオニクスを誘ったのではないかと、直接的には口にしなかったものの、そんなニュアンスの意見をうっすらと醸していた。
エグマリヌもいたのだが、そもそも女と協力するという案がフォシルになかった。
己がミヌレを助けねばならない。
己しかミヌレを助ける男はいないのだと、そう思い込んだ。
可憐な少女と、毒牙にかけた魔王。
勇者が挑み、魔王を討ち果たし、姫君を助ける。
なんとも分かりやすい構図だった。
事情がフォシルの思いついた通りの構図であれば、この話はめでたしめでたしで終わったのだが、この世界には魔王も勇者もいない。
ただ、魔女はいた。
魔女オプシディエンヌ。
ミヌレを捕らえようと画策していたオプシディエンヌは、まずフォシルを使って威力偵察することにした。ミヌレはどんな戦術を選ぶか、ミヌレの味方の力量はどのくらいか、そしてミヌレに対して【封魔】がどこまで通用するか。戦術のための偵察だ。
王姫プラティーヌとして、フォシルに【封魔】の護符を与えたのだった。
魔女の呪物。
だがフォシルからすれば、まさに聖女からの福音。勇者としてお墨付きをもらったに等しい。
これでミヌレを助けられる。
ミヌレの勇者になれるのだと思った。
思慮の無い恋慕と、知恵を欠いた勇気は、当然の如く暴走した。結果、権力に睨まれ(相応の罰と言うべきだが)、フォシルは修道院へと追いやられたのだった。
助修士という雑用係だ。
巡礼者しか訪れない辺境の修道院で、無償奉仕せねばならなかった。何年と厳密に決まっていなかったが、少なくともミヌレが学院を卒業するまでは、修道院預かりになると決定した。
それでも学院長たちが表沙汰を避けたため、女生徒を拉致監禁した罰としては軽い処置であった。
フォシルは厩舎雑用に回された。
自給自足の修道院には、農地を耕すための農耕馬と、数頭の馬車馬、そして騾馬が溢れんばかりにいたのだ。
馬の世話や馬具の手入れは、フォシルにとって幼い頃から慣れた仕事である。
だが修道院の生活は、世俗より厳しい。
夜明け前の三時に起床し、祈り、働き、祈り、働き、祈り、そして陽が沈むまで働く。
学院に居た頃のように、休日に繁華街をうろついたり、屋台で買い食いしたり、旅芸人を冷やかすことも出来ない。同世代もおらず、夜更けに雑談もなければカードゲームに興ずることもない。娯楽品の所持は禁止されており、通俗雑誌さえ手に入らない。自由といえば眠る前の僅かな時間、家族への手紙を書く程度。
祈りと労働だけの世界だった。
それでも馬が何より愛するフォシルは、厩舎で身を粉にして働いた。
十代の若者の一年は長い。
ミヌレとの恋や波乱(横恋慕と騒動と言うべきだが)が夢だったと思うほど、修道院の生活に慣れてきた。ちょうどその頃だった。国王崩御の訃報が、辺境の修道院まで届いたのは。
病にて崩御。
ピエール19世はまだ若い。予期せぬ出来事であったが、王位の継承順位は確固たるルールに則っている。叔父のディアスポール公爵が継ぐ。誰しもそう思っていたが、継いだのは還俗したヴェルメイユ枢密卿であった。
女王ヴェルメイユ即位。
ディアスポール公爵と王姫プラティーヌは、ともに黒壊疽による後遺症のため継承ご辞退。王姫は修道院に入れぬほど弱っており、名門伯爵家の次期当主へ降嫁が決定。
修道院にもざわめきが走った。
そのざわめきの内容は驚きでも疑問でもなく、喜びと期待だった。
エクラン王国は魔術が手厚く保護されているが、枢密卿であったヴェルメイユが王位を継げば、教会の古き時代の権威も取り戻せるだろう。その期待であった。
静かに熱気が渦巻く修道院。
フォシルはその期待の熱気に入りもせず、厩の仕事を続けた。淡々と、黙々と、ひたすら馬たちのために。そんな真面目な姿勢に、リティオム副修道院長は声を掛けたのだった。
「すまん、フォシル助修士。急だが御者をしてほしい」
「畏まりました」
普段、御者している修道士が腰を痛めたせいで、フォシルにお鉢が回ってきたのだ。
彼は勇者にはなれなかったが、馬丁や御者としての腕前は信頼されていた。どんな暴れ馬も懐き、その手綱さばきは安定している。声をひとつふたつかけただけで、的確な仕事ぶりをしてくれるのだ。
「行き先はどちらでしょう」
「聖ガラリト女子修道院だ」
三百年前、聖王女と讃えられたガラリト王女が設立して以来、ここの修道院長は代々、王族の女性が務める。エクラン王国で最も由緒正しい女子修道院だ。
もしリティオム副修道院長が、フォシルが修道院に預けられた理由を正しく教えられていれば、女子修道院への御者を命じなかっただろう。女生徒を拉致監禁した青年を、女子修道院に連れていくほど副院長は愚かではない。
だが聞かされていなった。
知っていたのは、修道院長のみ。
その修道院長でさえ、詳しい事情を知らなかった。
これは学院長がミヌレの将来的な立場、すなわち世界鎮護の魔術師という地位を考慮したのだ。
学院長が修道院長に伝えた事情は、「横恋慕で狂った使用人が女生徒を監禁したが、その女生徒は卒業後に重要な地位に就くと決まっているため、エクラン王国のためにもごく内々に処理したい」と、それだけだった。
さてこれを受けた修道院長であるが、他国の王侯貴族に嫁ぐことが決まっている高貴な令嬢が、使用人の男に拉致監禁された、と脳内変換した。
そんな醜聞が知れ渡ってしまえば、外交的に芳しくない結果を齎す。それに王立伝統校たるスフェール学院の評価も落ちるだろう。
醜聞を知るものは少ない方がいい。
修道院長は善意と責務ゆえ、事態を曖昧に説明した。副院長や他の修道士に、フォシルは身分の高い相手と問題を起こしたため、数年の預かりになると伝えたのだ。
いったいどのような問題かとリティオム副院長は案じていたが、フォシルの誠実な仕事ぶりを見るにつけ、彼にも何か事情があったのだろうと好意的に取るようになった。
さて、このように事情が伝言されるごとに希釈されて、フォシルは女子修道院へ向かう馬車の御者となった。
聖ガラリト修道院の聖堂は、白い岩石で積み上げられていた。リコルヌの処女雪にも劣らない清廉さだった。真っ白い石は空気を含んだ氷にも似ていたが、温かみがある。山羊の乳が凝たような慈愛含んだ白さである。
だがその美しさを、フォシルは目に映すことを拒んだ。
白い壁とステンドグラス。それは王立魔術学院スフェールを連想させる。何よりミヌレを思い出させる。
記憶に感情が飲まれそうになって、フォシルは奥歯を噛み締めた。
それよりも馬の手入れが必要だ。遠路を走って汗を掻いた馬に、たっぷり水を飲ませなくてはいけない。
「馬水飲み場はどちらですか?」
フォシルが雑役婦に問えば、教会の裏庭のさらに奥だと教えてくれた。
教会の水はすべて天然の湧き水だ。不便な場所にあることも多い。
フォシルは独り手綱を引き、裏手へと駒を進ませる。草木が生い茂っているため、空気も地面も瑞々しい。蹄が草を踏むたびに緑の香りが濃く立ち上り、心地よい風をさらに爽やかにする。まさに薫風だ。
泣き声がした。
湧き水の傍らで、修道女が泣いていた。
若い修道女だ。
フォシルと同じくらいか、せいぜいひとつふたつ年上。
「大丈夫か?」
「誰です!」
修道女は勢いよく顔を上げた。
愛らしい娘だ。肌は百合と薔薇を蕩かしたような瑞々しさ、瞳は大粒のエメラルド。春の花や芽吹きを、ありったけ集めて作った少女のようだ。
だが瞳も頬も、涙で濡れていた。
「ひとが泣いているのに、踏み入って来るなんて無礼だわ。それに、ここは女子修道院なのよ」
「リティオム副修道院長の御者だよ。そこ、どいてくれよ。馬に水を飲まなせないと、くたばっちまうだろ」
馬が微かに嘶いた。
手綱を引き、馬に水を飲ませる。新鮮な湧き水だ。
「………八つ当たりだったわ」
「修道女のばーさんにいびられたのか?」
「違うわ。ここにいる方々は優しいのよ。でも……どうしてあたしは、ここに来なくちゃいけなかったの?」
「無理やり入れられたのか?」
フォシルが口にしたのは、労わりでも慰めでもなく、無遠慮な問いかけだった。
若い娘が修道女になるのは、それなりに理由がある。
それなりの理由とは口にしづらいものがあるのに、フォシルは質問を飛ばしたのだった。
「夫が亡くなった途端、ここに連れてこられたの」
「へ? あんた結構な齢か」
「違うわ。まだ18歳よ。お家同士の取り決めで結婚したけど、すぐに夫が亡くなったの」
「それで修道院にしばらく預けられたのか」
「しばらく? しばらくだったら泣いてないわ! あたしは、ずっといなくちゃいけないの。一生!」
「なんで?」
揶揄も配慮も無い、純粋な質問。
不躾過ぎる問いかけは、彼女の期待とは違ったものだった。感情は嘆きから少し怒りへと揺れ動いた。
宮廷だったら深い事情があると察して、労わってくれるものなのに。
「………みんな、あたしが夫を殺したって言ってるの」
言うと同時に、また涙が溢れ出す。滾々とした湧き水より豊かに流れる涙。
「急なご病気だった。ほんとよ、お医者さまが診察したの。黒壊疽を拗らせたんだって」
栄養が取れておらず、身体が弱っている人間が罹患する病だ。
「旦那に飯を食わせてなかったのかよ」
「違うわ。たまに手料理を作っていたけど、普段は料理長の用意してくれた食事よ。多すぎるくらいだったわ!」
癇癪めいた叫びだった。
「貴族だもんな。食いきれねぇくらいの料理、テーブルに並べてんだろ。だったら何で黒壊疽なんか……」
「あ、あたしが病気を持ち込んだんだって。みんな、そう言ってるの。あたし、孤児院とか老兵院で慈善してたから、そのせいだって。あたしは外国から嫁いだから、信じてくれるひとがいないの。母まで戻って来るなって………エクラン王国の修道院でおとなしくしていろって」
「ひでぇ話」
夫が亡くなったのに、婚家にも実家にも見捨てられた。
無実どころか、慈善活動していたせいで疑われ、修道院に追いやられたのだ。
フォシルの正義感が、怒りのかたちで焚かれていった。
「逃げ出せばいいじゃないか」
あっさり出された選択肢に、エメラルドの瞳が見開かれる。
「だめよ。逃げ出すなんて。お母さまに叱られるわ」
「あんたを修道院に閉じ込めて、知らん顔してる母親に義理立てしてどうするんだよ。何も悪くないんだろ? だったらこんなところに軟禁されることはない」
彼が御者として本分を全うすれば、数年で娑婆に戻れた。
だが彼は、勇者になりたかったのだ。
独りで泣いている無実の修道女を、牢獄から救い出すという勇者。
「逃げるなんて………それはだめ。逃げたりなんかしたら、夫が死んだのはあたしのせいだってみんな思うわ」
「勝手に思わせとけばいいだろ!」
「あたしは悪くないのに、どうして悪いって思われなくちゃいけないの」
「そいつらが馬鹿だからだ!」
フォシルが全力で言い切る。肺腑の空気すべて使い果たしたフォシルは、息を切らせ呼吸を整えた。
「馬鹿な奴らに、しっぽ振ってどーすんだよ。あんたが悪くないなら、おとなしくしてる必要ないだろ」
風が吹く。
梢の葉を騒めかせ、地べたの草の揺らし、そして修道女の碧眼を輝かせる。
「……あなた、名前は?」
「俺はフォシル。っていうか自分から名乗るもんだろ」
「あたしは、エメ………いえ、お父さまはあたしのこと、エメリーって呼ぶわ」
彼女は愛称を名乗った。
帝国皇女やエクラン王妃として呼ばれていた本名ではなく、幼い頃、ただ幸せだった頃の愛称だ。
エメロッドの特徴的なストロベリーブロンドは、修道女のヴェールで隠れている。そしてフォシルは王妃の愛称など知る由もない。
フォシルの目の前に立つのは、エメリーという少女だった。
「エメリー修道女。いっしょに逃げよう」
「逃げて、どうするの。だいたいどこに?」
「心配すんなよ。北の方に遠縁の牧場がある。ひとまずそこに行こう」
フォシルは手を差し伸べる。労働で荒れながら分厚くなって、獣の匂いがする手のひらだ。
無理やりエメロッドの手を握りはしなかった。ミヌレを助けようと手を握り、手酷く突き飛ばされた思い出が、フォシルを躊躇させた。
エメロッドも躊躇していた。初対面の男の誘いに乗るなどあり得ない。それでも迷ってしまった。
美しい抒情詩めいた世界が、彼女の理性を狂わせる。
「エメリー」
優しい誘いだった。
エメロッドは帰りたかった、戻りたかった。自分がまだエメリーと呼ばれていた無邪気な時代に。
柔らかな手は、力強い手を握る。
その瞬間、たしかにふたりは姫君と勇者だった。
このふたりの選択肢がのちのち王権の権威を揺るがせ、エクラン王国が王室を廃し、貴族共和制へと移り変わる一因になるが、それはまた先の話であった。