第十七話(前編) 幻獣の生態は、オタクの嗜み
夜も更けて、月も傾く。
さて。
本来の目的を進めますかね。
ごはんイベントも楽しかったけど、わたしが求めているのはそこじゃない。そもそも馬車の中で熟睡してたから、眠くないんだよなあ。
わたしはベッドから抜け出す。ショールをぐるぐる巻いて防寒して、忍び足で寝室を出た。
階段を下りて、裏手へと進む。
呪符がすべて没収されているから、心もとない。でも怖くはない。
わたしは渡り廊下を歩く。
吐息どころか星も凍り付きそうな夜だ。
渡り廊下の突き当りには、オランジェリーが増築されていた。
クリーム色の煉瓦の建物で、南側にアーチ状の窓が並んでいる。
文字通り、オレンジを育てるための建物だ。
この王国ではオレンジは自生していない。はるか南から運んできたオレンジの木を冬越しさせるため、北の貴族は専用の建物を造らせている。って、アートワークに書かれていた。
オランジェリーのなかは、常に火が焚かれているから暖かい。ショールがなくても平気だな。
取り寄せたオレンジやレモン、オリーブの鉢植えが数えきれないほど並んでいた。南国の匂いがする。
籐細工の安楽椅子で、サフィールさまが読書していた。眠る前、ここで独りになるのが好きだって、設定資料集で把握している。
「ミヌレ嬢? ……オランジェリーの案内なら、明日しましょう」
「いえ、憩いの時間をお邪魔して申し訳ございません。伺いたいことがひとつあって参りました。それを聞いたらすぐ戻ります」
「答えられることなら、答えますが……」
「オプシディエンヌ・フロコン=ドゥ=ネージュ」
わたしが呟いた名前に、蒼い瞳が見開かれた。
やはりサフィールさまはこの名前を知っている。次期伯爵であり騎士だ。王宮の話題をご存じだと思った。
「その方のことが知りたいのです」
「何故?」
硬い語調だ。
叱咤に近いほど硬い。
「サフィールさま。知ってはいけないのは何故です? その理由だけでもお教え願えませんか?」
「………軽々しく口にしてはいけない話題だ。不敬に当たる」
「不敬に?」
「王宮外で話すべきじゃない。オプシディエンヌか。久しぶりに聞いた。忘れていたな」
「では、今は王宮にはいらっしゃらない?」
問いかければ、蒼い瞳に一瞥される。
「サフィールさまはオプシディエンヌに敬称を付けなかった。わたしにさえ敬称を付けるほど礼儀正しい方なのに。なのに、その女性の話題は不敬に当たる? ……オプシディエンヌという女性自身は敬っていないけど、次期伯爵閣下が敬わなければいけない方と繋がりがあった。たとえその女性が、今現在、王宮に不在であっても」
そこまでいくと公爵や王族クラスだぞ。
「公爵か王族と、正規ではない繋がりの女性。不用意には口に出せない関係。オプシディエンヌはどなたかの愛妾だった?」
わたしの呟きに対して、サフィールさまはため息で応えた。
「マリヌがきみのことを聡明だと言っていたが、なるほど」
サフィールさまはオレンジの木を見上げた。
「オプシディエンヌ。彼女は十年ほど前、先代国王陛下の公妾だった」
「先代陛下の……それは、たしかに、恐れ多い」
公妾は公式の愛妾だ。
ただの愛人ではない。
国王が存命中は宮廷から生活費が支給されて、逝去すると年金が貰える。寵愛が深ければ、郊外に城付き領地を与えられることもある。生まれた子供に王位継承権こそ無いが、爵位が与えられたり、良家と娶せられたりする。
「先代陛下のご逝去すぐに、オプシディエンヌは王宮から姿を消した」
「姿を? なぜ? 公妾なら年金が出るのでは?」
「まともに務めていれば」
サフィールさまは睫毛を翳した。色が深まる蒼い双眸。
「国王陛下のご寵愛深かったが、奔放だった。彼女は公妾でありながら、宮廷内に若い愛人を作った」
「若い、愛人」
苦い感覚が、胸に広がる。
嫌な予想が当たったみたいだ。
おおむねこんなことだろうと思っていたけど、実際に言われるとキツイな。
「軍功を上げた青年だ。密通ならまだしも、隠すそぶりもなかった。多少の火遊びは大目に見られるが、あれは、さすがに目に余った。何より陛下が、今の陛下の方だ。当時は摂政王太子であらせられた陛下が、あのふたりを疎んでいた」
「それで、そのおふたりはどうなったのですか……?」
「先代陛下がご逝去されて、軍人の青年は戦争中の非道行為を告発された。財産と地位を剥奪。寵姫オプシディエンヌは王宮から姿を消した。下賜された宝石類も一緒に消えたから、彼女の方はうまくやっただろう」
「軍人の方は、うまくいかなかったのですね……」
「いいや、しぶとく復帰している。数年後、ふたたび軍功を上げたからな。諸々の功績を顧みて、今は公務の末席を汚している。だが宮廷には二度と顔を出せんし、出させない」
オニクス先生だよ………
それ絶対にオニクス先生だよ……
やべぇ、卒倒しそう。
なにやってんだ、あのおっさん!
いや、十年くらい前の話だから当時は二十歳前だったのか。二十歳ならまともな大人じゃねーか。国王の公妾に手を出すとか、いくらなんでも調子に乗りすぎでは?
そりゃ寮母さんも縁切るし、事実を口には出したくないだろうよ。
「ミヌレ嬢。すべて話した。どうしてオプシディエンヌのことを知りたかったか、教えてはくれないか?」
「プラティーヌ殿下が、わたしを揶揄するためにオプシディエンヌの名前を出しました。サフィールさまのお話を伺う限り、不当な揶揄であり侮辱です」
「あの殿下か。また問題を起こしたのか? 厄介な名前を出してくれたものだ。ディアスポール殿下に奏上しておく」
ディアスポール公爵殿下は今の王さまの叔父上で、プラティーヌ殿下の御父上だ。
「たぶん学院長から奏上されていると思います。学院長の前でその発言がありましたので」
わたしはショールを掛けなおす。
そして付け焼刃ではあるが、なるべく優雅に一礼した。
「失礼致します、サフィールさま。無理な質問に答えて頂きまして、感謝致します」
オプシディエンヌ・フロコン=ドゥ=ネージュ。
十年前、オニクス先生を凋落させて、姿を消した国王の寵姫か。
オニクス先生は飛地戦争で功績をあげた。
それから宮廷に参内できる身分を手に入れ、寵姫オプシディエンヌとの姦通。
先代陛下の死後、裁判によって財産と地位を剥奪。
数年後に功績。これは闇の教団を壊滅させたことだな。
そのあとに世界を救った。
現在、教員。
………あれ? …これ…いつ闇の魔術を習得しているんだ…?
単に習得しただけじゃなくて、先生は闇魔術に関しての最高峰だぞ。修練期間はどこだ?
あと、いつ殺せない罪人として、【制約】の呪文を植え付けられているんだ。寵姫オプシディエンヌとの火遊びくらいでは、殺す必要もない。戦犯であるなら、殺せない理由もない。
まだなんか色々あるのかよ。どれだけみっちりした人生送ってんだ。
部屋に戻る。
ベッドのなかには、わたしの体温の名残がまだある。
冷え切った爪先が温まってきた。
「………………」
蜂蜜色の乳房の女、異国の美姫、寵姫オプシディエンヌ。
わたしにしてくれた愛撫も、彼女から教わったのだろうか。
いや、血気盛んだった二十歳の愛撫は、彼女しか知らないのかもしれない。
いやいや、自分から首突っ込んで嗅ぎまわって聞いておいて、妄想して嫉妬してるのって、身勝手にもほどがあるだろ。馬鹿か、わたしは。
「寝よ」
わたしはぐるっと丸くなって、硬く目を瞑った。
眠れない。
眠れるわけがない。
「読もう」
わたしは光の護符を灯して、読みかけていた『幻獣解体新書』を引っ張り出した。
これは竜とかグリフォンとかペガサスとか、地方によっては神獣としてあがめられている幻獣の解剖図だ。国によっては禁書、あるいは焚書される貴重な書物である。
もちろん人魚の解剖図もある。
「はーん、ははん。循環効率の良い肺腑、酸素を蓄積できる筋肉、血液を必要な部位だけに送る能力。これを模倣することによって、【水中呼吸】が出来るって寸法ね」
要点をノートにまとめておく。
結局わたしは夢も見ず、一晩中、書物とノートを行ったり来たりしていた。