第十二話(中編) 憂色の刺繍糸
夕餉の後、わたしとエグマリヌ嬢は、展望台でくつろぎバスタイム。
バスタイムなんて言っても、それほど優雅じゃない。洗面器に溜めたぬるま湯に、コロンを一滴だけ落として、肌着姿のまま肌を海綿で洗う。それだけ。
でもあったかいお湯のおかげで、骨まで染みた強張りが解れていくみたい。
「やっぱ教会総本山では、緊張してたんですね」
「それはそうだよ」
身体を拭きながら、教会であったことをお喋りする。
「じゃあヴェルメイユ枢密卿が、今回の総指揮なんだ」
エグマリヌ嬢の表情は明るくなった。それはもう月が太陽に変身したレベル。
総指揮。
教会が広範囲を一網打尽して、わたしたちがオプシディエンヌという本陣を落とす。広範囲の戦略を騎士聖省が行うなら、総指揮官はヴェルメイユ枢密卿だな。
「ヴェルメイユ枢密卿はね、教会史上初の女性聖竜騎士でね! うちの領地にも飛竜の生息地があるから、伯爵家の歴代当主の何人かは竜騎士だったんだ。体力自慢の殿方でも、飛竜ワイバーンを世話するのは相当な仕事らしいよ。しかも戦闘用の軍竜に躾けるなんて、もっと大変なんだって。きちんと御さないと、同胞が食われちゃうからね。飛竜を孵化させて飼い慣らして、かつ聖騎士に叙任されるって誉れ高いことなんだよ」
エグマリヌ嬢はほっぺを上気させ、生き生きと語っていた。可愛い。
さっきまでわたしが心配かけすぎて真っ青だったから、エグマリヌ嬢の頬が薔薇色になってるとほっとする。
「ミヌレ。竜騎士だった当主の手記が、たしかうちの書斎に残ってるんだ。古風な文体で読むの挫折したけど、今度、一緒に読もう。でもご先祖さまのものは持ち出し禁止かな……」
「うい! 遊びに行きます! 書斎も拝見したいですから」
大きな暖炉のある昼食室とか、南国めいたオランジェリーとかは見せてもらえた。でも書斎はまだだったんだよな。名門伯爵家ご当主の書斎かあ。蔵書も気になるし、歴史と伝統が溢れる設えや調度なんだろうな。
「うん。そうだ、むかしの当主が飛竜を飼っていたところまで、遠乗りしよう。夏のピクニックにちょうどいい場所なんだ。シャン・ド・フルールもきみに懐いてたし」
シャン・ド・フルールはエグマリヌ嬢の愛馬だ。星葦毛がお花模様みたいなお馬さん。二人乗りしても、雪原を軽やかに駆けていた。
そういえばオニクス先生の愛馬のヴァン・ド・ノワールは元気かな。
「ミヌレ」
エグマリヌ嬢の声は、緊張を含んでいた。
突然、どうしたんだろ?
部屋の隅に置いておいた疑似空間転移絨毯が揺れている。絨毯を敷き、もう一枚をテント状に張っているのだ。
また何か届いたのかな?
垂れ幕から、ひょこっと男の子が顔を出した。
護符を付けている耳は、大きな猫耳。『妖精の取り換え仔』の印だ。
ウイユ・ド・シャくんじゃないか。
馬の話をしていたら、猫がやってきたぞ。
「ゥアアアア!」
ウイユ・ド・シャくん、いきなり絶叫して顔を伏せた。
「ほえ? ウイユ・ド・シャくん。どうしました?」
「ミヌレ。この方はどちらさま?」
「ウイユ・ド・シャくんはテュルクワーズ猊下のお弟子さんですよ。そんでもってオニクス先生を殺したがっていて、エグマリヌ嬢の身辺護衛を陰ながらしていた方です」
「そうなんだ。ありがとうございます」
「服、着て! お師匠さんから破門されたら、どうするんだよ!」
女の子の肌着に対してやたら過敏だと思ったら、テュルクワーズ猊下に破門されるのがマジで怖いんだ。テュルクワーズ猊下の学閥は、教会倫理領域なのかな。
わたしたちはさっさと雫を拭き払って、身支度を整えた。
猫の眼がきょろきょろっと辺りを見回し、猫の耳はぴくぴくしている。警戒している猫そのものだ。
「まさか、また先生のいのちを狙って……」
「やらないよ。おいら、お師匠さんに破門されたくない」
破門されなかったら、いつでもオニクス先生のいのちを狙うんだろうな。こいつ。
「お師匠さん、やきもきしてたよ。魔術師が教会総本山に出向くなんて、馬鹿みたいだ」
「ご心配おかけしましたけど、万事うまく行きましたよ」
「だったらよかったけど。おいらは伝言と届け物があるんだ、蛇蝎とスティビンヌ猊下へ」
「じゃあボクはここを片付けておくよ」
わたしとウイユ・ド・シャくんは、螺旋階段を降りていく。
少し明かりを落とした居間では、スティビンヌ猊下が上座に座って、オニクス先生と資料を読んでいた。たぶん【憑依】の資料だ。
ふたりしかいない。
ディアモンさんとクワルツさんはどうしたのかな?
「おや、テュルクワーズんところの門弟さね。名前は、そう、ウイユ・ド・シャ」
「はい。おいらが伝令を引き受けました。オプシディエンヌ討伐作戦に組み込める魔術師は、ごく少ないので。蛇蝎が賢者連盟に殴り込みをかけたもんだから」
「愚策の末路だな。ミヌレに処刑命令を下したからだ」
先生ときたら一切、悪びれる様子がない。むしろふんぞり返っている。
連盟の魔術師ふたりは睨んでいるけど、何も言わなかった。何を言っても無駄だと思ったのかな。
「猊下。教会との盟約書類を預かりに来ました。お師匠さんが足を運ぶべきなんですけど、手が回らなくて……」
「あたしがリハビリ中で、申し訳ないさね。こんな大事なものはテュルクワーズが管理するのが適任とはいえ、あの子には世話をかけるさね」
鍵付き引き出しから、羊皮紙を手渡す。
スティビンヌ猊下、お元気そうだけどまだ本調子じゃないんだ。
「それでこちらは要請されていた呪符の素材と媒介です」
ウイユ・ド・シャくんは小さな包みを出した。手のひらに包み込めるサイズだけど、何重にも紙に包み込まれて、紐でぐるぐる巻きにされて、がっちり封蝋されていた。
「届くまで随分もったいぶってくれたことだな」
「火星素材だぞ」
ウイユ・ド・シャくんは、めっちゃ顔を顰めた。顰めるどころか、全身から獣の臭気が滲みだす。ライカンスロープの前兆だ。
傍らのわたしでさえ、息苦しいほどの嫌悪と怒気と殺意。なのに先生は涼しい顔して、受け取った荷物をチェックしている。
「あとスティビンヌ猊下。お師匠さんからいつもの錬金薬と、潤滑用マーキュリー水の予備も持ってきました」
「じゃあ投与するの手伝ってほしいさね。操舵室に整備用椅子があるから」
スティビンヌ猊下は整備に行ってしまう。
わたしと先生だけが居間に残った。
「クワルツさんとディアモンさんって、どうしたんですか」
「外の空気を吸いに行っている。あの狼怪盗は、私と一緒ではどうやら気詰まりのようでな。きみも行くといい」
「わたしはここで見学したいです。駄目ですか?」
「構わんよ。後学のためになるだろう」
わたしは大人しく先生の横に座る。
素材はレッドスピネルの粒がインクルージョンされた紅玉だ。
「【焔翼】を作る。魔術インクは己の鮮血だ」
そう語りながら、手慣れた所作で採血する。
「媒介は火星で錆びさせた釘」
「火星の錆。ああ、匂いが砂漠と似ていますね」
砂漠でブッソール猊下と決闘した場所、そこの匂いと色合いに似ていた。
先生はランプを灯す。
紅玉を燃え盛る炎の底に置いた。
薄暗い居間で、炎と紅玉の光がダンスする。まるで美しい赤を集めた万華鏡。焦点を合わせず眺めていると、わたしが赤い万華鏡に封じられている気分になった。
自分の血を、火星の錆釘につけ、炎の中で呪文を綴っていく。
【耐炎】装備してないと作れない呪符だ。
呪文を綴り終えれば、紅玉は燃え盛る炎を取り込んだように、赤さが輝きを増している。
「【焔翼】。炎を纏うこの魔術ならば、【蜘蛛】の糸を無効化できる。オプシディエンヌの糸にどこまで通じるかは、怪しいものだがな」
自嘲を込めた呟きだ。
先生は自嘲や溜息から息継ぎをするように、天井を見上げる。
わたしも視線を上げた。
天井画の地図に輝くダイヤモンドのピンは、大山脈へと進んでいた。良い風を捕まえたのか、ピンの進みは目に見えて早い。この調子なら真夜中には到着するかもしれない。
「次は【破魂】を作らねばな」
とても静かな呟き。
蟲も鳥も啼かない夜みたいな声だった。
「私は魔力を回復させるため、仮眠を取る。ミヌレ、きみも早く休みなさい。魔法を使ったのだ、疲労を自覚してなくても休養せねばな」
「もう少しここにいさせてください……」
「だめだ。正直、きみとふたりきりでいるのは、忍耐を要する」
甘い囁きだった。
拒絶なのに、睦言みたい。
いいや、これは睦言だ。睦み合うどころか触れ合ってもいない、目さえ合わせてないけど、それでも愛の言葉だった。
「エグマリヌ嬢のところへ戻ります」