第六話 (後編) ダイヤモンド・ダンス
「わたし、呪符を作りに行きますね」
「頑張ってね」
エグマリヌ嬢に見送られて居間に戻れば、ディアモンさんが呪符を作る用意をしてくれていた。
真新しい硝子器具たちが、護符からの【光】を含んで浅く輝き、淡い影を落としている。学院の魔術実技室の空気を思い出した。
「まず臨書しましょう」
整えられた机と椅子。
丁寧に準備された道具。
そしてわたしが練習できるように、ペンと物理インク、粘板と蝋石が用意されていた。
「ちょっとした恐怖ですね」
「恐怖?」
「今まで呪符作り、エクストリームだったんですよ。わたしが呪符作ったからって、この魔導航空艇、墜落したりしませんよね」
「あらあら。だったら空飛ぶ絨毯を敷いて、臨書しましょう」
根拠のない不安に、ディアモンさんが空飛ぶ絨毯を敷いてくれた。
単純で確実な対応。
逆に不安がっていたのが馬鹿々々しくなった。
いつもいつも呪符作りがエクストリームだからって、今回もそうとは限らないよね。うん。
わたしは臨書する。
普通、新しい呪符や護符を作る前に、呪文を習字するのだ。宝石に書き損じたら、発動しないもの。
まずはインクとペンで綴りを覚える。慣れてきたら、宝石に書く感覚に近い粘板に蝋石。それが臨書。一年生の一学期の実技は、こればっかりだったな。
フルスキャップ紙にさんざん練習する。
「現代の術式と随分違いますね。中世に作られた術式ですか?」
「実はねこれ、アヌパダカなのよ」
「アヌパダカ」
まったく知らん魔術用語だった。
「星智学分野の用語。本来は『親無し』という意味でね、原因という親無くこの世に生じた存在のことよ。この魔術はパリエト師が解析したの、ミヌレちゃんの持っていた手鏡に嵌っていた呪符からね」
過去に流れ着いていたブッソール猊下の手鏡。
その手鏡をシッカさんが発掘して、呪式解析して、賢者連盟で再現したのか。
「ん? 開発者いないぞ?」
「だから親無し、アヌパダカよ。アヌパダカって概念は星智学で学ぶ範囲だけど、その存在は因果超越存在だから邪竜に匹敵する機密なの。宇宙アヌパダカ論からすれば、この世界そのものがアヌパダカらしいけど。「宇宙にはじまりがあった」という学説を主張している星智学者がいるの。宇宙はある瞬間から誕生した。無から有が生じない。ならば無の領域に、有の種子が時間跳躍した。そういう感じの学説」
ディアモンさんが語る星智学に耳を傾けつつも、粘板に蝋石で呪文を綴る。
難しい授業されながら、手元で作業するの捗るなあ。
臨書を終える。
さて、お次は本番だ。
「採血器があるってことは、魔術インク、術者本人の血ですか?」
「そうなの。魔術インクは術者の鮮血に、天の川の砂鉄。媒介は術者の髪よ」
「天の川の砂鉄を使うの、初めてです」
砂鉄は真っ黒だけど、内側から光が明滅しているみたい。闇なのか光なのかあやふやだ。
これこそ天の川の底で揺蕩う砂鉄。これには、星光気を引き付ける作用があるのだ。
オニクス先生の呪符【隕石雨】も、この砂鉄入り魔術インクを使用している。
星に満ちる星光気も、人に宿る星幽体も、分解されれば同じものだからな。それらを引き寄せる魔法法則を、魔術に組みかえるのだ。
「ディアモンさん。天の川の砂鉄って、どうやって採取しているんですか」
天の川っては、時間障壁から出られなかった星の群れだ。
土星の外側に流れている。
「カマユー猊下が定期的に採取していたのよ」
「じゃあもう供給無いんですか」
「しばらくは無いわよ。そのうち木星まで単身赴任してくれる魔術師が見つかれば、採取再開できるでしょうけど」
木星に単身赴任って辛いな。
孤独な任務だ。
カマユー猊下は長距離幽体離脱できたから、ちょいちょい月や地球でのさばっていたけどさ。
手元にある砂鉄を睨む。
貴重なのは分かっていたけど、供給が困難って言われたら、貴重さが骨身に染みてくる。
自分の鮮血に、天の川の砂鉄を混ぜる。ほんの微量だけど、砂鉄に反応したのか血が鮮やかになった。くるりくるりと硝子棒を回していれば、指先に魔力的な負荷が伝わってくる。
わたしは前髪の一部を、さくりと切る。
オプシディエンヌに切られたところを切ると、あの時の苛立ちが生々しく蘇る。
自分の髪に、自分の血を浸し、ダイヤモンドに呪文を綴っていった。
魔術安定したかな?
「アタシ、これを遠くに置いてくるから」
ディアモンさんが呪符を離れた場所に置いてきてから、わたしは【幽体離脱】する。
視界を閉ざせば、ダイヤモンドの輝きが視える。
それはまるで、暗黒の海にたったひとつ輝く北極星。永遠の指針。
星の導べを目指し、跳んだ。
次の瞬間、目の前の風景が夕焼けの雲海になっている。
いや、わたしが外に跳んだんだ。
見るものまで燃え尽くすような茜色だ。不死鳥の羽ばたきが、世界を覆いつくしたみたい。
「ミヌレ」
この世でいちばんわたしの愛する声がした。
魔導航空艇の昇降舵、そこの翳りには漆黒のマントが暴風に弄ばれていた。オニクス先生だ。夕暮れにマントを棚引かせる姿は、一足早く訪れた夜のよう。
大きな手には、ダイヤモンドが握られている。
まるで一番星。
一足早い夜と、一番星。
「ミヌレ。五感は正常に機能しているか? 普段との齟齬は?」
「感覚がぼんやりしています。意識はしっかりしている寝起き……いえ、逆ですね。夢の中で、夢だって自覚している感覚に近いです。うーん、というか、見ている夢が現実だとしっかり認識している状況でしょうか」
今の自分の感覚を、言語化していく。
「成功だな。つまりきみの星幽体は、正常に機能しているということだ」
「そうなんですか?」
「ああ。見事なものだ。きみは時間も空間も思いのままだな」
思いのままにならない相手に言われてしまった。
「ヴリルの銀環は、きみの腕に『在る』のだな」
「うい」
わたしの手首には、ヴリルの銀環が存在している。
「アトランティスの時空連続存在結晶体か。在り方に時間と空間の干渉を受けないとはいえ、星幽体に対しても連続存在しているのは興味深いな。エーテリック領域まで連続時空体なのか」
先生はわたしとかヴリルの銀環とか、【星導】を観察する。
「ミヌレ。一旦、肉体に戻るといい。肉体に依らないと星幽体が消耗する。練習ならいくらでも付き合うから」
「ういうい」
わたしは頷いて、肉体へ戻る。
でもふらふらして難しいな。
自分の星幽体でも、思い通りにならない。
つい手足をばたばたさせるけど、周囲に干渉できないから無駄なんだよね。アクションゲームでコントローラーを振り回しちゃうひとみたい。
自分の肉体へ帰還した。
傍らにはディアモンさん。
「うまくいったみたいね。もう何度か練習できそうかしら?」
「ういうい!」
先生の持っている【星導】と往復する。
よしよし、コツを掴んできたな。
【水中呼吸】の時もそうだけど、わたしって結構、上達早いな。ふふん。
そう思った瞬間、がくんと落ちる。重力に干渉されないのに、落下していた。展望室の前まで滑り落ちる。
おっと、気を抜いちゃだめだな。
分厚い窓の向こう側に、エグマリヌ嬢がいた。あとクワルツさんも。
ふたりでお喋りしてるみたい。
仲良くなったのかな?
「ほんとうはミヌレと学院に戻りたいんじゃないんだ」
ふえっ?
ど、どういうこと?
まさか学院でなにかあったの?
エグマリヌ嬢の陰った声に、無いはずの体温が低下していく。星幽体の記憶している肉体感覚器が、わたしを奈落に叩き落してきた。
「戻るんじゃなくて、進みたい。ミヌレの進む道を見守って、いざとなったら食い止めたいんだ」
「食い止める、か」
「約束したんだ。ミヌレがオニクス教師のようにならないために、邪悪な道へ踏み入ったらボクが全力で止めるって」
ああ、空中庭園でそんなこと話した記憶があるな。
覚えていてくれたんだ。
そう言ってくれる友人がいるってだけで、わたしは十分、心強い。
実行できるかどうかは、また別の話だ。できなくてもわたしとエグマリヌ嬢は友達だぞ。
「だから騎士として鍛錬を怠らず、攻撃呪文だって身に着けた。ボクは強くなりたい。一角獣に守られる乙女じゃなくて、並び立てる戦乙女になりたかった」
「ふむ。では叶っているではないか。きみは不死鳥にも臆さず戦える戦乙女だ」
「足りない!」
裂帛が響く。
硝子越しのわたしにまで、振動が伝わってくるほどの叫びだった。
「………全然、足りない。ミヌレはボクの思ったより、ずっと遥か先に進んでいる」
わたしは魔力ほぼ無限ってチート能力に、ヴリルの銀環ってチートアイテムが加わってるからなあ。
そのチートが先に進ませてくれているだけだ。
「さりとて戦う力だけが、誤ったものを引き止められる力ではない。日常に居て、日常へと引き戻してくれる友人は、掛け替えのないものだぞ。それでは駄目なのだな」
「駄目だ。ボクが騎士を目指したいって言った時、周りのひとたちは代替案を出してくれた。騎士団所属の治癒魔術師はどうか、剣術の師範はどうかと。でもそれはボクの目指したい道じゃない」
「将来の夢は妥協せんでもいいが、人間関係は望み通りにはならんぞ」
「……それでも、ボクはミヌレに置いてけぼりにされたくないんだ」
盗み聞きしているの、罪悪感が募ってくる。
わたしは一旦、先生のところにとんぼ返りした。
「先生。幽体離脱の練習、そろそろ休憩します」
「頃合いだな」
わたしは速攻で肉体に潜り込む。最短記録だ。
勢いよく跳ね起きる。
「エグマリヌ嬢のところに行ってきます!」
全力ダッシュで螺旋階段を駆けてるけど、マジでノープランだ。
意気消沈してるエグマリヌ嬢の力になりたい。どうすればいい? まったく分からん!
ついにノープランのまま、展望室に戻ってきちゃった。
「エグマリヌ嬢……あの、幽体離脱の練習、終わったから、エグマリヌ嬢と遊ぼうかな~って……」
「ありがとう」
そうは言ったものの何して遊ぼう。
だって魔法を使っちゃうと、またエグマリヌ嬢がへこむかもしれないし。
「ミヌレくん。エグマリヌ伯爵令嬢からワルツを習ったらどうだ?」
「そうですね!」
身体を動かせば、悩みがひととき遠ざかるかもしれない。
わたしはコントローラー操作して、音楽を流す。王宮舞踏会に流れるヌエメットだ。
「幽体離脱はうまくいったのかな?」
「まだディアモンさんの補助がいりますけど、慣れてきました」
わたしたちは踊りながらお喋りする。
「ミヌレは今、どのくらい呪文会得したんだい? 【浮遊】と【水】と、あと【庇護】、【防壁】、【水上歩行】だよね。それから【一角獣化】も」
「この銀環に結んでいるのが【閃光】、ピンブローチは【土坑】です」
「目つぶし落とし穴だね」
「あとは………【水中呼吸】です」
「欲しいっていってたもんね。じゃあうちの湖に遊びにくるといいよ。うってつけの行楽になるね。あれ……【水中呼吸】って真珠がふたついるよね、持ってた?」
「ぅ、ういー」
あんまり人外じみた振る舞いすると、またエグマリヌ嬢が萎んじゃうかな。
でも隠しておくのも嫌だしな。
わたしは耳朶から、真珠の耳飾りを浮かばせる。
カリュブディス水支柱渉りで作った呪符だ。
「体内に収納できるの?」
「ほんとはしちゃだめなんですよ。これやると後天的に経絡が増加して、魔力負荷がかかるらしいです。わたしは魔力ぼぼ無限なので、例外的に平気なんですが」
「………便利だね」
エグマリヌ嬢はちょっと言葉を探してから、無難な発言をしてくれた。
「ボクはね、次、【氷障】を作る予定なんだ」
「おや。意外ですね」
水属性防御系【氷障】。
【氷壁】と違って、物理防御力は一切無い。
これは非結晶の氷を空間に飽和させて、魔術干渉を弱める対魔術用防御壁だ。
魔術って、宝石みたいな結晶質や潜晶質には干渉しやすい。魔術鉱石学の基礎だ。
逆に硝子とかの非晶質には、干渉しにくい性質がある。
結晶していない氷の粒を無数に生じさせて、魔術をジャミングするのだ。自分の魔術もジャミングされちゃうけど、エグマリヌ嬢はレイピアも優れているから問題ない。
【静寂】はまだ詠唱してない魔術を阻害するけど、【氷障】は発動後に阻害できる。
でもこの呪文、予知でエグマリヌ嬢は習得しないはずだったよな。
一年生で【水】【氷壁】、二年生で【鏤冰】【水鏡】、三年生【伐氷】【凍結】【沃雪】。そんで四年で【霧氷】【雹弾】、五年【霓竜】【絶対零度】。サフィールさまとの特殊イベントを経て、水属性最強攻撃呪文【海嘯】を習得するはずだ。
エグマリヌ嬢はオプシディエンヌの干渉があるから、騎士団に騎士見習いとして属したり、かなり予知と変わっているもんなあ。
取得する呪文が変わってもおかしくない。
【氷障】かあ。
魔術師との白兵戦用の防御魔術には、適している。レアケだけど。
………エグマリヌ嬢の仮想敵、もしかしてわたしでは?
いつかわたしが道を踏み外した時のため、呪文を用意してない?
すごいな。
わたしは先生と対峙する可能性を、考えもしてなかった。先生から与えられた言葉が指針だった。なんて馬鹿な子供だったんだろう。甘え切っていたんだ。
だから、砂漠であれだけ苦しむ羽目になった。
サフィールさまは「愛するものと対峙したとき、それは誰かの手助けでなく己でしか対処できない」とおっしゃっていた。
敵と戦うことや、愛するものを守るなんて簡単だ。
ほんとうに大事なのは、愛する相手と対峙する時。
誰かを愛した時、その相手と戦う覚悟を決めるのは、とても思慮深くて気高いと思う。
わたしと戦う可能性を視野に入れて、呪符を揃えていくエグマリヌ嬢が、愛しい。
わたしとの関係を切り捨てないってことだから。
善き処へ引き留めるために、悪しき道に立ち塞がるために、エグマリヌ嬢は力を得ようとしてくれる。
友人じゃない。
親友だ。
「【氷障】は意外かな?」
「いえ、レイピアが使えるエグマリヌ嬢には相応しいです。でも先に【沃雪】とか【伐氷】を習得されるのかなって思ってました」
「雪下ろし用の魔術か。そこらへんの呪符も作ると便利だけど、おじいさまが嫌な顔をされる。「伯爵家として相応しい魔術だけを習得するように」って絶対に反対なさるんだよね」
ああ、魔術そのものに階級差があるものな。
【浮遊】とか【土坑】あたりの土木工事に重宝されている魔術は、見下す魔術師がいるんだよ。
エクラン王国って、マジでなんにでも階級差を付けるけどさあ。スポーツにしても、お酒にしても、ペットにしてもそうだ。
魔術に貴賤ランク付けられるのは、ほんと腹が立つ。
「でもミヌレだって【土坑】習得したし、ボクも【沃雪】を取ろうかな」
「そうですよ! 魔術に貴賤はありません! 雪道軍行に使用するって言い張っちゃえばいいんです!」
「いいね。その言い訳はアリだね」
「エグマリヌ嬢。次、雪下ろしするときは、わたしが【浮遊】でお手伝いします」
わたしが意気込むと、エグマリヌ嬢の笑顔にえくぼが浮かんだ。
「雪下ろしが楽しみだ」
緩やかなヌエメットが満ちる展望室。
夜空の星たちが、ダイヤモンドみたいに輝いている。
わたしは星に祈る。
人間は誰だって譲れないものがある。許せないことがある。価値観もいろいろ、優先順位もそれぞれ。どれほど親しくても、違う道を歩んでいく。
……それでも、エグマリヌ嬢と戦うことがありませんように。
ずっと踊っていられますように。
こめかみが痛くなるくらい、星に祈った。