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序 地球が映る月の海にて


 

 これは夢………?


 世界は黄昏に閉ざされていた。


 空は硫黄で、地と海は溶岩だ。黒く固まればそこは大地で、赤く滾ればそこは海原。

 猛々しく濁った風が吹きつけてくる。

 風で歪む黄昏の彼方に、建物の輪郭がおぼろげに見えた。あれは、いくつもの尖塔、いくつもの穹窿。

 わたしはそこへ翔ける。

 突風の齎す鬱金を、切り裂き、逆らい、翻弄されながらも翔ける。

 地表には、輝く鉛の池、煌めく錫の川。そして玄武岩の大河。灼熱に熔けた玄武岩が、轟々とした濁流になって渦巻く。

 なんて恐ろしくて荘厳な光景。 

 まるで悪魔が死に絶え、拷問器具が朽ちて消えた後の地獄。滅んだ地獄だ。

 地獄の表現に悩む宗教画家がいたら、この光景に飛びつきたくなる。ただ地獄と安易に呼ぶには、厳かさとか神聖さがある。地獄というより、神の怒りかもしれない。

 わたしは尖塔と穹窿に辿り着く。

 建物はすべてぼろぼろだった。アリに喰われて真夏に溶かされたガトーショコラみたい。あるいは泥に落ちた砂糖のかたまり。

 最初は綺麗だったんだろうけど、今は見る影もない。


 ………ここは、どこだろう?

 

「ミヌレちゃん!」



 野太い叫びが、遠く遠くから響いてきた。

 なにかに引っ張られる。


 落ちる、落ちる、落ちていく。

 

「………ぴゃっ!」

 わたしは寝床にいた。 

 ここは象牙の塔の療養室だ。長期休養のためのお部屋で、今はわたしが寝起きに使わせてもらっている。

 すぐ傍らにディアモンさんがいた。

「おはよう、ミヌレちゃん。アナタ、【幽体離脱】していたわよ」

「………無意識に?」

「ニックに会いたいと思って、星幽体が抜け出したんじゃないかしら」

 それはあり得そうだ。

 先生は地球に降り立っている。あとクワルツさんも。

 安静にさせられているわたしは暇だったし、うっかり【幽体離脱】くらいしちゃうかも。カマユーの能力を吸収しちゃったから、わたしの星幽体は遠くに行けるようになってしまった。

「月下老から差し入れがあるわ。火棗と交梨よ。仙果……魔力を含んだ果実なの。アナタが早く快癒するようにって」

 堆朱のお盆に盛られていた果物は、火の粉を練ったような棗と、霜を凝らせたような梨。

 軽い喉の渇きに、手を伸ばしたくなる。でも瑞々しい果物を口にしてしまえば、さっき見た光景が記憶から消えてしまいそうだった。

「夢とか誰かの魔法空間じゃなくて、どこか本当にある場所まで飛んたんですか? 夢みたいにすごく不思議な場所でした………世界が永遠の黄昏みたいで、大地は熔けていて。あと崩れた建物がいっぱいあるんです。強い風が吹きつけてるのに、黄昏のまま時間が停止しているみたいで。綺麗なんだけど恐ろしい風景です」

「金星のアトランティス遺跡じゃないかしら」 

「ぅええっ? あれが!」

 あれがブッソール猊下が発掘していたっていう金星遺跡。

 ラーヴさまによって地球がぐちゃぐちゃになった後、アトランティスの民の一部が移住したって伝説の都。

「星幽体から垂れてた銀の糸の方向からして、行先は地球じゃなかったわ。情景を聞く限りだと、金星っぽいわね」

 ディアモンさんはジャスミンティーを淹れてくれた。

 馥郁とした香りだ。湯気を肺腑に満たしていると、シッカさんを思い出す。

「今回はアタシが見つけたから事なきを得たけど、肉体と星幽体を結んでいる銀の糸が切れると死ぬから、無意識だろうとニックに会いたいなんて願わないでね」

 差し出されたのは、温かいジャスミンティーと無慈悲な言葉。

 無茶な。

 先生に会いたい気持ちを行動にしないことは出来ても、気持ちを沸かせないのは不可能だ。

 わたしはジャスミンティーを飲み、細工物のように美しい果実を味わう。爽やかで美味しいけど、先生といっしょに食べたい。レトン監督生に借金申し込みに地球へ行ったけど、きちんと食事してるのかな。

「考えないようにして考えないでいられたら、それは恋じゃないでしょうし。暇つぶしを探してもらってきて良かったわ。これはミヌレちゃんをおとなしくさせ……いえ、後学のために最適だと思って」

 ディアモンさんの空飛ぶ絨毯を広げる。そこに積載していたのは、何冊もの書籍と、大きな紫檀の箱だった。

 この箱ってなんだろ。

 紫檀って高価な木材だから、紫檀の箱ってことは中身は貴重品。

 薄さと大きさからすると、絵画でも入ってるっぽいけど。 

「アトランティス時代の染料を再現した色標本。好きでしょ」

「ありがとうございます! 大好物です!」

 蓋を開けば、色彩の標本。

 原材料と媒染と染めた布の標本だった。

 草木や貝殻から色を取り出し、明礬や銅や鉄で色を留め、色彩にする。

 生命の色を、金属の力で永らえさせるんだ。

 うちの田舎だと、媒染に錆びた釘を使っていたなあ。錆釘を酢で煮て、媒染液にするの。たまに使っていた銅線屑の媒染液は毒だから、わたしと仔山羊が近づかないようにめちゃくちゃ警戒されて、仔山羊といっしょに隔離されていた。

「アトランティス時代は、オリハルコンが混ざった泥を媒染にしていたのよ」

「オリハルコン媒染!」

 すごい。貴重な魔法金属オリハルコンを媒染にするなんて、とびっきり贅沢な染め方だ。

 染色も魔術と同じなんだよ。

 自然界から色を抽出する仕組みって、魔術を発動させる仕組みに似てるんだ。

 染める原料、そして染めを定着させる媒染、そして発動が色彩となる。

 たとえば原料がカモミールのお花なら、錆び釘なら苔緑色、銅線なら濃黄色に染まるの。もしオリハルコン泥を媒染にしたら、どんな色に仕上がるんだろう。

「こっちは東方の染料」

「びぎゃあ」

 染色見本の絹糸が登場した。手で掬った水みたいな藍色や、目が覚めるほど苛烈な緋色。

 東方の染料って、どれも落ち着きと華やぎが同居してる。

 明るくても渋いのね。

「この緋の染料は、群を抜いて貴重なものよ。東方にしかいない猩々って魔獣の血で染めたものなの。猩々狩りの実録はこっちの東方魔獣見聞録に載ってるわ」

 魔獣の血が、こんな素敵な緋色になるなんて………

「こっちは巻貝の内臓から染めた赤紫よ。現代の東方では大臣以上の身分、西方では司教以上の聖職者。そしてアトランティスの時代では、王とその血族しか纏えなかった色彩らしいわ。このアトランティス異聞に書かれているのは定説じゃないけど、衣装や染色の逸話が豊富でアタシは好きよ」

 実際の色見本と、厳選された書籍。

「貴重な資料ばかりですね。ありがとうございます! さすが賢者連盟!」

「パリエト師の遺した資料よ」

「……シッカさんが」

「ええ。師のご遺志に従って、今度こそアナタを守るわ」

 力強く優しい。

 ディアモンさんの虹彩は曇りを払ったように、虹色に輝いている。

「安心して。遺言に縛られてるってわけじゃなくて、パリエト師の恩義に報いたいのよ」

 その気品ある微笑みは、シッカさんを思い起こさせた。

 ディアモンさんはシッカさんの元に、ずいぶん長く居たのだろう。姿勢や挙措や表情や趣味や、それから淹れるジャスミンティーの味が似るほどに。

「じゃあ、アタシは仕事があるから、お昼ごはんの時間にまた来るわね。いっしょに食べましょう」

 独りになった部屋だけど、ときめくものに取り囲まれて幸せ飽和中だ。

 色標本をうっとり眺める。知らない単語を調べていく。

 ひとつひとつの作業が楽しすぎて、油断すると涎が出そうだった。



  

 随分長いこと、標本や図鑑を眺めていたみたい。目が疲れた。ううん、霊視の集中が切れたって言った方が正しいかな。

 わたしは窓の外を見上げる。

 象牙の塔からの眺めは幻想的だけど、昼でも夜でも星空。

 時間感覚おかしくなりそう。 

 せめて地球が見物できたら素敵なのに。

 賢者の海って月の裏側だから、見えないんだよなあ。

 なんか不思議。

 理屈は星智学で習った。月の自転が公転周期と一緒だから、裏側から地球は見えない。

 でも地球のどこからだって月は見える。西大陸や東大陸でも、月は平等に照らしている。

 それなのに月からは、地球が見えない場所があるなんて。

 片思いみたい。

 でもこの場合、どっちがどっちに片思いなのかな。

「……地球が見たいな」

「見に行くかね?」

「ギャア! 誰か居たんか!」   

 思いっきり素で叫んじゃった。

 窓の外にはおじいさんがいた。簡素な東方風ローブを纏って、でっかいクマさんに跨っている。

 このご老人こそ東方魔術の頂点にして人類最年長者、月下老ユエ・チャンシー。

「なんで窓の外にいるんですか!」

「気分転換がてら、鉱脈を探しに向かうところじゃよ。鉱石は魔術に不可欠じゃからのう。おぬしも来るか? 退屈じゃろう」

「ういうい! ……呼吸とか大丈夫なんでしょうか」

「おぬしの【胡蝶】が守ってくれる。先に【庇護】を重ねておけば安全じゃろうて」

 わたしは【庇護】を詠唱してから、窓から飛び降りた。クマさんのお尻の方に乗る。

 このクマさんは洞穴熊っていう古い種で、とにかく毛深くて巨大だ。立ったら三メートルくらいありそう。

 じっとしていると【胡蝶】が何億匹と分裂していき、わたしを包み込んだ。

 クマさんは駆ける。

 でこぼこの月面を、ふわっふわっ、ぽぉーんっ、とリズミカルに駆けていく。

「月下老。差し入れの仙果、ありがとうございます。ジュースみたいな食感に、尖がってない酸味が美味しかったです。爽やかで柔らかな酸味でした。びっくりするくらい美味しかったです」

「お気に召してくれて幸いじゃよ」

「果樹園が月にもあるんですか? 見せて頂きたいです」

「儂も開拓の成果を披露したいのじゃが、生憎、管理人が喪中でのう」

「申し訳ございません」

 気まずい。

 わたしは喪中を齎した張本人だから、めちゃくちゃ気まずい。

「いやいや、こたびの一件、ブッソールの暴走とカマユーの狂気も原因じゃよ。おぬしが悪くないとは言わぬが、うら若い身を責める気にはなれん。気に病むでないよ」

「ありがとうございます……」

 そもそもカマユーが狂ったのって、オニクス先生のせいではある。

 ブッソール猊下が暴走したのも、【時空漂流】に巻き込まれたせいだしな。

 つまり、オプシディエンヌが全部悪い!

 とっととあの魔女を始末しなくちゃ。

 わたしが殺意充填していくと、クマさんは下り坂に入って勢いを増していく。

 ふわふわぽーん。

 ふわふわぽーん。

「そういえば月下老はなんの魔術で、身を守っていらっしゃるんですか?」

「とりたて術は使っておらんよ」

「ふほ?」

 驚きと疑問が混ざりに混ざった呻きが漏れる。

 月は風の加護が希薄なのに、エーテル濃度は高い。こんな空間じゃ、人間の肺や皮膚は壊れてしまう。エーテルは魔術的に大事だけど、人体には有毒なのだ。

「月下老は魔法使いなんですか?」

 先生から以前、「ウィツ王国では子供を集めて、三年に一度、閏の日に生き埋めにしていた」とか聞いたことがある。魔法使い選別方法だ。無意識の生存本能で、風の加護を招けるらしい。

 魔法使いなら、空気の希薄な月でも不自由しないのかな。

「というより、一人前の東方魔術師は半魔法使いじゃよ」

「半魔法使い?」

 そんな言い回し、初めて聞いたぞ。

「東方魔術と西方魔術の違いじゃのう。魔力を利用する技術という点は同じじゃが、魔術に対するアプローチが違うのじゃ。西方魔術は『魔力が低い人間でも、魔法を使えるよう魔法を魔術化する』じゃろう」

「え、ええ」

 魔法を汎用的にしたものが魔術だもの。

「東方魔術は『人間の魔力を高め、かつ魔法を魔術化する』のじゃよ。西方は魔法を人類の領域まで下げたのじゃが、東方では魔法を引き下げつつ、人類を底上げする。中間点を目指しておるのじゃ」

 わたしの脳内に、林檎の木が生えた。

 西方では、すごく長いりんご棒で林檎を採る。

 東方では、りんご棒と椅子ばしごで林檎を採る。

 どっちも林檎が手に入るけど、椅子ばしごがあるとないとじゃ大違いだな。

「どうやって鍛えるんですか?」

「生半可には鍛えられん。穀物を断ち、辰砂を服用し、呼吸から動作までを整わせる。瞑想、断食、武芸、あらゆる面において修行した果てに辿り着く領域じゃ。その鍛錬の半ばで亡くなるものも少なくない」

「それは、過酷だな……」

「過酷じゃよ。じゃがおぬしは生まれながらにして、鍛錬を越えた先の肉体と魔力を宿しておるのじゃよ。天性の仙女、魔術の貴公主じゃ。どうじゃな、東方魔術も学んでみぬかね?」

「お誘いは光栄ですが、今は西方魔術でいっぱいいっぱいです」 

「では気長に待つとしよう」

 何万年も生きてる人間の気長って、想像を絶する時間だよな。

 月の地平には海が、夜空の彼方には地球が見えてきた。

 紺碧と瑠璃に輝く惑星。

 その惑星が、月の海に映り込んでいる。

「ネクタル海じゃよ。ここの弱水は鉱泉でのう、他と成分が違うのじゃ」

「あ、触り心地が違う」

 指先に伝わる感触が、とろっとしてるというか、重みがあるというか。

 感触がおもしろい。

 そうだ。

 わたしはふとももにゴーシェナイトを浮き上がらせ、【水上歩行】を詠唱する。

 ネクタルの海を、素足で駆けた。

 【胡蝶】が散っていく。

 爪先から水飛沫が舞う。

 エーテルが押し寄せてくるし空気が薄すぎるけど、【庇護】の被膜が守ってくれていた。

 月面の地の加護はか弱すぎて、わたしはぽんぽーんと跳んでしまう。

 大きく跳ねるたびに、宇宙に水滴が散りばめられる。星空を背景に散るネクタルの飛沫。水晶みたい。

 宙返りして飛沫を作ったり、波紋を描いたりする。

 わたしが水遊びしていると、月下老もやってきた。クマさんがすぃーっと泳いでいる。泳ぎが達者だな。

「あれ? 弱水って泳げないはずでは……?」

 浮力の無い水が弱水だもの。

「こやつはただの熊ではないのじゃ。儂とともに行を修め、霊獣となった熊じゃよ。人間が魔法使いになれるならば、熊とてなれん道理が無い」

 このクマさんも過酷な修行を耐え抜いてきたのか。ただの大きいクマさんではなかったな。 

「保護者殿が来たようじゃな」

「ディアモンさんが?」

 月下老の視線を追う。

 ディアモンさんじゃない。

 海の彼方にいたのは、オニクス先生だった。漆黒のマントを靡かせて、わたしのところに駆けてきてくれる。

「おかえりなさい!」

 眼に映った途端、わたしの下肢は獣になってダッシュしていた。

 【胡蝶】たちが散っていく。

 レースの蝶を置き去りにする速さで、海面を蹄で駆け、わたしは先生へ飛び込む。

「ミヌレ!」

 力強い両腕が受け止め、抱きしめてくれる。勢いだけは受け流せなくて、ふたりでくるくると回ってしまった。

「ふふっ、ワルツみたいです」

 身長差があるから、地球上だと先生とワルツは出来ない。

 だけど月面は、身体が軽やかだった。

「ワルツか」

 わたしの手を取って、くるりと回してくれる。

 先生が踏むステップが、海面の波紋となって流れていく。

 ネクタルの海に映る地球も揺れる。 

 月面でのワルツは音楽が無くても、わたしを幸せにしてくれた。 


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