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序の6666万年前と序の6日後


 それは花が咲き初めた頃だった。


 季節が巡って花が咲き始めた、という意味ではない。

 花、すなわち被子植物が地球に誕生した頃だった。

 蘇鉄や棕櫚の大密林には、マグノリアやアルカエアントスの色どりが添えられ、これまた羽毛艶やかな恐竜たちが闊歩する。そしてさらに絢爛たる神殿が聳えていた。

 第三人類が建築した大神殿だ。

 階段と支柱と庇が無限に組み合わさり、極彩色のフレスコ画が柱を彩る。

 開放的な造りだ。湿度と気温とエーテル濃度の高さを緩和するため、壁は存在しない。扉も無い。そんなものを作れば気温やエーテル濃度が高くなり、すぐに息が詰まってしまう。

 さらに涼を取るため、神殿内の高き頂きからは滝が流れ、低き窪には湖がいくつも湛えられていた。

 滝が打ち付け、水飛沫が舞い、波紋を織りなす。

 湖でも静かなところには、紅睡蓮が咲き、白鳥竜ハルシュカラプトルたちが泳いでいる。優美な光景だ。

「退屈ね……」

 その水辺に、黒髪の美女が寝そべっている。

 豊かな髪はまるで黒曜石、妖艶そのもの肌は蜂蜜めいていた。

 官能的な姿態に纏うドレスは、獣の皮と竜の羽根だ。火葬竜キティパティ、擬鳥竜アヴィミムス、駝鳥竜オルニトミムスや伶盗竜ウェロキラプトルの羽根を重ねに重ね、スカートにしている。構造色で煌めく羽根のドレスは、あたかも宝石細工だった。

 彼女の名はネフィラ・ジュラシカ。

 この神殿に祀られる女神にして、レムリア文明を興した聖娼である。

 彼女は退屈していたが、その退屈さも愛していた。懈怠を嗜み、怠惰に溺れることも、遥かな時を生きる秘訣である。

 空が曇り、雨が原始の睡蓮を打った。

 エーテル高濃度の雨粒は愚鈍で、花びらや羊歯たちを項垂れさせていく。

 黒曜石の髪も、重たげに濡らしていった。

 地が微かに蠢動する。

 どこか遠くで地震が起こっているのだ。


「………竜が吼えているのね」


 彼女の唇は弧を描く。

 何かを編むように、何かを奏でるように指を動かす。

 彼女が指先で繰るのは魔力。人類でも竜でも獣でもない魔力が紡がれ織られ、彼女を包む。

 黄昏の糸が満ちれば、彼女は軽く床を蹴った。そのまま曇天を飛び、密林を越え、海を翔ける。

 エーテル濃度の高い上空では、鮮やかな翼竜が群れ成していた。風神翼竜ケツァルコアトルスだ。極彩色の鶏冠を揺らし、高密度エーテルを切るように羽ばたく。

 レムリアの民に聖竜として崇められる竜だ。

 最大級の翼竜にとって、ネフィラ・ジュラシカなどくちばしより小さく一飲みできる。

 だが風神翼竜ケツァルコアトルスたちは、彼女から逃げるように距離を取っていった。

 ネフィラ・ジュラシカを邪魔する翼竜はない。

「あなたたちに用はないのよ」

 彼女は悠然と飛び、険しい山脈を越える。

 ネフィラ・ジュラシカの求める竜は、風神翼竜ケツァルコアトルスではない。もっと聖なる竜、もっと古き竜、そしてもっと偉大な力を宿した竜。この世で一匹だけの竜だった。

 溶岩の湖が、眼下に広がっていた。

 夕闇じみた色で、黄昏めいて光っている。溶岩に酷似していたが、宿す力強さは遥かに上だ。

 それは時間に棲み、空間を翔けしもの。

 因果を肺腑に収め、星気を喰らうもの。

 生命と創世の記憶を宿し、はじまりにして絶対の竜。

 古代竜ラーヴだ。


「やっと見つけたわ、古代竜。あなたの力は妾が貰うわ」 


 彼女は指先で、不可視の糸を織りなす。

 魔力を紡いで、織りて、魔法と成す。


「これは真実にして嘘無き、まことに真正にして確かなもの 下にあるものは上の如く、上のものは下の如く、唯一の奇蹟を果たさんがために」


 神聖なる音韻によって、聖娼ネフィラ・ジュラシカの魔力が高ぶる。


「召喚! 『エメラルド牌』!」


 彼女の周囲に、巨大なエメラルド牌が現出する。

 原始の緑が煌めくエメラルド牌には、誰にも解読できない文字が刻み込まれていた。

「さあ、妾に力を寄こしなさい! 宇宙を翔け、因果を視る、その力を!」

≪痴れ者がッ!≫

 古代竜ラーヴは咆哮する。

 世界すべての花が散り、雨が蒸発し、エーテルが暴発した。

 






「………………ッ!」

 

 彼女は夢から目覚め、臥所から起き上がる。

 聖娼ネフィラ・ジュラシカだった時代の夢、6666万年前の記憶だ。

 蜘蛛のかたちをした魂は、今は若い娘の肉体を得ている。

 今の名は、王姫プラティーヌ。

「古代竜………ッ」

 純白の膚には、白銀の髪が張り付いていた。それほど不快な感覚ではないが、不快な感情を払いのけるように、乱れている髪をかき上げた。己の汗を含んで、重たげに皮膚に張り付いてくる。 

 シーツの寝汗がやけに癇に障る。

 豪奢な寝台の底で、彼女は若木のように身を撓らせ、息を吐く。天蓋から垂れ下がる緞子は、彼女の吐息を押し返した。

「どうしたのだね」

 彼女の傍らに眠っていた中年の男が、震える声で問う。

 ディアスポール公爵だ。

 国王ピエール19世の叔父であり、王姫プラティーヌの父である王族。昼間は毅然と振舞っているのだが、寝床に沈む公爵は身を縮めている。何かに怯えているようだ。

「いいえ、目が覚めてしまっただけ。さ、あなた、朝はまだ遠いのですから、もう一眠りしましょう」

「ああ。そうだな、そうだな、ティターヌ……ティターヌ……………」

 ディアスポール公爵は亡くした妻の名を呼びながら、彼女に縋りついた。

 公爵は毒を呷ったように舌先が痺れ、焦点は盪かされている。

 【魅了】だ。

 亡き妻を慕う心をこじ開けられ、己の娘が妻にしか見えなくなっている。悍ましい欺瞞の渦中に突き落とされた公爵は、怯えながらも幸せそうだった。

「ティターヌ………」

 魅了された公爵の呻きに、彼女は満足そうに唇を歪める。

 狂った男は可愛らしい。

 お気に入りのぬいぐるみを愛するように、ディアスポール公爵の薄くなった髪を撫でて口づけた。

 躯も心も魂も溺れさせられて、眠りの海に沈められていくディアスポール公爵。夜を重ねるごとに、正気が擦り切れていく。

「服を」

 影から小間使いたちが現れる。

 ずっと無言で控えていた小間使いたちは、【屍人形】だった。

 純白のネグリジェを着せて、瀟洒なミュールを履かせる。

 レースのネグリジェはいかにも可憐で頼りないが、彼女が糸を紡いだ魔力の結晶だ。

「ありがとう」

 お気に入りのお人形たちにキスをする。

 彼女は公爵の寝室を抜け出し、常夜灯の続く廊下を歩いていく。魔術が齎す【光】は蝋燭みたいに揺れることなく、凍っているようだった。ときおり衛兵が立っているが、彼女の姿を網膜に映すことはない。 

 辿り着いたのは、王のご寝所。

 彼女が指を動かすと、扉が開く。

 ピエール19世のおわす寝床は、どこもかしこも豪奢さに圧迫されていた。天蓋付き寝台の前には、金鍍金の柵がある。この壮麗なる柵は、王の就寝を貴族が眺めるための境界線だ。王は食事も散策も貴族たちに見物されるが、就寝も同じく見物される。

 見世物小屋の柵としては、世界でいちばん高価な柵だった。

「陛下……」

 愛らしい声を出すと、ピエール19世が起きる。

 若き国王は、従妹姫の姿を目にして眠りを振り払った。

「プラティーヌ姫! どうした、まさか、また公爵が悍ましい真似を……」

「………ああ、どうしましょう、もし姫に子ができてしまえば、お父様の名誉が」

「姫。プラティーヌ姫。あなたは被害者だ。そんなことを気に病むなど。子爵夫人はどうした? 傍にいてくれるのでは?」

「ご子息にお会いするため、今夜は下がっておりました………」

 若き国王は泣き崩れるプラティーヌを抱き寄せて、誠実に慰めた。

「姫。やはり学院に戻るべきだ。あそこに避難すれば………」

「いいえ、そんな。だめです。王妃さまが王宮にいらっしゃらないもの。姫までいなくなってしまえば、貴族の方々ががっかりするわ」

 まだ若い国王は言葉に詰まる。

 王妃エメロッド。

 愛人の否定や時間厳守といった帝国式の振る舞いを貫く王妃は、貴族たちの反感を買っていた。

「ではヴェルメイユ叔母さまにご相談を……」

 ピエール19世は、王族の名を出す。

 先代国王の妹君で、蔑ろにできぬ王族だ。

「ヴェルメイユのおばさまは、もう世俗から離れたお方。それにこんなこと教会に知られるなんて、姫の魂は煉獄に堕ちます。父親を惑わした娘など……」

「どうしてあなたが苦しまねばならぬのだ」

 戦慄くピエール19世に、彼女は縋りつく。まるでか弱い少女のように。

「……陛下、陛下。姫の頼りは陛下だけなの」

 従兄妹の誠実な慰めは、そのうち男女の淫らがましいものになる。

 彼女のこの行動に、特に意味はない。

 国王を篭絡するとか、国王と公爵の対立を煽るとか、利益はあるのだが目的ではない。彼女本人としては行き道にカフェがあるから、寄ってショコラでも飲んでいこうという程度のお遊びだった。

 邪淫は彼女とって、呼吸に等しい。あるいは彼女そのものが呼吸する邪淫なのだ。

 夜が白んでくる頃、ピエール19世は力尽き、やっと眠りについた。苦悩の混ざる眠りだ。

 彼女はネグリジェに袖を通しながら、婬靡な寝床から抜け出した。ミュールを掴んで、国王寝室の飾りに触れる。

 隠し扉が開く。

 先代国王の公妾時代に作っておいた隠し部屋だ。

 これは国王どころかオニクスさえ知らない。

 狭い通路を進み、急な階段を降りる。

 そこにあったのは、彼女の研究室のひとつだった。

 彼女が足を踏み入れれば、光の護符が呼応する。

 蒼い光を浴びるのは、硝子のフラスコや試験管、真鍮の秤、そして数多の宝石たち。すべてが機能美に従っており、狭いながらも高度な研究室だった。

 錬金フラスコの内側には太古の海水が満たされ、珊瑚の化石が揺れている。

 珊瑚の化石は、まるでレース細工だ。

「安定したかしら」

 ミュールを投げ捨て、海水を抜く。

 珊瑚の化石は砕けることなく、それどころか傷ひとつなく残っていた。 

「やっと完成したわ。新しい魔術」

 魔女は嬉々として、瞳を輝かせる。

 別の扉が開く。入ってきたのは小姓のモリオンだった。銀盆に乗っている朝食は、焼きたてのクロワッサンとスミレの香りがするショコラ。

「おはようございます、我が主」

「ご覧なさい、モリオン。これでオニクスを取り戻せるわ」

 彼女は唇を綻ばせる。

「いつ過去から戻ってくるのかしら? それともとっくに戻って、妾を殺そうと狙っているのかしらね? 妾を殺すための魔術と駒をかき集めているかもしれないわ」

 彼女は歌うように語り、踊るようにくるりと回転する。

 頬だけでなく、乳房までもが薔薇色に紅潮していた。

「妾の神官として仕えさせて、いっしょに生きてあげてもいいわね。オニクスがいれば、永遠が手に入るかもしれないもの」

「我が主。すでに永遠を生きるほどの力をお持ちでしょう」

「妾を買いかぶり過ぎよ。地球すべて溶岩の海になったり凍り付いた程度なら、妾だって生き延びれるわ。でも地球そのものが終焉を迎えたら、妾の力も及ばない。時間がないわ」

 時間がない。

 その台詞に、モリオンの背筋が凍る。

「……猶予はあとどれほどでしょう」

「十億年よ」

 彼女が発した単位は、モリオンの想像を絶するものだった。

 まだ十年しか生きてないモリオンにとって、十億の時間など実感できない。

「全海面が蒸発して、今の火星と同じ錆びた荒れ地になってしまうわ。地球の死は75億年後だけど、そこまでくると魔術素材も無くなってしまうもの。あと十億年のうちに、妾は絶対の永遠を完成させなくちゃいけないの」

 オプシディエンヌは真剣だった。

「十億年も生きれば十分では?」

「あなたは向上心がないの? 世界はとても魅力的で美しいわ。星の誕生が見たいわ、太陽の死も見たい。時間障壁の果てを越えてその先も見たい。人知の及ばぬものすべてを目にして味わって愛するのに、十億年で足りると思う?」  

 

 男を破滅させるのは趣味。

 永遠を生きるのは手段。

 目的は、全知。

 すべてを知ること。 


「そのためには取り戻さないと」

「オニクスをですか?」 

「ええ、それともうひとつ。古代竜に切り離された妾のちからよ」


 王姫プラティーヌ、否、魔女オプシディエンヌ、否や否、レムリアの聖娼ネフィラ・ジュラシカは動き出す。

 己の魔法空間『図書迷宮』を、取り戻すために。



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