第十九話(前編) 蹇蹇匪躬
「……まさか、きみは」
「まさしく閣下に近習としてお仕えしたシッカにございます。パリエトと西方風に名を改めまして、この連盟に属しております」
シッカさんだ。
生きていたんだ! シッカさんが生きていた! 砂漠の滅亡を越えて、千年後の今日まで生きていてくれた!
星幽体が壊れかけているせいで、わたしの眼球から涙は溢れない。でも泣けるなら、鼓膜までべしょべしょになるくらい泣いてた。
あんなひどい災禍を招いておいて、挨拶も出来ずにお別れしちゃったもの。
シッカさん、気絶してたから。
じゃあロックさんはあの後、約束通りシッカさんを安全なところまで送り届けてくれたんだ。
「テュルクワーズさま。どうか我が君の治癒を」
「は、はい」
「アルマース、アルマーザ。カマユー猊下のご遺体を、殯宮に運ぶように」
シッカさんが指示を出せば、離れたところで誰かが動く気配がした。シッカさんのお弟子さんたちかな。
「いや、星智学のご老体はそのままに」
先生の強張った声が、みんなの動きを止める。
「オニクスどの。ご遺体をこのままにしておくのは、あまりにも……」
「畏まりました。蛇蝎の閣下にお考えがおありなら、留め置きましょう」
シッカさんの返事は、場違いなくらい澄んでいた。
「星幽体を移植する」
「まさかオニクスどの………カマユー・カマハエウス猊下の星幽体を、ミヌレ・ソル=モンドさまに移植するんですか………」
「博打だと分かっている。だがもはやこの手段以外、ミヌレの崩壊した星幽体を回復させられるとは思えん」
「たしかに。ですが、ああ、成功率は、あまりに、低いですよ………」
「成功させる。私を誰だと思っている」
確固たる自信を宿した声だった。
もう大丈夫だ。
先生は時空を跳ぶ魔術を作り上げた。わたしの治癒だって可能なはずだ。
わたしは安心して目を伏せた。
目を開くと、魔法空間のソファに座っていた。
大きな窓からあるリビング。差し込んでくる光は浅くて、リビングのところどころはバグっている。ドットが欠けているみたいに、空間が不自然に抉れていた。
普段だったら面白い光景だって思えるけど、カマユーの【星滅】の影響なら楽しめない。
欠けていく空間。
だけど蝶々たちが舞い降りてきた。
オリハルコンシルクの光沢を放つ胡蝶たち。
蝶が降りたところだけ、空間の崩落が止まる。
「我が君……」
目の前の肘掛椅子に、シッカさんが座っていた。
砂漠で別れた時の姿だ。
秀麗な顔立ちに、気品ある姿勢。巻いていたターバンをショールのように纏い、長い長い髪を垂れるがままに流している。いつも淹れてくれたジャスミン茶の香りさえ、キッチンから漂ってきそうだった。
「……ああ、我が君に何から申し上げましょう」
シッカさんが半ば独り言じみた呟きを漏らす。独り言っていうより、もう意味を孕んだ吐息に近い。
「日月逾邁、拝謁叶いましたら申し上げようと思っていたことは星の数ほどございます。いざお目通りの栄誉に浴せば、何を申し上げて良いのか胸に渦巻くばかりで……」
「大丈夫、わたしも戸惑ってます! まさかシッカさんが生きてて賢者連盟に入ってるなんて!」
魔術を駆使すれば数百年は寿命が伸ばせるし、オプシディエンヌなんてたぶん億単位で生きてるけど、シッカさんが生きてるとはびっくりだ。
「あ、連盟に入ってるっていうか、パリエトって連盟創始者のひとりですよね。シッカさんが連盟を創始してくださったんですか」
「はい。わたくしめが後宮祐筆だった時代、宰相になったブッソールより、闇の教団や世界鎮護のことも伺っておりました。遥かな未来に我が君が賢者連盟に迎えられると聞いて、わたくしめも立ち上げに関わらせて頂きました。我が君からのご恩に報いるならば、西大陸での魔術師の地位を盤石にするのが最適かと思いまして」
「ご恩? ……わたしは砂漠帝国を亡ぼしたんですよ」
「まこと素晴らしい終焉でございました」
めちゃくちゃ物騒な発言だ。
玲瓏な声でそんなこと言うもんだから、凄みが五割り増しである。
そういやシッカさん、ブッソール猊下の密偵だったけど、ゼルヴァナ・アカラナが齎す滅びも望んでいたんだよな。
「あの終焉はわたしの未熟さが引き起こしたことです。恩なんて……」
「帝国が終焉したゆえに、わたくしめはザバルジャドと旅をすることが叶いました。願うことも許されぬ願いが実ったのでございます。慈悲深き我が君からの旱天慈雨を、感謝せずにいられましょうか」
ザバルジャド。その名を幸せそうに呟く。
シッカさんは頭蓋骨を撫でる。まるで猫を撫でているみたいな手つきだった。
あの頭蓋骨って、生首さんか。
橄欖色の瞳の男のひと。
「ザバルジャドは首より下が無く飲み食いは出来ませんが、音色や香りを楽しめました。ザバルジャドとふたりで波濤万里を船で渡り、紛紅駭緑の野を歩み、火樹銀花の街で遊び、魚竜爵馬の芸を観て、窮山幽谷に居を構え、蟹行鳥跡の書を繙き、麁枝大葉の文を綴り、瓊葩綉葉の花を眺め……まことに千歓万悦の日々でございました」
生首さんと一緒に海を越えてどっか遠い街に行き、田舎に引っ込んで、本を読んだり花を眺めたりして、面白おかしく暮らしたのか。
そりゃ良かった。
完璧なハッピーエンドだ。
「わたくしめ独りでは、おそらく自由を持て余し、あるいは慄き、奴隷とさして変わらぬままだったでしょう。ですがザバルジャドは、自由を愛玩する術を存じておりました。これは奴隷でありつつ、自由になったらという空想を持っておりましたゆえに」
シッカさんは頭蓋骨を愛撫する。
こっちが恥ずかしくなるくらい愛情が籠った声と指使いだった。
「ザバルジャドと共に救われたことで、わたくしめは奴隷という軛から逃れられたのでございます」
シッカさんはわたしに膝を付く。
「我が君。まことにいと尊きお方。その慈悲は満月に優りて、その慈愛は葡萄より豊かなる御方。奴隷の幸せを分からぬと吐いたわたくしめが、浅慮でございました。我が君はわたくしめにまことの幸せを齎して下さった」
「……シッカさんは、幸せになれたの?」
「はい。阿諛無く忖度無く、わたくしめとザバルジャドは幸福でございました」
ああ……
ひとりでも奴隷を解放できたんだ。
シッカさんの魂を救ったのは、ザバルジャドさんだ。あるいはお互いに救い合ったんだ。救い手はわたしじゃない。
むしろ救われたのは、わたしだ。宦官奴隷だったシッカさんが自由を謳歌できるなら、先生だってもしかしたら自由を愛してくれるかもしれない。希望がある。
シッカさんはハッピーエンドを迎えられた。
じゃあ……ロックさんはどうなったんだろう。
「……ロックさんはお元気でしたか?」
「海闊天空たる近衛隊長ですか。わたくしめは東方の国に渡りましたが、近衛隊長は民を助けるため砂漠に残られて、それきりでございます。別れるまではお元気であらせられました」
……ほんとうにわたしの罪を贖ってくれていたのか。
涙が溢れる。
薔薇色の暁に染められていたロックさんや、過去に跳んで出会ったロックくんの笑顔を思い出してしまう。暖かな気持ちなのに、息が出来なくて苦しい。
「蛇蝎の閣下が騎乗されていた漆黒の天馬ですが、あれも無事でございました。近衛隊長に懐いたようです。天馬は水を嗅ぎ分けます。水さえ確保できれば、生きることに長けた近衛隊長が砂漠で困ることはございません」
「ふわ! ペガサスさんも無事だったんですか」
「ええ。風馳なること変わりなく、近衛隊長の善き助けになるかと」
砂漠の最適装備したロックさんに、ペガサスとは心強いな。
シッカさんは千年前の砂漠のこと、東方大陸のことを、月のこと、そして【胡蝶】のこともいろいろと語ってくれた。
「我が君を包む【胡蝶】は、ただの錦繍綾羅ではございませぬ。我が君の髪を砂漠から掘り起こし糸にし、我が君がご生誕なさったその日に織りはじめし魔術。人魚の髪で水の加護を。天馬の鬣で風の加護を。黄昏蜘蛛の糸で地の加護を。不死鳥の羽根で火の加護を。有角獣アマルテイアの尾で抗毒を、夢孔雀シームルグの羽根で癒しを。バロメッツ綿で疑似生命を。オリハルコン糸で浮遊を。まさに真なる女王のためだけのヴェール。いと尊き御身を傷つけることございませぬ。我が君が動かぬ限り」
誇らしげに語ってくれる。
そういやそんなこと言ってたな、『夢魔の女王』も。
たしか「絶対防御が発動中は、わたしからも攻撃はできないし動けない」とかなんとか。
「我が君はその天壌無窮の強さゆえ、戦い方があまりに苛烈でございます。己の四肢を贄にすること躊躇わず、敵に背を向けて話すことも臆さぬ果敢さ。その勇往邁進さはまこと素晴らしゅうございますが、痛ましゅうございます。わたくしめは御身を守る魔術を織ろうと決意致しました」
わたしの戦い方が危なっかしいから、防御魔術を作ってくれたんだ。
それがこの蝶々たちか。
「御身、健やかなることがわたくしめの願いでございます」
深く頭を下げられてしまった。
そうだな。
いくら回復力が馬鹿みたいに高くて、ヴリルの銀環が回復を加速してくれるからって、見てて痛ましいよな。
ひとの見てる前では、怪我しないようにしよ。
蝶々がひらひら、視界を横切っていく。
この【胡蝶】を、ありがたく受け取ろう。
「シッカさん。【胡蝶】、ありがとうございます。こんな素敵なプレゼント、背の君から頂いた装飾品に匹敵します」
ほんとマジで嬉しい。
クソ面倒な機織りしなくていいんだ!
いつか織らなきゃいけないんだと気鬱だったけど、シッカさんが代わりに織ってくれていたよ!
気づけば、いつの間にか蝶が消えていた。
静寂の魔法空間で、シッカさんは静けさと同じくらい静かに微笑む。
「我が君。蛇蝎の閣下が成し遂げたようでございます………」
先生がわたしを回復させてくれたのか。
「戻りましょう、我が君」
「はい」
わたしはシッカさんに誘われ、現実へと浮上した。