第十六話 わたしという宝石箱
アエロリット猊下の死に際をぼんやり眺めていると、絨毯の周囲が陽炎めいて揺らいだ。
疑似空間転移だ。
魔術師たちが何人も、転移してやってくる。
「猊下! アエロリット猊下! ご無事ですか?」
「アエロリット師!」
魔術師たちが目にした光景は、死にゆく賢者アエロリットと、傍らに蹲ってるわたし。
うん。
これはどう見たって、わたしが殺害犯人である。
「カマユー猊下をお呼びしろ!」
「すぐ呪符を転移させる」
ってことは、この大広間にはダイヤモンドの呪符が設置されてねぇのか。
やった、ラッキー。
「【飛翔】っ!」
わたしは風の加護を纏って翔ける。
早く先生たちと合流しなくちゃ。
【飛翔】して強行突破だ。
ゼロ距離で攻撃呪文ぶちかまされようが、わたしの回復力なら何とでもなる。仲間ごとぶち殺しにかかるほど、賢者連盟は狂っていないだろう。
一応、【防壁】と【庇護】を詠唱しながら、【飛翔】する。
「【紅鏡重力】」
「ぶへっ?」
瞬間、わたしの肉体が床に叩きつけられた。
か、身体が、重くて、動け、ない。
わたしが抑え込まれているんじゃなくて、この空間全体に魔術が展開される。【静寂】とかと同じ展開式だ。いくらわたしの魔力が高くても、空間展開系は効く。
周囲の魔術師たちも、全員、床に倒れ込んでんじゃねーか。
誰かひとり無差別非殺傷攻撃呪文をぶちかましたのか。どいつだ。賢いな。
まずい。指一本持ち上がらねえぞ、これ。
魔術の展開範囲が狭められた。
周囲の魔術師たちは起き上がってんのに、わたしだけ床でぺしゃんこスフレになっている。
「ぅ、うぐ」
呪文を唱えようにも、舌さえ重い。脳髄が押しつぶされそうだ。
動けない。
魔術師たちが手を伸ばしてきて、わたしの呪符を外そうとする。
スカートについている【水上歩行】、首につけた【飛翔】に首から下げている【浮遊】や【水】、耳朶に飾られている【水中呼吸】。
嫌だ。
わたしが先生から貰ったものを、奪おうとするんじゃない!
「や、めろ」
フィジカルでなんとからんのか。クワルツさんみたいに、筋力増加すれば動けるか?
経絡に魔力を流し込む。
わたしはスカートの下のナイフを抜く。
ダマスカス鋼のナイフの切っ先が、魔術師たちの指を掠めた。
掠めるだけだ。
こいつらの首根っこ掻っ切るほど、わたしは素早く動けない。
スカートを抑えられて、【水上歩行】が外されていく。
「……あっ」
奪わせない。たとえ処刑されても、わたしの呪符を奪わせない。
『永久回廊』へは、この子たちも一緒に行くんだ。
わたしの心臓、【一角獣化】のように。
ああ、そうか、そうすればいい。
すべてわたしの心臓にすればいい。
わたしは自分の鎖骨に、ナイフを突き刺した。
鋭利な切っ先によって血が噴き出し、垂れ流れる。
「な、なにをしている……っ?」
「奪わせない。先生からの贈り物を、奪わせない!」
わたしは呪符を、切れ裂かれた傷口へと埋め込んでいく。月長石の呪符を傷に叩きつけると、ぐじゅぐしゅと血とか肉とかよく分からん体液が垂れた。臙脂の血だまりが広がる。
ヴリルの銀環を錫杖にして、肉体回復。
鎖骨の傷が塞がっていく。
右手のナイフで、耳、太もも、くるぶしへ深く刺して呪符を埋め込む。
左手の錫杖で、耳、太もも、くるぶしの傷を癒していく。
呪符たちを体内に取り込んだまま、皮膚が元通りになっていった。
ああ、これでもう誰にも奪わせない。
誰にも触らせない。
先生が作ってくれた装飾は、永遠にわたしだけのものだ。
わたしは呪文を詠唱する。
「我は大地の恩恵に感謝するがゆえに」
この状態で感謝もクソも無ぇけどな。
わたしに圧し掛かっている重みは、大地の加護そのもの。暴力的にまで増した加護だ。それを解除する。
「大地の加護をひととき返上せん」
呪符と魔力が呼応する。
ヤバい。
体内に呪符と魔力が同時に存在しているから、魔力が体外に放出されない。いつもなら呪符が肉体の延長線になって、魔力が外に流れていくのに。
一時的に呪符を出さないと、構築された魔術が体内から展開されていかない。
めぎょりと、わたしの鎖骨の下が蠢いた。
月長石が皮膚から浮き上がる。
ああ、これで展開できる。
魔力によって構築した魔術を、呪符によって展開、そして。
「【浮遊】」
呪文により、発動。
身体から重みが外れた。
【浮遊】ってのは、大地の加護から切り離される術だもの。加護を強くした術に対してのカウンターになる。
問題ない。
魔術を使うのに、何も問題ない。
唱えた呪文から血の味がした。口にあるのは唾液じゃなくて、血ばかりだ。
赤錆びめいた血肉を吐き出す。わたしの分量はちょっぴり減ったみたい。だって呪符を入れなくちゃいけなかったもの。少しくらい減るよね。ふふ。
さあ、これでわたし自身が宝石箱だ。
皮膚の革張り、骨が仕切り、血肉がベルベット。先生から贈られた装具をおさめる宝石箱は、わたし自身!
なんて甘美。
もういっそ官能的だ。
「ふ、ふふ」
笑いが唇から零れてくる。
血が流れるよりも豊かに零れる笑い。
だって嬉しいんだもの。楽しいんだもの。
「【水】」
呪文を唱えれば、呪符のアクアマリンが首の後ろで泡のように浮き上がった。
空気中に水が生じて凝り、わたしの皮膚を清めてくれる。
わたしは【浮遊】したまま、魔術師たちを見下ろした。
しかし呪文の直前に皮膚から呪符を浮かすと、詠唱する呪文が察されて戦術的に不利かな。先に全部、皮膚に浮かせておこう。
経絡を意識して、体内にある呪符を、ぐっと押し出す。
皮膚から浮き上がる宝石の輝きたち。
「化け物………」
誰かが呟いた。
最高に機嫌がいいのに、水を差さないでほしい。
まあ、勝手に言わせておけばいい。
『夢魔の女王』だの、ゼルヴァナ・アカラナだの、小娘だの、化け物だの、勝手にほざいていろ。
わたしは自分の選んだ道を進む。それだけだ。
鏡の広間に、光が舞った。
床で割れた鏡からだ。
その優しい光は、視線を誘う虫のようにふわりふわりと踊っていた。
「………………誰が聞いていますか」
え? この愛らしい声、アエロリット猊下?
さっき死んだんじゃねーのかよ。
声が湧きだしたのは、いちばん大きな鏡の破片からだった。
「これはわたくしの遺言。弟子たちのために残した影の音韻です」
鏡の破片から、きらきらと光と音が湧く。
いや、光と音の中間みたいな現象だ。目で聞いているのか耳で見ているのか、感覚が曖昧になってくる。
「わたくしは己の我儘で、このいのちを天に還しました。『夢魔の女王』ミヌレに殺められたわけではありません。そして我が門閥による『夢魔の女王』への処刑関与を停止致します」
わたしの処刑を、お弟子さんたちに禁止した?
「真なるゼルヴァナ・アカラナに、誰が勝てるというのでしょう」
その呟きは、ほんとうに泣き崩れる響きがあった。
アエロリット猊下は、わたしの記憶を鏡に写し取った。わたしが無窮神性ゼルヴァナ・アカラナになる存在だって、知ってしまったんだろう。
「弟子たち。愛しい弟子たち。あたら命を散らすのは許せません。あなたたちは自分の道を歩みなさい」
慈愛に富んだ声だった。
勝手に自爆して、勝手に自殺したひとだけど、弟子を守りたいという気持ちは忘れなかったのか。
そして光と声が消える。
わたしに掛かっていた重力も掻き消えた。
魔術師たちは蹲り、あるいは項垂れ、嗚咽を漏らす。
この空気、完全にお葬式……
戦闘が解除されたのは喜ばしいんだけど、非常口の位置を聞ける空気じゃないな。
自分で調べよ。
壁の鏡を触っていると、別の鏡が動いた。反対方向が鏡のかたちの扉だったらしい。
薄暗い部屋に入ってきたのは、テュルクワーズ猊下だった。
青とも緑ともつかない色合いの瞳が、わたしを映して僅かに潤む。
「良かった。ご無事でなによりです、ミヌレ・ソル=モンドさま。あなたを保護します」
「そんなことしたら猊下のお立場は……」
「なんとでもなりますよ。さ、急ぎましょう。カマユー・カマハエウス猊下に見つかる前に」
たしかにカマユー猊下に見つかる前に、月下老の元へ急がなくちゃ。
「ただこの先は、あまりに冒涜的な光景が続きます」
冒涜的?
扉の先の通路に罠でも仕掛けてあるんだったら、そんな言い方しないよな。
「正直、私としては目を瞑っていて頂きたいのですが、あなたは自分の視力を奪う人間を信用しないでしょう」
「そりゃ、そうですが」
「だから覚悟してください」
覚悟なんてとっくにしている。扉の先が涜聖の地であろうと地獄の底であろうと、わたしは進むだけだ。
先生たちと合流して、月下老に直談判。その計画は変わらない。
テュルクワーズ猊下に支えられて血だまりから抜け出し、血の足跡を残しながらも、鏡の広間を出る。
薄暗い通路だ。
足元に常夜灯が灯っているけど、転ばない程度であたりを観察できない。
それでも目が慣れてくる。
通路の両側に並んでいたのは、無数にして巨大な硝子瓶。
真鍮製の気密留め具がついた硝子瓶だから、これは錬金瓶だ。
留め具には蠍と蜘蛛の紋様が装飾されていて、気密のための護符が輝いている。針状トルマリンがインクルージョンしている透明水晶だ。
こんな巨大な錬金瓶って、ひとつでもお金がかかるのに。連盟って予算をざくざく使えるんだな。
硝子の内側には、錬金液が満ちている。
なかに何が入っているんだろ?
「………ッ!」
一気に冷や汗が滲む。
無数の瓶に封じられているのは、人間の死体だった。
まさかこの錬金瓶すべてに、死体が入っているの?
瓶詰めになっている死体は、性別も人種も年齢も様々だ。両性具有も胎児も妊婦も、思いつく限り取りの人体が揃えられて、錬金液に漬けられている。
なかには耳が尖がっていたり尻尾が伸びていたり、角が生えてるひともいる。ふたつの身体が腰で繋がっているひともいた。
『妖精の取り換え仔』だ。
「人類の標本……」
脳みそが開かれたもの、腹を裂かれたもの、状態もさまざまだった。
「模型じゃなくて……ぜんぶ、ほんとに…本物の………人間?」
「おっしゃる通り。闇の教団から取り戻したご遺体です」
闇の教団。
──私は人後に落ちんほど人体実験を繰り返してきた──
先生はそう言っていた。
永遠に続きそうな瓶詰めこそ、先生の罪の証。