第十五話(後編) 鏡の国のミヌレ
いや、砂漠の件に関しては、ブッソール猊下にも問題あるじゃねーか!
わたしは時魔術研究の協力を申し出たのに、因果を改竄しようとした張本人はブッソール猊下だぞ!
反論が口から飛び出すより早く、わたしの身体は水底からさらに落ちていく。
蹄が、地面に触れる。
さらさらとした砂の感触。
わたしの網膜に映ったのは、砂漠の光景だった。
赭い砂漠だ。
オリハルコンの混ざった砂漠は、どこまでも茫洋と続き、果てを望めないほど。
転移か?
催眠か?
霊視モードに切り替えると、催眠系みたいだった。
術式は催眠系の幻術。もしかして……わたしの記憶を映し出しているのかな。
仮説そのいち わたしから記憶を引き出している
仮説そのに 賢者連盟の都合のいい世界を見せようとしている
どっちにせよこういうのって、えげつない精神攻撃ってのが定石だよな。
わたしのせいで砂漠で死んだひとたちが、わたしへ呪いの言葉を吐くってパターンあるんじゃないかな。よくある展開に警戒せざるをえないぞ。
わたしが罪悪感でぺちゃんこスフレになっちゃったら、処刑は楽ちんだろうな。クソ。
鏡の世界の砂漠を歩く。
この空間、境界あるのかな?
霊視しても、境とか杭とかそんな感じのは見つからない。
わたしが膝を折ると、赭い砂がさらさらと流れてはじめた。流れ、溢れて、渦巻きながら、人のかたちを塑する。
砂が産む塑像は、黄金色の美女。
「ザルリンドフトさん……」
ダマスカス大法院で、オニクス先生を庇って焼け死んだ女奴隷さんだ。
覚悟しておいてよかった。
わたしは彼女が口を開く前に、四つ足で駆けて、即座に錫杖で叩き潰した。ヴリルの銀環で一撃したら、すぐさま砂に戻る。
躊躇してメンタルダメージ食らいたくねぇからな。
こういうのは迷っちゃ命取りだ。
砂は次から次へとひとのかたちになっていく。死を命じられた警備のおじさんとか、楽師のナハル・アル・ハリーブさんとか、盗賊頭ハジャル・アズラクさんとか、懐かしい顔がいっぱい登場した。
口を開く前に叩き伏せる。
ああ、クソ、わたしが死を看取った人間ばっかじゃねぇか。もいっぺん砂塵に還させるのか。
死者の姿を借りて、都合のいいことを喋らせようなんて、まったく不謹慎だな。
わたしは片っ端から供養していく。
錫杖で叩き伏せているだけなんですけどね。
また砂がひとの姿になった。
かたちを成したのは……ロックさんだった。変わらない笑顔を向けてくれて、キビシス織りのマントを翻して佇んでいる。
「……これは殴りにくいな」
殴りたくない。
殴りますけど。
錫杖で過去の亡霊を打ち払う。
ああ、クソ、やっぱりロックさん攻撃すると、胸にくさびを打ち込まれた気分になる。わたしにロックさんまで殴らせたんだから、この術を構築してるアエロリット猊下は万死に値するよな。完全に許されねぇ。
さて。そろそろオニクス先生の偽物が登場しそうだよな~
独りでまぼろしと戦っている状況で、オニクス先生の偽物は効果的だ。本物でも偽物でも一撃入れよう。はい、決定事項です。容赦なく食らわせます。
おっと、別パターンも考えないと。
そのいち オニクス先生の偽物
そのに 生理的攻撃に移行 触手的なものが登場する
わたしが思考していると、砂がまたひとのかたちを真似ていく。
金糸銀糸の長衣で着飾った老人だった。百の齢を重ねて皺だらけになった顔には、小さな鼻眼鏡。
「ブッソール猊下……」
そういやまだこのひとがいたな。
わたしは即座に、錫杖を振るう。
ギィン……イイイン……ッ
耳障りな響き。
しかも錫杖が防がれた。
見えない壁が生じている。こいつだけ特別仕様かよ。砂漠エリアボスだったもんな。
ブッソール猊下が口を開く。
「歴史を変革する」
んあ? これ、聞いたことのある台詞だ。
この幻術、アエロリット猊下の制御下にあるわけじゃなくて、姿も声もわたしの記憶から抽出してるのかな?
「子供が、可愛い」
錫杖でもう一打加えるけど、やっぱり障壁が出来てる。
「こっちにきたら途端にガキが出来るようになってなぁ。ロリーは肉体を捨ててるから仕方ねえけど、他の女房たちにも子供は出来なかった。なのに、初めて、出来たんだ、子供が」
やっぱりいちど聞いたテキストじゃねーか!
だったらさっきのロックさんぶちのめす必要なかったな!
クソ。さらに術者に対して、腹が立ってきた。
「こっちの要求を呑んでくれりゃ、帝国はこの陪都ダマスクスをゼルヴァナ・アカラナ信仰の特区と認めよう。邪竜を眠らせて、てめぇらふたりはここで幸せに暮らしゃいい。めでたしめでたしだ」
幻術のブッソール猊下はまだ語る。
「時がどれだけ狂い猛る流砂であろうと、俺が御す! ダリヤーイェ・ヌール朝はとこしえに栄えさせる!」
パリ……ン
何かが割れる音がした。
鏡がひび割れる音だ。
まぼろしの砂漠世界が、割れて砕けて散っていき、風景が変わっていく。
え?
わたしの錫杖が時間差で効いた?
砂漠が水鏡の底に戻っていく。
すぐ目の前に、わたしの姿をパクったアエロリット猊下がいた。
縮こまって蹲っている。もしかして泣いているのかな?
ちょっとでも近づいたら強制イベント発生しそうだな。もう錫杖で最初にぶちかましてやった方がいいかな。
わたしは駆けて、容赦なく錫杖を叩きつける。
ギィイン……ッ
うっ、何かに阻まれた。さっきのブッソール猊下と同じだ。
「そうだったのね……」
可憐な泣き声が零れる。
「ソルは子供が出来て……それで歴史を変えようとしていたのね。わたくしと出会った歴史さえ、惜しくなかったのね。いえ、わたくしの存在が消えるかもしれないのに。それでも因果を変えようとしていたなんて」
硝子細工みたいな涙が落ちていく。
もしかしてブッソール猊下が、千年前の家族のため、因果を変えようとしたのがショックだったのかな。
そんでショックで術式が崩壊したのかな?
自分の術式で具現化させたブッソール猊下にショック受けて、術式崩壊とか自爆じゃん。
そんな自滅のしかたアリか?
「子供さえいれば、あのひとは戻ってきてくれたの?」
とっくに肉体を捨てている賢者は、涙を流し続けていた。
硝子の涙が、彼女の足元に増えていく。
「『夢魔の女王』。真実が白日に晒された以上、賢者としてあなたを処罰できません。そもそもの原因はブッソールにあったのだから」
「ご理解いただき感謝します」
わたしはほっとする。
ロックさんのまぼろしを殴らせたのはマジで腹が立つけど、今は月下老との交渉が最優先だ。カマユーがご登場する前に、先生たちと合流して地下に向かわないと。
「でもソルを……わたくしの夫を殺した報いは、受けてもらわないといけないわ」
「は?」
アエロリット猊下の形相が、歪んだ。
まるで失敗した硝子人形みたいに、輪郭ごと捩れていく。
「ここから先はただの私怨です」
「マジかよ、クソだな!」
「我は汝であるがゆえに呪を紡ぐ 天にありては地にもあり、過去にありては未来にあり 星は海に沈み、水は空に昇る」
呪文の詠唱されると、複雑な構築が積み上げられ、同時に展開していく。
早い。
わたしは錫杖を振り被って、アエロリット猊下へ叩きつける。
手ごたえ無しだ。
しまった、これは最初っから【幻影】だ。魔術師の接近戦は、【幻影】を纏うのが定石。わたしは先に霊視すべきだった。
わたしの誤った一手のうちに、アエロリット猊下の詠唱が結ばれる。
「善悪隔てず、正邪等しく、まこと映せや 【無限鏡影】!」
魔術が発動する。
風景が変わった。
ここは……
「『永久回廊』」
アエロリット猊下の魔術によって映し出された幻想は、『永久回廊』の窮極の間だった。
玉座へと続くきざはしに、銀色の影が落ちる。
佇んでいたのは、『夢魔の女王』だ。
「あなたの心の奥底から、あなたの最も恐れるものを映し出したの」
ああ、これがわたしのいちばん恐れるものか。
こんなものを怖がっているのか。
「わたくしの鏡は、まことを映します。これがあなたが孕んでいる悍ましい鬼胎」
「わたしは自分の未来と対峙した。乗り越え済みですよ」
怖くないと言えば虚勢になる。
確かにぞっとする感覚は拭えないけど、乗り越えられないことじゃない。まして今ここに対峙している相手は、本物じゃない。鏡の虚像だ。
「ほんとうに?」
その問いかけと一緒に、壁から巨大な泡が生じた。
どろぅりと、瀝青の如く沸き上がり、鋳鉄めいた鱗を帯びていく。
大蛇だ。
ゼルヴァナ・アカラナの伴侶たる尾を咬む蛇。
「『夢魔の女王』は「女神にして女王」、そして蛇は「神にして奴隷なり」。これはあなたが隷属させた哀れな蛇で、オニクスの末路」
「違う! わたしは先生を奴隷にしない!」
「そうでしょうか? あなたは結局、砂漠で女奴隷たちを解放できなかった。ただのひとりさえ、自由を与えられなかったのでしょう」
口から言い訳が零れそうになる。
みんながどんな祈りを捧げているか知りたかった。
時魔術の開発の方が先だった。
どう言い訳をしたって、この女の指摘は正しい。あれほど奴隷制度を忌避しておきながら、わたしは結局、砂漠を亡ぼすまで奴隷たちを繋ぎとめたままだった。
「結局、あなたは変わってしまうんじゃないかしら。愛した男を奴隷にする、卑しい女になり果てるの」
わたしが変わる?
小さなオタクのおうちだった魔法空間が、『永久回廊』へと変わってしまったように?
先生に対して絶対の自由を望んでおきながら、永遠の奴隷にするの?
「だったら……」
わたしは蹄を駆けさせた。
きざはしを昇り、錫杖を揮う。
「もう一度、わたしを殺すだけだ!」
愛する相手を奴隷にする女だったら、わたし自身の手で引導を渡してやる!
一度はオニクス先生のために、心臓を抉ったんだ。
躊躇うことはない。
未来のわたしの胸に、錫杖を突き立てた。
潮が引くように、あたりの白が褪せていく。
どこだここ。
大広間だ。
見たことない大広間。
大鏡に取り囲まれた広間は、天井が見えないほど高い。空間の広さは王宮なみなのに、装飾が一切無い。
壁に備え付けられている大鏡のひとつが、ひび割れて砕け散っていた。鏡の破片が、無数に散らばっている。
幻覚の世界じゃない。
現実だ。
「象牙の塔のどっかに出られたの……?」
仮説を立てる前に、信じたい仮定を独り言ちてしまう。わたしのメンタル疲弊してるっぽい。
出口がないか見回せば、離れた場所にアエロリット猊下が倒れていた。わたしの姿、そろそろやめてほしいな。
彼女は無言で動き、鏡の破片をひとつ拾い上げた。
まだやる気か?
わたしは錫杖を構える。
アエロリット猊下は、わたしの顔で笑みを作る。
瞳は空っぽで、口許だけ笑っている。ちぐはぐな人形みたいだ。
自分の顔でやられるとホラーなんですけど。
「猊下。まだ戦いますか?」
「いいえ。もう、いいわ。否定したいのは、あなたじゃないもの」
アエロリット猊下は虚ろな双眸で、鏡の破片を自分自身の首元へ突き付けた。
彼女は鏡の中だったら無敵。
なら鏡の外に出た理由は………
「否定したいのはわたくし。ソルが因果を覆すほど、わたくしの存在が軽かったなんて。わたくしにはそれが耐えられない。こんな事実を知ることになるなんて!」
そう叫ぶと同時に、アエロリット猊下は首を掻き切った。
わたしの姿のままで。
まるでわたしの自決。
愛する人に顧みられず置いていかれた、わたしみたいだった。
「……最初から、あなたを封印できようが失敗しようが、こうするつもりでした。ソルに先立たれたと知った時に。こんなことで、死ぬなど、愚かだとお思いでしょう」
肉体を捨てた彼女には、血は噴き出さない。ただ彼女をこの世につなぎとめているものが、壊れて散っていく。
「死を望むに足る理由など、ひとそれぞれでしょう。わたしだって、弱くなったわたし自身は要らない。オニクス先生もオプシディエンヌと心中したがっているんですから」
「………あなたは、それでいいの?」
「わたしは好き勝手に生きますから、あのひとだって好き勝手にすればいい」
「…………わたくしは、そこまで割り切れないわ」
「猊下は愛が深いんでしょう」
「そうではありません。ただ弱いだけ……わたくしの強さは、ソルが支えてくれたおかげだったの………あのひとがいなくなれば、わたくしは弱くて愚かな魔術師になるだけ」
そう呟いて、目を閉じる。
「ひどい夫だわ。ほんとうにひどい。でも、死んだら、また会えるかしら……?」
「ええ、会えますよ。賢者アエロリットさま」
わたしの言葉に、彼女は微かに笑った。
無垢なお姫さまみたいな笑みだ。
「ゼルヴァナ・アカラナの言葉なら、信じましょう………」
「死は生まれるための儀式。新たなる旅路に祝福を、あなたの来世にまことの幸福を」
冥き途の餞に、言祝ぎを贈る。
アエロリット猊下の輪郭が淡くなり、色彩が朧げになり、存在が薄くなり、そして永遠の眠りについた。




