第十三話(前編) ザラタン駅より海賊船経由特急カリュブディス号
波に合わせて揺れる箱型のベッド。
朝の陽ざしと海の煌めきが、ベッドの奥のわたしまで届く。
きらきらとした一日のはじまりの光。
暁は綺麗だけど、もう少しだけまどろみの海にひたりたい。わたしは寝返りを打つ。
ふわっと舞う、心地よい石鹸の香り。
擦り切れたシーツから、清潔な香りが漂った。
「奪われたものは奪い返さねばならんのだ! 奪われたものを与えられてしまえば、奪われたものは永遠に取り返せない。穢れたものを押し付けられたところで、奪われた屈辱は癒せん!」
「………………」
朝礼が、寝床まで響いてきやがった。
オニクス先生の朝礼で、まどろみが吹きとんじっゃたじゃねーか。
わたしは船尾楼の部屋という、いちばん良いお部屋で寝起きさせてもらっている。ソファにはクワルツさんが寝ていたが、このクソうるせー朝礼で起きたらしい。
甲板側についてる窓を覗く。
オニクス先生が船首のあたりに立ち、海賊さんたちに朝礼している。
海賊さんたちは毎朝、点呼して、今日もがんばるぞエイエイオーみたいな朝礼してたんですけど、いつの間にかオニクス先生が朝礼乗っ取ったんですよね。朝礼を乗っ取るって意味分かんないけど、乗っ取ってんだから仕方ない。乗っ取んなよ。
「アァ~。そんなに朝礼好きなら、全校集会や晩餐でも喋れよ」
わたしは掛け布団を蹴り飛ばした。
足をぴんと伸ばしたまま、ダマスカス鋼のナイフを太ももに装備した。
「ああいうタイプの朝礼は斬新だな」
クワルツさんが髪を掻きながら呟く。
「神学校の朝礼と比べたら、斬新どころじゃないですよね」
労働派神学校の朝礼なんて、厳粛なんだろうな。
「実家の朝礼と比べても斬新だ」
「お家で朝礼やるんですか?」
「うむ。使用人と小作人合わせると、五十人近くいるからな。母屋の大階段室で朝礼する。今日の連絡事項とか予定を読み上げて、最後に祖父が聖書を読む」
「礼拝と業務連絡の合体みたいな感じですね」
「ちなみに吾輩が祖父の代理するときは、讃美歌を弾く。うちのホールにはオルガンがあるからな」
「そっちの朝礼の方がいいな……」
【水】の護符が仕込んでいる水差しを傾けると、真水が洗面器に満ちた。
顔を洗ってから、髪を梳く。パジャマからオリハルコンドレスに着替えれば、身支度は完了だ。
「ゆえに我らの略奪は正当である! 私腹を肥やす愚物どもが命乞いして被害者ぶるのは、笑止! 思うがままに奪うことが、我らの魂を正しく導くのだ!」
長い朝礼だな。
学院長より長いんじゃねーか。
「海賊さんたち、よく真面目に聞いてますねぇ。やっぱり初日のラム酒飲み比べに、圧勝したからでしょうか」
初日には歓迎というか暴行というか、ラム酒飲み比べが開催された。
オニクス先生はラム酒は好みじゃないとかライムを絞れとか不平不満を押し出しつつ、圧倒的勝利を収めたのである。
「吾輩、ああいう酒の飲み方は好かんな」
クワルツさんの声のトーンは、王室御用達セラーの跡取り息子の声だった。
「ラム酒飲み比べもひとつの要因だろう。だがあの教師が語る救いは、海賊向きの救いだから飛びついているのかもしれんな。海賊だの山賊だの、社会から爪弾きにされてしまった者には、社会が用意している救いでは救われん。たとえば神権だの王権だの人権だの、そういった概念では救われんのだ」
「先生の演説は、悪党のための説法ですか」
「そうだろうな。さりとて畢竟、己しか己自身を救えんのにな。己が神のものでなく、神が己のものであるがゆえに。あの男の演説は治癒薬ではない。癒しを騙っているだけの鎮痛剤だ」
まぼろしの救済。
【幻影】じみた救い。
不毛だなあ。
「攻撃性を正当化させて群衆をまとめるなど、醜悪な煽動だ。ああいう手合いは社会を崩壊させるぞ」
「それで一回討伐されてるんですけどね」
「反省してないのか」
「してはいるっぽいんですけど……」
「反省してあの状態は、いかがなものかと思うぞ」
「反論のしようがないですね」
「それでも愛しているのか?」
「恋は理知の外にあるものでしょう」
この発言は卑怯かもしれない。
こんなこと言ったら、もう反論できないもの。
「そこは確かに吾輩の踏み込めない領域ではある」
クワルツさんの語尾は、ため息になっていた。それからも何も言葉を発さない。さっきのため息未満の吐息が、わたしとの会話に対するピリオドだったみたいだ。
朝礼が終わらったらしく、先生と海賊さんたちが持ち場に行く。
そろそろ朝ごはんだ。
甲板の下に行く。
海賊って肉とラム酒のイメージだけど、それは人魚が獲れた時だけ。
日常は豆粥とか麦粥、あと乾パンだった。どっちにしても人魚の脂で味付けしてあるから、クワルツさんは塩漬けニシン一択。あとは船員が釣った魚のマリネかな。
食堂には半分くらいの船員さんが集まってる。
この匂いからして、今日は豆のポリッジかな。
お豆を食べ過ぎるとおならぷぅしちゃうから苦手だけど、贅沢は言えない。
「ああ、ミヌレ。おはよう」
先生がわたしを席までエスコートしてくれる。
「おはようございます。今日の特訓は朝ごはん終わってすぐでしょうか!」
「いや、私は今日、護符を作る。そろそろきみ独りでも訓練しても構わんだろう」
うおお、独りで特訓していいとな!
自主鍛錬など愚物の行為とまで吐き捨てていたオニクス先生が、わたし独りで特訓していいって言ってくれた。
これは信頼の証!
「きみの上達具合からして単独練習も問題はないが、海流に翻弄されて船の位置を見失っては事だ。その狼怪盗を連れていくといい」
「ういうい!」
よし、今日も特訓がんばるぞ。
なんの訓練かと申しますと、海水に慣れる特訓である。
カリュブディスの水支柱に乗車するために、激しい海流に身体を慣らさなくっちゃね。ぶっつけ本番なんて恐ろしいからな。
わたしは完全一角獣化したまま、渦潮に潜った。
肉体は一角獣だけど、肺腑と血液だけは人魚化しているのだ。
お魚さんたちの群れと泳ぎ、蹄で泡を作ったり、波に逆らったり流されたりして、海に慣れる。
慣れてきたところで、もっと深く、蒼い海底へ潜っていく。
音がなくなった世界に彷徨う。
海水が重なって積み上げられた蒼い闇。なんだか湖底神殿を思い出してしまった。オプシディエンヌと対峙したあの人魚の神殿。
クワルツさんが切り裂かれた光景が、脳裏に蘇った。
心臓に水圧が伸し掛かる。急に独りぼってになってしまった気分になって、わたしは海面を目指す。慌てちゃいけない。ゆっくりと。
「ぷひゃ」
わたしは海面に顔を出した。
金の空と蒼い海。そんでもって空気。ほっとする。
「クワルツさん!」
水平線の彼方で、魔狼化したクワルツさんが波間に立っていた。クワルツさんは皮膚接触タイプの魔法使いなので、水を弾いて立てるのだ。こっちに駆けてくる。
「そこか、ミヌレくん。ずいぶんと流されたな」
「すみません。どのくらい潜れていました?」
「記録更新だ。一日経過したぞ。四日間の水中は耐え切れそうか?」
「気温も水圧もへっちゃらですし、潜水時間もさらに伸ばせる感じがします」
「無理はするな。そろそろ帆船に戻らんか?」
もっと頑張れるけど、夕暮れも近いみたいだし戻るか。
「お船どこでしょう」
「あっちだ」
夕凪の海原を、わたしは【飛翔】して、クワルツさんは歩いていく。
朝早くから特訓がんばったな。これならカリュブディスご乗車も成功しそうだ。
「今日は風が強くないから、料理長もあったかいごはん作れそうですね」
風が強いと、木造帆船では火が使えない。嵐の日なんて、憐れなものしか食べられないのだ。
今日の風は穏やかだから、きちんと煮炊きしたものが口にできそうだ。
「先生も乾パンだけじゃなくてよかったです」
わたしたちが一応は新鮮なもの食べている横で、先生ひとりで冒険者ギルド印の乾パンオンリーは不憫だものな。
「意外だな」
「何がです?」
「あの男のことだ。食事の質は健康や気合に大きく関わるとはいえ、あの男が見知らぬ他人との集団生活を選ぶとは意外だ」
たしかにわたしは初対面じゃないけど、先生は初対面だもんな。
わたしだってあの元山賊な海賊さんと親しいわけじゃないけどさ。
「あの男、人付き合いを拒む雰囲気を醸しつつも、意外に群れて生きるのを好むタイプだな」
クワルツさんが評する。
奴隷根性って言い方されたら全内臓が吐き気で一斉蜂起するけど、群れで生きるタイプって表現なら納得できる。
ブッソール猊下はオニクス先生のこと、奴隷根性って評していた。根っこの部分はいまだに奴隷だと。そのくせプライドが高いから、自分に相応しいご主人さまを探しているのだと。
強くて愚かな奴隷。
鉱山。
軍隊。
宮中。
教団。
連盟。
学院。
オニクス先生は色んな群れを渡り歩いてきた。
「群れで生きるための社会性は高く、そのくせ協調性は低いタイプだな」
「それ、相反してませんか?」
「吾輩の叔父にそういうタイプがいる。製材所をワンマン経営しているぞ」
「ああ、ワンマン系のひと……」
独裁者って、社会性カンスト協調性マイナスなんだ。
社会性と協調性って別ものなんだなあ。たしかに思い返してみれば同級生にも、社会性は低いけど協調性は高い子がいる。ヴァリシットさんは、そんな感じだった。
「トップに重用されているポジションも大丈夫ですよ」
「仕える主人を間違えたら、最悪になるぞ」
仕えるべき主人。
先生はオプシディエンヌに従って、道を大きく踏み外した。
「きみなら大丈夫だと思うが」
瞬間、心臓が縮こまった。
クワルツさんまでブッソール猊下と同じことを言うのか。
わたしに、あのひとを飼えと言うのか。
「……わたしは、人間を飼いたくないんです」
「きみは自由と自立を愛しているからな」
「愛してないひとがいるなんて、思いもよりませんでした」
潮騒を聞きながら思い出すのは、砂漠の囁き。
わたしは千年前の砂漠で、いろんなひとの願いを聞いた。
ひとの幸せはそれぞれで、願いも異なる。
他人の事ならいい。
好き勝手に道を歩いて、幸せになればいい。
「わたしは先生のご主人さまになりたくない」
奴隷は嫌だ。
それだけは嫌だ。
潮風はわたしのたてがみをかき乱して、通り過ぎていく。鬣に潮の匂いを残して。なんだか涙の匂いに似てる。嫌だ。
「戦争さえ起らなかったら、先生は言動以外は善いひとですよ」
「きみは、酒さえ呑まなければいい夫なんですと、愚にも付かんフォローする妻か?」
「そういう正論を聞く気分ではないですね」
夕闇の中、水平線に帆が見えてきた。
おふねがふたつある。
海賊さんたちの帆船から、無数の火矢が放たれていた。夕陽をさらに焦がすほど、火矢は激しく降り注いでいる。
「ふへ?」
「帆船が交戦しているな」
交戦?
「なんであのおっさんは目を離すと戦争しているの……?」
「魔王だからでは?」
わたしの素朴な疑問に対して、クワルツさんは率直に答えてくれた。