第十話 (後編) 友情の定義
オニクス先生の纏う呪符たちまで、視線を宿している。携えている杖の蜥蜴も、手甲の単眼百足も、襟首に留まった蝙蝠も、すべてがディアモンさんを睥睨しているみたい。
先生はマントを翻して歩む。傍らの蝋燭が揺れる。たったそれだけなのに、まるで魔獣の群れを率いている気迫があった。
アトリエに満ちている極彩色さえ、色褪せそうな気迫。
「事情を」
「あらあら、ニック。これでもアタシは連盟の高位魔術師よ。ぺらぺら内部情報を白状すると思う?」
ディアモンさんは薄っぺらい無表情で、自分の視線を遠くへ投げ捨てていた。
「では勝手に問う。ミヌレを抹殺する理由は、この子が邪竜の真名を知っているからか?」
ディアモンさんは視線を合わせないまま。
だけど瞬間的に、眼球の焦点が窄まる。
これは、たぶん肯定だ。
わたしが古代竜ラーヴさまのお名前を知ってるから、賢者連盟は処刑を試みている。世界存続のために。
ぐぅの音も出ないレベルの正義だな。
「どうして発覚した?」
「喋らないわ」
「外部からの通告か?」
「喋らないわよ」
「新しい鎮護魔術師候補が霊視したのか?」
「喋るつもりはないって言ってるでしょ」
「きみの師はどういう立ち位置だ?」
「立ち位置ですって?」
刹那、ディアモンさんからショールが落ちる。ショールと一緒に平然とした素振りも落ちてしまったのか、虹彩の色は淡くなった。
「パリエト猊下はこの事態を放棄されているわよ! すべて些事だと言い放ち、ご自分の結界に籠られたまま!」
「なるほど。だからきみは、星智学のご老体の指揮下に組み込まれたわけか。しかし私を世界鎮護に据えておきながら、この問題は触れてないのか? どういう了見だ」
「アタシの推測だけど……パリエト猊下は寿命限界が近いの。猊下が自らおっしゃったわけではないけど、たぶんそうとしか思えない。それ以外にあれほどまで世事を捨てる理由はないわ。きっと猊下は、新しい魔術を完成させようとしている。残りの寿命のすべてを費やして」
「魔術師として貫くべき信念だな。己の魔術完成のためならば、世界鎮護など些事か」
皮肉なのか賞賛なのか。
分かりにくい口調だけど、たぶん先生としては賞賛が強めだな。
「パリエト猊下はそんな魔術師ではなかったのだけど」
「死が近づけば、人間どう行動するか分からんものだ。私でさえ命乞いをした」
「……そうね」
反応しにくい自虐ネタに対して、ディアモンさんは相槌だけを返す。
「月下老は処刑命令に関与していないのだろう」
「ええ。当然よ。月下老だもの」
感情で堰切ったせいなのか、ディアモンさんは視線を合わせないけど普通に喋り出す。
月下老に関しては、喋っていい情報なのかな?
「では話し合いの余地があるのか」
「そうね、そうかもしれない。月下老となら、もしかして。でもニック、生憎ここはもう月に繋がっていないし、他のどこに月への道が繋がっているかアタシは聞かされていないわよ」
「だが転移するための絨毯はあるだろう。古代魔術系の魔術師が管理するものだからな」
「転移の設置は手伝わないわよ」
ディアモンさんが素っ気なく呟く。
「そこは問題ない。私は千年前のダマスカス中央大法院の図書館で、三ヶ月ばかり寝起きしていた。空間疑似転移も設置できる」
「は?」
「ちなみにオリハルコン刀工房と、空飛ぶ絨毯工房も見学してきた」
ゆるゆるとディアモンさんがその場にへたり込んだ。
「また寝不足だったのか?」
「古代魔術の復興を目指す魔術師が聞いたら、卒倒するわよ」
ディアモンさんは溜息交じりだった。
そりゃそうだよな。
古代魔術って使える魔術師が少ないって言ってたから、過疎ジャンルなんだろ。
オリハルコンを多用した古代魔術は、千年前の帝国だと大規模なのに現在は過疎ってる。
過疎っちゃったジャンルが最高潮の時にタイムスリップして、神同人を読んできたとか神絵師スケブ貰ってきたとか言われたら、卒倒のひとつふたつしちゃうよな。
「アナタが古代魔術を設置が出来るんだったら、アタシはお払い箱ね。ここで殺されるのかしら」
不吉な単語が鼓膜に触れる。その瞬間、わたしの鼻腔に女性の焼ける匂いが、網膜には男性の血の鮮やかさが蘇ってきた。焼かれたザルリンドフトさんや、自害した警備員のおじさんの死に際だ。
最悪の展開だけは阻止しなくちゃ。
「先生っ! ディアモンさんは友人ですよね!」
わたしはディアモンさんの前に立つ。クワルツさんも先生の背後に回って、不意打ちの機会を狙う。
ディアモンさんを殺されたくない!
「友人だと思ったことはない」
冷たすぎる言葉を吐き、冷たすぎる隻眼にディアモンさんを映す。
「敵だよ、きみは敵だ。最初から私の監視役に過ぎん。ゆえに今更、敵対したところできみの実力へ抱く敬意や、きみの信念へ寄せる好意は、目減りすることも無ければ揺らぐこともない」
敬意と、好意?
先生はディアモンさんのこと友人じゃないって言ってるのに、敬意と好意を抱いていたの?
ディアモンさんの曇っていた虹彩が、一瞬、虹めいて煌めく。
「殺さないの?」
「する必要があるかもしれんが、私はしたくない」
誰も口を開かないけど、ディアモンさんだけは微笑む。唇が微笑む音が聞こえた気がした。花びらが咲いたり散ったりするときの音に似ている。
「なんだか、やっと眠れそうね」
「【睡眠】を施そうか?」
「お願い」
そう囁いたディアモンさんの手を取って、先生は寝室までエスコートしていく。オペラのボックス席に誘うみたいだ。
先生の雰囲気とディアモンさんの美貌が相まって、絵画が動いているみたい。
わたしは黙ってついていく。
ディアモンさんは寝台に横たわった。
「我は汝を愛すがゆえに、呪を紡ぐ」
紡がれていく詠唱は、ことさら温かみがある。
闇耐性が高いわたしさえ眠りたくなるほど、慈悲に富んだ誘いだった。
「汝こそ死に似ており、死からいのちを守りたまうもの」
優しい声を聴いていると、楽師のおじいさんを思い出した。砂漠の街で出会ったナハル・アル・ハリーブさん。先生は楽師のおじいさんには駱駝や路銀を進呈したり、お抱えの楽師にしたり通り一遍ではない親切を施していた。
オニクス先生は極端なんだよな。
自分が優しくしたい相手にだけは、真心を尽くす。
「眠れよ、揺籃の内、天蓋の下。今こそ彼らにひとときの安らぎを 【睡眠】」
魔術が発動すれば、ディアモンさんから規則正しい寝息が繰り返される。
先生の横顔も、心なしか穏やかだ。
「やっぱり友人なんですね」
「違う。友情とは、きみと生徒番号220との間にあるものだろう。さもなくばそこの怪盗と聴講生か。私はあんな風に、この男を想えん」
「友情のかたちなんて、ひとそれぞれでよいのでは?」
「……無駄口を叩いていないで、鹵獲するぞ。私は魔術道具、きみは日用雑貨と私物をまとめなさい。撤退は20時きっかりだ」
マジかよ。あと五分も無いじゃないか。
「クワルツさん、急ぎますよ」
「吾輩は怪盗であって強盗ではない」
「借りるだけです!」
そう主張しても、クワルツさんは腕組みして壁に持たれている。
なんやねん、この怪盗。いや、怪盗なんだけどさ。
「じゃあ私物をまとめたいので、わたしの引き出しの鍵を開けて下さい。鍵がどっかいってるんで」
「承知した」
机の引き出しの中には、ベルベットの小箱。
中身は、レトン監督生から婚約祝いに頂いた真珠だ。わたしがゼルヴァナ・アカラナとして陪都ダマスクスに君臨していた時でさえ、これほどの逸品にはお目にかかったことがない。
革鞄の底へ入れる。
わたしたちは必要なものをまとめ、アトリエから立ち去る。
今夜の月は、凍雲に包まれていた。