第九話 (後編) 月が味方じゃなくたって
わたしは不意に目が覚めた。
薪が弾けたせいだろうか。
反射的にオニクス先生の姿を探す。暗がりの木箱に腰を下ろして眠っていた。杖を手の届く位置に置き、呪符は装備したまま。臨戦態勢で仮眠を取っている。
オンブルさんは毛布をひっかぶって、焚火と護符の【光】で雑誌をめくっていた。雑誌の文字は神聖文字化しちゃってるけど、写真が多く掲載されている。読み応えはあるんだろう。
「……あの、クワルツさんは?」
水晶色の輝きを探すけど、どこにもいない。
「ああ、あいつなら見張りしてるよ。たぶん高いところにいるんじゃないか。星が綺麗だから」
わたしはワンピースを脱ぎながら、完全一角獣に変身した。一角獣の方が寒さが防げるもの。
小部屋を飛び出して夜空を見上げれば、廃墟の塔のてっぺんに水晶の輝きが見えた。星がひとつ落ちてきたみたいだ。
蹄を使って駆けのぼる。
崩れかけた塔の崖っぷちに、クワルツさんが座していた。
「クワルツさん……」
一角獣のまま呼びかけると、クワルツさんも獣の姿になった。魔狼の姿だ。
「どうした?」
「その……クワルツさんが生きてること、マダム以外はご存じなんですか?」
「ああ、それはマダムに任せている。吾輩のことは気にしなくて構わん」
あっけらかんと言う。
「ですが……」
「悠久に咲き極まりし幻影とは吾輩のこと。己の怪盗哲学と犯罪倫理を貫いた結果ならば、悔むこともなく惜しむことはない。そもそも万が一を考えて、表向きに死ぬ用意はしてあった。こういう生き様だからな」
「……」
やっぱり慰められてしまったな。
わたしのせいで人生の半分を喪ったひとに、慰められるのは心苦しい。
項垂れていると、狼の影がわたしに触れる。
「ミヌレくん。辛いことがあったのか? 言えることなら聞くぞ。あの教師の愚痴なら聞きたいくらいだ」
わたしはクワルツさんの毛皮に、鼻づらを突っ込んだ。あったかい。なんてあったかいんだ。涙が出そうな暖かさだ。
わたしは語った。
千年前の砂漠に跳ばされたこと。
ゼルヴァナ・アカラナとして祀り上げられた経緯。
帝国との戦争。
ブッソール猊下との断絶。
そしてラーヴさまを覚醒させたことも。
「わたしはあらゆるものを犠牲にしました。オニクス先生の望みを叶えたかった……」
「犠牲にせねば、この時代はどうなっていたのだ?」
「……それは」
因果に干渉すれば、どこがどうなるか分からない。
ラーヴさまでさえ分からないのだ。
「砂漠の帝国が繁栄すれば、エクラン王国とて支配されたかもしれん。そうなれば吾輩は生まれなかった。なにせ高祖父が国王だからな。いや、それよりオンブルが産まれていない。砂漠帝国で『自然回帰論』など著そうものなら、その場で斬首だ」
軽く笑う。句読点めいた笑いは余韻無く消えて、また星の沈黙が降りそそいだ。
「吾輩はこの世に生まれたことを感謝してる。この世界を愛している。家族も従妹弟たちも好きだ。オンブルにも、ディアモンにも、ミヌレくんにも出会えた」
狼の身体がわたしに寄り添ってくれる。
「ミヌレくん、現代の世界のかたちがミヌレくんの決断の末なら、きみは吾輩の父母に等しい。父を敬するようにきみの決断を敬し、母を愛するようにきみの決断を愛そう。たとえそれがきみにとって忌まわしい罪だとしても、吾輩は敬愛し続けよう」
クワルツさん……
先生でさえ罪だと言った選択肢を、このひとは愛してくれるのか。
「誰がどう言おうと、吾輩はきみが戻ってきてくれて、よかった」
「でも、わたしは先生のために世界を滅ぼせる人間ですよ」
「ブッソールという賢者も同じではないか。未来を滅ぼそうとしていたのではないか?」
それはそうなのだけど……
「血族が可愛ければ、遠くに避難させるなり、強固な避難所を作るなりすればよかったのだ。そうすれば砂漠の帝国は滅びなかった。栄華をそのまま維持しようとしたしっぺ返しだ。ブッソールの強欲さが、帝国を崩壊させたに等しい」
強欲って片付けてしまうのは、無慈悲だけどな。
砂漠帝国の法では、何人も妻が持てる。その結果、血族や姻族が信じられない数になったんだ。ブッソール猊下の親族は、肥大化しすぎたんだと思う。
「吾輩はきみの決断を愛している、たとえ正しくなくともな。ただきみの一途さに報いる度量が、あの男にあると思えん」
「クワルツさん。実は良いニュースもあるんです」
わたしはクワルツさんのぴんと尖った耳に、鼻づらを寄せた。
とびっきりの内緒話をするために。
「『永久回廊』で蛇がいたでしょう。『夢魔の女王』に召喚された鴉色の蛇」
「即死蘇生術の?」
「そうです。あれがオニクス先生なんですよ」
クワルツさんは息を呑み、夜空を眺めた。月より遠く星の果てにある『永久回廊』を眺めているんだろう。
「悪行三昧の罰として蛇になったのか?」
「そうかもしれませんね」
先生の素行の悪さは否定できん。
わたしも先生も罰を受けて、あの『永久回廊』に閉じ込められているかもしれない。占い婆もそんなこと言ってたし。
「それが良いニュースか。きみはそれでよいのか?」
「はい」
肯定を示す。
クワルツさんは控えめに唸って、僅かに黙って、そして微かに頷いた。
「ミヌレくん。きみが報われたなら、それはハッピーエンドだ」
ごわごわとした毛皮とぴったりくっつく。
煌々とした満月が、わたしたちを照らしていた。
たとえあの月が味方じゃなくなっても、クワルツさんは傍にいてくれる。
現代に戻ってこれてよかった。
目を瞑る。
しばらくすると不均等な足音が聞こえてきた。それと杖の突く硬い音。
オニクス先生だ。
「ミヌレ。はしたないぞ」
はしたないってなんや?
真っ裸なことか?
メンドクサイ気配がする。寝たふりしよ、寝たふり。
わたしがすやすやぶりっこしてると、クワルツさんが上体だけ起こす。人間の形態に戻り、革服の肩口やベルトを直す。
「獣に慎ましやかさを求めるな。ライカンスロープしている時の感覚は、人間と異なる」
「ミヌレの先達を気取るか? 気に食わんな」
冷笑しながら、先生はわたしにワンピースを投げ掛けた。
「気に喰わんのは、吾輩の台詞!」
クワルツさんは予備動作無く立ち上がった。
これは止めた方がいいのか。でも今更、起きるのも気まずい。
「貴様には、腹を立てている」
「きみの名前を騙ったこと。まだ怒っているのか?」
「違う」
「ではミヌレを雪山に置き去りにして、今更、婚約者ヅラしていることか」
「それも業腹だが違う」
「ならばオプシディエンヌを殺そうとして、ミヌレまで【隕石雨】の展開範囲に含めたことか」
「千年前の砂漠の話だ」
「彼女を女神に祀り上げて、戦争を起こしたことか」
「そこではない」
「八つ当たりで犯しかけたことか?」
「聞いてない!」
わたし、先生に被害を受けすぎでは?
爆笑。
「ではなんだ?」
「何故、邪竜を召喚した時に、ミヌレくんに感謝しなかった?」
ふえっ?
そこ?
クワルツさんの怒りポイントそこだったの?
いや……そりゃ、感謝しねーよ。
わたしは絶対やっちゃいけないことしたんだし。
ラーヴさま覚醒は禁忌なんだぞ。
「助けた貴様が感謝せねば、ミヌレくんは報われんだろう」
別に感謝されたくてやったわけじゃねぇからなあ。
ただ先生と離れたくなかったし、エグマリヌ嬢やクワルツさんの時代を変えたくなかった。わたしの我儘だ。
「ミヌレくんは気にしてないだろうが」
そこ理解してるならいいや。
クワルツさんがわたしのこと可哀想なんて抜かしたら、後ろから蹴り飛ばそうかなって思ったけど、そこ分かってんなら寝たふり続行しよ。すやすや。
「吾輩の腹が立つのだ」
「ミヌレもいい友人を持ったものだ」
「茶化すな。吾輩はこの現代を愛している。ミヌレくんの選択肢あってこその現代なのだ。ならば感謝する他あるまい。千年前の人間が恨もうが、吾輩たちは感謝すればよかろう。何故、罪だと言った?」
「罪だからだ」
言葉が吐かれると同時に、クワルツさんが床を蹴った。
うわっ、先生を殴りにいった?
絶対に反撃される。
なのに次の瞬間、先生が殴られていた。
白い仮面が吹っ飛んで、床に倒れるオニクス先生。躱しも反撃も何もしなかった。
底冷えする廃墟。
あまりにも空気が凍てついているから、月光が霜になってしまったみたいだ。
「この程度ならば躱すと思ったが、体調が悪いのか?」
「私が殴られたということは、私が殴られても構わんと思ったからだ。それ以外の理由はない」
床に倒れたまま、答える。
「そうか」
クワルツさんは落ちた仮面を拾う。しばらく仮面を指先で弄んでいたけど、先生を見もせず投げ渡した。
無言で仮面をつける先生。
……?
なんでクワルツさんに殴られてもいいと思ったんだ?
クワルツさんの意見に納得したのか?
わたしがこんなこと言うとクワルツさんに申し訳ないんだけど、納得できねーぞ。
ラーヴさまを目覚めさせるのは、魔術師として禁忌だ。
クワルツさんは怪盗であると同時に魔法使いだから、ラーヴさまを目覚めさせちゃってもいいとして、いや、ちっともよくはないけど、魔法使いの在り方としては間違ってないんだよな。
魔法使いと魔術師は違う。
同質だけど対局の存在だ。
クワルツさんは予告状って手段で、遠視と未来視を区別している。
予告状。クワルツさん自身の能力を最適にする手段なんだけど、他のひとにとっては最適にはならんのだ。
一方、魔術師ってのは、魔術という技術を一般化するのが目的なんだ。
魔力の大きさによって出来る出来ないあるけど、ある程度は誰がやっても結果が同じにならなくちゃいけない。
再現性ってのを重んじる。
だからその再現性を重んじる魔術師が、古代竜ラーヴさまを目覚めせたのは本当に禁忌なのである。それに再現性を持たせられたら、世界を誰でも滅ぼせてしま…う…んん?
あ?
「覚醒の再現!」
わたしは叫ぶ。
ふたりから視線が集まった。
一角獣のままじゃ会話できないから、一角半獣ユニタウレになる。
「賢者連盟がわたしを抹殺する理由ですよ! 古代竜覚醒の再現性です!」
「ごめん、分からん」
首を傾げるクワルツさん。
「……ミヌレは我が師を目覚めさせた。つまり任意で、世界を滅ぼせる人間だ。賢者連盟からしてみれば、もっとも排除すべき危険因子だろうな」
「だが千年前のことだろう。現代の誰が知ってるというのだ?」
あ、それもそっか。
わたしはワンピースに袖を通しながら首を傾げる。
「ふむ。もしや過去視か? 吾輩のインタビュー雑誌のように、ミヌレくんの情報を召喚したのではないか?」
「世界鎮護できるレベルの魔術師相手に、霊視が通るはずがない」
先生は即座に否定する。
「占い婆が告げ口したって可能性もありますね」
不全【羽化登仙】で消滅した占い婆。砂漠に来る前に、賢者連盟へゼルヴァナ・アカラナだったわたしの所業を伝えたかもしれない。
「部外者から吹き込まれたところで、賢者連盟が鵜呑みにするとは思えん」
「貴様は否定してばかりだな」
「仮説に仮説を重ねても分かるものか。だがたしかにミヌレが処刑される理由は、それくらいしかない」
遥かな夜空から、月がわたしたちを照らしている。
千年前から変わらない輝き。
月は味方じゃなくても、綺麗だった。