第十二話 今回は百合のターン
霜枯れに赤らむ森。
霧に包まれる湖畔。
起きたばかりの時間に窓から顔を出せば、鼻の軟骨まで凍りそうだった。
もうすぐ年の瀬。
年越しの長期休暇前には、また試験がある。でも今回は、図書迷宮で確保した宝石がどっちゃりあるので、余裕だな。うへへ。
無理した分は楽になる。詰むかと思ったけど。
冬の試験がはじまる。
筆記、詠唱、そして実技。
わたしはゴーシェナイトに呪文を宿らせ、試験官がいる壇上へと向かった。
「第一学年、生徒番号320ミヌレです。【水上歩行】を詠唱させて頂きます」
試験官のシトリンヌは、身にまとった宝石たちをじゃらりと鳴らした。ふんぞり返ってわたしを見据える。
「却下です。あなたが前回やらかしたため、習った範囲外の呪符は採点外になりました。事前に通達があったはずですが?」
「初耳です」
「どこかで通達に齟齬があったのかしら。でも採点外です」
ふーん。
ま、いっか。
だって追試ならもう一個、呪符を作れるじゃないですか。いやあ、これは逆にいい手段じゃないかな。
「分かりました。実技試験の追試は、試験休み初日でしたね。では失礼致してよろしいでしょうか?」
試験官のシトリンヌが口を大きく開き、固まった。
視線の先はわたしの背後。
振り向けばそこに佇むのは、純白の姿。
プラティーヌ殿下だ。
相変わらず髪を結いもせず編みもせず、寝床にいるようにふわふわさせていた。
なんでいるんだ。いや、監督生は下級生の試験の補佐をしなきゃいけないけど、殿下は義務を無視しているはずなのに。
「姫に見せて」
無垢で無邪気を装った口調だった。菓子を親にねだる子供の稚気じゃない。菓子を恋人にねだる幼女の狡猾さだ。
「こんな水のない場所で、どうやってお披露目するつもりだったの? ああ、ほかの試験生の邪魔ね。控えの間に行きましょう」
促され、壇上を降りる。
試験会場は舞踏室を使っているから、当然、控室がある。天井まで鏡張りの小部屋は、ドレスを整えるにはぴったりだけど落ち着かない。
プラティーヌ殿下は、上座のソファに身体を沈める。
長い長い白銀の髪を、竪琴を奏でるように梳く。本当に絵になる姿だ。
「さぁ。姫に見せて」
わたしは【水】の詠唱する。
希うのは、大量の水。
あの図書迷宮で、先生が出したほどの圧倒的な水。
鏡の世界に水が集まる。このままでは床に落ちて水浸しになるだけ。
即時【浮遊】を唱える。
集まった水が落下する前に、【浮遊】を紡ぐ。
わたしは脳裏で、オニクス先生の構築を思い出す。先生が【恐怖】を解除して【睡眠】を叩き込む、あの滑らかな繋がり。魔術と魔術が途切れなく続くイメージ。一拍の空白もなく続く流れ。
大地の加護から解き放された水は、球体へと収縮していく。よし、いい具合に魔術が安定している。
ゴーシェナイトを握りしめた。唱える魔術は、反水魔法【水上歩行】。
「我は水の恩恵に感謝するがゆえに、水の恩恵をひととき返上せん 【水上歩行】」
球体となった水に、指先を伸ばした。
水の恩恵を一時的に返上したわたしを、水は厭って離れていく。
【水上歩行】と名前がついているが、実際は全身が水に触れられなくなる魔術だ。ただし酒とか油とか水銀とか、液体は触れられる。
両手を使って、【浮遊】している水を誘導し、分裂させ、踊らせる。
「よろしいでしょうか、殿下」
「いやあ、姫は大感心だよ。【水】の魔力の練り方も、そこから【浮遊】を滞りなく紡いで、【浮遊】と【水上歩行】の属性が違う魔術をいっしょに使うなんて」
昏く黒い瞳で、浮遊している水を眺める。
白い唇が何かを呟いた。
水が霧になって、掻き消える。
今、なんの魔術を使った? 呪文を聞き取れなかった上に、魔力の発動も刹那だけ。構成展開が早すぎて読めなかった。
「あなた、誰かからとくべつに教えてもらったでしょ」
黒い瞳が近づいてくる。
殿下が纏っている花の香りが、鼻腔をくすぐるほど間近だ。
「誰に教わったというわけでもありません」
お手本にしたひとはいるけど。
脳裏に一瞬だけ、オニクス先生の姿が浮かぶ。
「師匠も無く、手本も無く? これほどの魔術展開を?」
「はい」
白々しい嘘をつく。
「すてきな才能ね。姫のお部屋に来ない? 研究できるようにしてあるの」
プラティーヌ殿下の研究室。
性格はちょっとどうかと思う王族だけど、読んでいた書籍やさっきの魔術展開で、実力は疑えるはずもない。きっと本格的な研究室だ。
「姫の研究を手伝ってくれれば、姫の名義で図書館の本だって自由に申請できるわ」
と、いうことは! 生物宝石とか獣魔術の蔵書も借りれる。
『水中呼吸』だって作れちゃうのではありませんか?
いや、でも雑用させられて、結局、自分の冒険や制作が後回しになっちゃったら本末転倒。
「だいじょうぶよ。雑用でもいいから姫の傍にいたい子なんて、いっぱいいるわ。そうね。週に一度でいいわ。放課後から消灯時間まで、姫に時間をくれないかしら?」
そのくらいならバイトするより短期だ。
それで申請できないはずの蔵書が読めるようになったら、お得といえばお得かも。
不意に唇が重ねられる。
花の香りがする舌が入り込んだ。わたしの舌を絡め取り、吸う。これは菫の香り。砂糖漬けの菫だ。
甘い。
刹那、頭の芯が熱くなる。まるで眠りにつく寸前の心地よさ。
だけどこれはキスの甘美さじゃない。ほんとのキスはもっと心臓がどきどきして、血潮が熱くなって、実はそんなに気持ちよくない。これは魔術的な何かだ。否、魔法だ。
呪文を介しない、原始的な魔力の使い方。
殿下の魔力が、わたしを侵食しようとする。
わたしは、これを、拒絶する。
体内の魔力が飽和して、わたしの中からわたし以外を弾き出す。
「………………っ」
魔力衝撃とともに、離れる唇。
殿下の淡薔薇色の唇からは、紅薔薇色の血が浮いていた。
黒い瞳、白い膚、紅い唇。
陶器人形じみた笑みで、わたしを凝視する。
「殿下、なにをなさいますか………」
「何って? 姫の知的好奇心のままに動いただけ」
「これが知的ぃ? 観察対象に拒否られたら、長期研究できねぇよ。知能が無ェのか!」
わたしだって先生の身体、勝手に触れなかったのに!
「………………姫の知能を見くびるの?」
ぞっとするほど冷ややかに凍てつく。
内臓が凍り付いてしまいそうな眼付だけど、屈してたまるか。
ふざけるなよ。
「破壊検査だけで研究を進めるようなものです。好奇心に知的と冠したかったら、長期視野を持つべきです。それがないなら、知性などわたしにとって無いも同然」
完全に不敬罪だな。
ひと昔なら鞭打ちだ。
「長期的視野かあ。だったらここで姫に媚び諂ったほうが、あなたのきらきらした知的好奇心は満たせる気がするの」
「御冗談を」
オタクならイベントで命を削る。長生きしようと思っていない。そもそも原稿あらば一時間遅く寝て一時間は早く起き、締め切りが近づけば二時間遅く寝て、二時間早く起きるようになる。ただひたすら指を動かす。そういう生き物だ。
好きなジャンルが長く続くよう気を付けても、自分の寿命を気にするオタクがいるものか。
長く続いてほしいのは、命じゃない。愛したジャンルただひとつ。
「研究すべき対象が滅びぬように配慮しても、己の人生に対して憂慮など致しません。長期的視野が必要なのは研究対象。魔術師ならそのために死ぬ。違いますか」
「あなたって傲慢ね。主語が大きくて耳障りだわ」
菫の香りがする呟きだった。
小さく微笑む殿下。
微笑からも、囁きからも、髪からも菫の甘い香りがした。まるで花束。
「あなたはうんざりするくらい傲慢だけど、でもあなたの唇と膚は気に入ったわ。とても」
なに言ってんだ、こいつ。
「姫はね、殿方に食指は伸びないけど、殿方に抱かれた躯は好きなの。ちょうどよく綻んでいて、柔らかくって、敏感で。好き」
あ、こいつ、趣味がやばい。逃げた方がいい。
「御前、失礼致します」
「あなたに魔術を教えたひと、オニクス教員?」
「へっ…………」
素っ頓狂な声が出た。
殿下の白い手が、わたしの手首を引いた。胸に触られる。
「かわいい胸ね。こんなささやかな乳房で誘惑したの? それとも慰み者にされたの?」
「ちょっ、触んなっ!」
「ふふ、遠慮しないで。だいじょうぶ。殿方を足の間で慰めるより、気持ちいいわよ」
白い手のひらが胸から、太ももへ下がってくる。
もう片腕で、わたしの腰をがっちりホールドしてやがる。意外に力強いぞ、この女。
ペチコートの奥に、殿下の指が潜り込んできた。
うそだろ、マジかよ。これちょっと冗談じゃ済まないレベルだぞ。最近、フォシルくんに忠告されて、男子生徒にはちょっと警戒して行動してきたけど、まさか強制百合セックスは予想外だっつーの。
「オニクス教員って口づけるとき、情熱的に髪を撫でるでしょう」
キスするとき?
どうだった?
図書迷宮の記憶が、皮膚に蘇る。たしかに髪を撫でられた。乱れた髪を、梳かれた。
鏡の間に、ノックが響く。
「プラティーヌ殿下。エグマリヌ一年生です。入室の許可を頂きたい!」
おっ、ありがてぇ。
つーか、今回のイベント、百合のターンだな。
恋愛イベント回避しすぎると、百合シナリオ入ってくんのかな?
「いいわよ」
童話の騎士の如く、エグマリヌ嬢が入ってきた。
氷色の瞳にわたしたちの姿が映る。
「何をなさっているのです!」
「あら? ずいぶんと怒ってるのね? ふしぎ。この子の髪の毛を切っても、姫の機嫌を取りたかったのに?」
プラティーヌ殿下は白銀の髪をかき上げる。
「それは……」
「この子をさいしょに裏切っておいて、気が向いたら騎士ごっこ?」
形良い唇が歪む。
なんて女だ。そんな他人の心を踏みにじるのが楽しいのか。
わたしはプラティーヌ殿下をはねのけて、エグマリヌ嬢の元に行く。
「エグマリヌ嬢の友情を侮辱するのは、やめて頂きたく存じます」
「王族の命令なら裏切るわよ」
「友情より優先すべきものがあっても、友情を疑う理由になりません。エグマリヌ嬢はわたしの大事な友人です! 失礼致します!」
エグマリヌ嬢を連れて、わたしは鏡張りの小部屋を退出する。
彼女の顔色が悪い。
なんかエグマリヌ嬢のほうが、いたずらされたお嬢様みたいな表情だな。伯爵令嬢には刺激が強かったのかも。
「エグマリヌ嬢、救護室に行きますか?」
「いや、ミヌレ……すまない…どう言っていいか」
エグマリヌ嬢は言葉を探して迷っていた。その迷いに、わたしは癒され、救われる。だってエグマリヌ嬢は自分の感情を押し付けようとしてないもの。
ともだちっていいものだな。
今更だけど。
「お心遣いありがとうございます、エグマリヌ嬢」
………………あとオニクス先生の件はブラフだろ。
庶民のわたしにさえ、あれだけ罪悪感を持ってるんだぞ。まして政略結婚が宿命とされる王族女性に、先生が手を出すわけねーよ。
あの女、わたしを煽るために、オニクス先生のこと持ち出しやがったな。クソが。
なんでわたしの魔術が、オニクス先生を手本にしてるって見透かされたんだ。
殿下の発言を、先生に報告………
いや、そこが罠だったら?
わたしを行動させるためのハッタリか?
考えすぎかもしれないけど、わたしの動き誰かに見張らせているかも。だとしたら先生に報告へ行くのは悪手だ。
そもそもオニクス先生は、こっちから行かないとイベントが起きないタイプのキャラ。わたしさえ接触しなければいいのでは?
「殿下があんなふしだらな振る舞いをなさるなんて………女同士で、あんなこと、できるなんて……」
エグマリヌ嬢はまだ衝撃が抜けてないみたいだった。
伯爵令嬢だしなぁ、百合概念がないのかな?
「できるんだ……」
せやで。百合はわたしも好きやで。ただし両想い以外は地雷だぞ。
ちょっと長すぎる沈黙。
唐突にエグマリヌ嬢は、頤を上げた。凛とした瞳でわたしを見据える。
「ミヌレ。年越しは、うちに来ないかい? 兄もきみに会いたがっていたよ」
エグマリヌ嬢のご招待がくる。
これ。
分岐点なのだ。
この招待を受ければ、エグマリヌ嬢のお兄さんである騎士サフィールさまとのルート。
そして断って寮に残れば、怪盗ルート。
怪盗クワルツ・ド・ロッシュの素顔を暴けば、仲間になる。
恋愛キャラとして攻略したいわけじゃねーけど、どうしても早く仲間にしたい。あいつ、冒険に連れていけるメンツで最強なんだよ。ほんと馬鹿みたいに強いの!
クリア後ダンジョンの永久回廊だって、あいつ居ないとボスの『夢魔の女王』を撃破できないし。
『夢魔の女王』はね、闇魔術めっちゃ使ってくる上に、魔術耐性は最強で攻撃魔術さえ無効。でも物理は弱いの。だから魔術耐性と物理攻撃が強いクワルツ・ド・ロッシュがいないと倒せないんだよな。
「お招きは嬉しいですが、わたしは貴族の作法に疎くて。エグマリヌ嬢の恥になるといけませんし、寮で護符作りに専念します」
丁重にお断りをする。
ゲームと違って心が痛む。ゲームならボタン一つで終わるのに。
すまぬ。もし友好度が維持できたら、来年は行くから。
「でもミヌレ……………あのね…殿下も寮に残るよ」
「ぴよっ?」
あのプラティーヌ殿下も、寮残り?
王宮に帰れ!
「なんで? 王宮にだって年越しの祝いがありますよね」
「あるけど………監督生って監督義務があるから、冬季も寮に残るんだよ」
「ハァ? あの殿下、仕事してねぇじゃん!」
「ミヌレ、不敬罪だよ」
「本当のこと言うと不敬罪になるんですねえ」
わたしとエグマリヌ嬢の間に、鉛めいた沈黙が落ちる。
「とにかく、殿下は王宮より堅苦しくないから、寮でいつも以上に好き勝手してるって……先輩に伺った」
「ヴぇ………いえ、いえ………目を付けられないように、おとなしくしてます………」
「ミヌレが目を付けられないようにするって、出来るの?」
絶望的に言わないでくれ。わたしも無理だと思うけど。
怪盗の素顔を見たいんだよ。
「兄の城なら安全だよ。ボクもずっと一緒にいられる」
ゲームより何故か執拗だな。
わたしが殿下にいたずらされたからかもしれん。
「即冒険に出れば大丈夫なのでは……?」
「ロックさんと? うん、まあ、それなら……」
エグマリヌ嬢が顔を曇らせながらも、妥協してくれた。
「何かあったらボクに手紙を寄こしてね。何かなくても手紙は嬉しいけど」
「退屈な手紙を出せるように、努力しますわ」
それから試験で難しかったところや、どんな小論文を書いたか話し合った。
消灯時間になっても話し足りない。わたしはエグマリヌ嬢と一緒のベッドで、小声で話を続けた。
ちなみに実技追試はもちろんあって、わたしは更に風系魔法【防壁】を手に入れた。
やったね!