第三話 (中編) 潮騒から雨音へ
1603年の夏である。
わたし、まだ生まれてない!
大昔だよ!
「隻眼どの………お久しぶりですな…ずいぶんまた老け……いや、その、成長なさいまして。本当に隻眼どので?」
ああ、この時代の先生は十六歳か。
そりゃ老けたよな。
「私だ」
そう告げた後、仮面を取る音がした。
初陣で片目を失った先生を、本陣まで引きずってきた恩人。それがガブロさんだ。傷に見覚えあるんだろう。
「間違いありませんな。馬も連れずどうしてこんな山奥に? ふもとの旅籠まで案内を、いや、それとも村役場へ行きましょう。そこからなら王宮に連絡が……」
「いや、正直に言うが、今の私は三十歳を過ぎた身。時魔術の実験で未来から飛んできた」
えっ?
いいの? 時間移動したことべらべら喋って。
でも先生はどう足掻いても十六歳に見えないし、ある程度、真実を語った方がいいかもしれない。
「時魔術……?」
「ああ……まさか、もう一度、きみに会えるとはな」
先生は感無量に呟いた。
ば、馬鹿!
馬鹿、馬鹿、馬鹿正直ッ!
馬鹿正直にもほどがあるッ!
それじゃ先生が三十歳になったとき、ガブロさんがこの世にいませんって言ってるのと一緒じゃん!
男手ひとつで孫を育ててるガブロさんに、なんてひどいことを!
死の宣託だ。
エランちゃんだって未来を、あんまり口にしなかったのに、先生の馬鹿!
迂闊な発言に気づかないならまだしも、ガブロさんも察してしまった。
まだ霊視が回復してないけど、息を飲む音と強張った気配で分かる。未来を伝えてしまった。
残りの寿命が、十四年以下だと宣告してしまった。
「ロックが、せめて、孫のロックが成人するまでは……生きられますかな?」
「確実です」
わたしは即答した。
未来を告げてしまった以上、余計な不安要素は取り除くべきだ。
「そうですか。それなら重畳というところですな」
ガブロさんは笑う。
たぶんロックさんに似た笑い方だろう。声で伝わってきた。
「ガブロ、私は……すまない」
「お気になさらず。いいんですよ。ワシは孫の成人が見届けられればそれでいい」
「しかし……」
「それよりそちらの娘さん………『妖精の取り換え仔』ですかな?」
「いいえ、これは魔術です。ライカンスロープ術の応用で、この状態を作り出したんです」
応用って聞こえの良い言葉だけど、単にバグをチートで解除した結果である。
わたしは頭を下げる。
「はじめまして、ミヌレと申します。こういう獣属性魔術を使う魔術師です。ロックさんにはお世話になりました」
「私の妻だ」
先生ときたら、砂漠の帝国と同じノリでわたしを紹介しやがった。
ここはエクラン王国だぞ。
「はぁあ? 正気ですかっ、隻眼どの! ちんこ突っ込んでいいサイズの娘さんじゃないでしょう!」
わあ、このガブロさんはロックさんのおじいさんだなあ。間違いないな。
「あ、いや、娘さんの前でとんだことを。すまないね」
慌ててわたしに頭を下げる。
ほとんど見えないけど、輪郭の変化と、頭を下げた勢いで風圧が伝わってくる。
「あの、正確には婚約者です」
わたしはフォローしてみる。
フォローできてるのか?
「では隻眼どのが無体を強いたわけではないのですな」
先生が一瞬、硬直した。
馬鹿正直な反応である。
ガブロさんの前だと、妙に馬鹿正直度が上がるな。
「………とりあえずワシのあばら家においでください。夕立ちがやってきそうだ」
「すまん」
わたしは抱きかかえられたまま進む。
「その子は足を挫いているのですか」
「ああ、目が見えないからな」
「……眼が見えない娘さんに、手を出したのですか」
空気のこわばりが伝わってくる。
犇々と、それはもう犇々と。
「いえ、見えます! これは体調不良で起こる一時的な不具合で、普段は視力ばっちりですよ!」
「そりゃよかった。それはそれとして隻眼どのには、あとでお話を申し上げたい。よろしいですかな?」
静かなガチ怒りトーンである。
「……はい」
うっわ、先生が素直に「はい」って言った! 「はい」って言ったァアア!
どんな表情してるの?
どんな顔!
霊視が切れてるから見えやしねぇ! クソ! わたしの眼球、マシュマロか!
「……温泉行きたい」
顔色は分かんなかったけど、声色は絶望どん底ブラックだった。
山道をとことこ歩いていく。
とことこって形容したけど、実際はアップダウンが激しい。健脚かつ、地元の慣れた人間じゃないと歩けないタイプの道。
まだわたしの霊視が回復してないから、世界は白い靄に包まれたままだ。
それが灰色になってきている。
夜が近いというより、水の気配が配がした。針葉樹の匂いが強くなってきてるもの。雨降りが近いのか。
「隻眼どの。夕食は召し上がっていかれますか?」
ふたりとも黙り込んでいたけど、ガブロさんが口を開いた。
「頼めるならありがたい。贅沢を言いたくはないが、なるべく肉を除いたものにしてくれ。ミヌレは下腹部が一角獣になっているから、雑穀や野菜の方が消化しやすい」
「では大麦スープを温めますか」
「きみの得意料理だな」
「この地方の人間なら、誰でも作れますよ」
ってことは、ロックさんも小さい頃から食べていたスープか。
楽しみな気持ちが湧いたけど、その気持ちを押しのけて、ロックさんが二度と故郷のスープを食べられないってことを思い出した。胸が楔を穿たれたみたいに重くなる。
「ああ、隻眼どの。ほら、あそこに建ってるあばら家が、うちですよ」
「謙遜だな。あれがあばら家と呼ばれるなら、エクラン王国の庶民は豚小屋住みだ」
「もともと領主の納屋だったんですよ。解体するときに、木材を拝領できましたからね。素材だけは確かに良いものですよ」
「建てたのはきみだろう。納屋だったとしたら、あの立派な石造りの煙突はきみの手腕か」
先生の口調が、めちゃくちゃ穏やかだ。
こんな穏やかなオニクス先生が初めてで、偽物じゃないかと怖くなってきた。
「大層なことはしとりませんよ。オヤジは大工でしたから、小僧の手習いというわけです」
「謙遜が過ぎるぞ。きみは工兵としても頼りがいがあったからな。頼り切っていたせいで、無茶な命令ばかり出した」
「無茶な命令でも、実行すれば生き残れましたからな。指揮官はそれがすべてですよ」
扉が開く。
軋みの音からして、鋳鉄の蝶番だろう。
足音の反響から察するに、木造一軒家って感じだな。
わたしたちが扉を閉めたのを見届けたように、外から雨の音が聞こえてきた。
火打石の音がすれば、火花が散る。しばらくすると黒く靄がかった視界に、微かなオレンジ色が揺らめいていく。ほっとする色合いだ。
雨の音、薪の音。
打ち付ける雨の音は久しぶり。半年近く砂漠にいたから、雨の音は懐かしい。
それに砂漠じゃ、薪なんて焚かなかったもの。柴が弾けて薪が割れる音もご無沙汰だった。
「椅子が困ったものですな。ソファがあればよかったんですが」
わたしは下半身が一角獣化している。
ソファが無いとなると、不便だな。
「構わん。ミヌレは私が抱えていればいい」
先生がそう嘯いて、どこかに腰を下ろした。
「隻眼どのは赤エールでよろしいかな。といっても、フランボワーズのジュースと赤エールしかないですがね」
「ああ、ありがたい」
コップが置かれる音がする。
先生がわたしにコップを持たせてくれた。匂いを嗅ぐと、野生っぽいフランボワーズの香りがする。痺れるくらい酸っぱくて、甘さが濃厚だ。
大人ふたりの飲み物は赤エール。
香ばしさのあるエールの香りが鼻腔に届いてきて、『引かれ者の小唄亭』を思い出した。
そういえば赤エールって、ロックさんも酒場でよく飲んでたな。赤エールとお肉、それがロックさんの定番だった。
「ロックさんはどこにいるんですか?」
ここはロックさんの実家で、この時代だと五歳だ。家にいるんじゃないかな。
耳を澄ましても、他に物音は感じ取れない。
もしかしてもう寝ちゃってる?
だったら静かにしなくちゃ。
「あいつだったら、ちょっとした家出中ですよ」
「ふへ? 家出? 五歳ですよね?」
こんな雨降る夜に、五歳児が?




