賢者の序 そして賢者連盟はミヌレの処刑を決定した
象牙の塔。
大鏡の間。
そこには巨大な鏡があった。
壁一面が鏡であり、天井にまで届いているようだった。鏡が本当に天井にまで届いているかは、誰も知らない。あまりにも高い天井ゆえに誰も確認できていないのだ。
大鏡の間の扉が開いた。
少年が入ってくる。
浅黒い肌に、濃淡の違う瞳。纏っているローブには、さまざまな星座の刺繍が施されていた。
賢者連盟の賢者のひとり、星智学魔術師のカマユーであった。
彼は実体ではない。ここにいる彼は星幽体であった。
扉を開けずとも直接、大鏡の間に入ることもできる。だがそんな無礼な入り方は選ばない。カマユーは大鏡の間の主である貴婦人に対して、敬意を払っているからだ。
鏡の間の主は、賢者アエロリット。
彼女はカマユーと共に二百年前、賢者連盟を立ち上げた魔術師だった。
「すまない、アエロリット。戻ってきていると聞いたが、今、話ができるか?」
鏡に呼び掛ける。
カマユーの呼びかけから数秒後、鏡の表面が揺らいだ。水銀色の鏡は湖になったように揺らめいて、波紋が広がり、映していた世界を美しく歪めた。
「何の御用でしょうか」
可憐な囁きだった。
その声の可憐さといったら、まさに想像の中にしか存在しないお姫さまである。
「本来だったらあんたに真っ先に知らせなきゃいけない情報だが、事態が大きすぎる。他の賢者を呼んで会議を始めさせてもらった」
「ではソルの居場所が……?」
可憐な声には、微かな期待と怯えが混ざっていた。
「良い知らせじゃない。最悪の知らせをあんたにしなきゃいけないのは、気が重い」
「……!」
「バギエ公国支部の考古学魔術師が、『星蜃気楼』からこれを発見した」
カマユーが呟くと、何かが絨毯へと転移してくる。
天然六角紅玉の護符だ。
「騎士団長キュイヴルにも確認してもらったが、あんたにも見てもらいたい。これはブッソールが愛用していた護符で間違いないな」
「はい、間違いなくソルのものです。あのひとは、亡くなっていたのですか?」
「これに精霊が憑依している。解放してくれ」
鏡の表面が揺れて、六角紅玉の護符に風を与える。
風無き空間に風が起こり、ブッソールの姿が具現化した。
その姿には雑音が走り、声も濁っている。
「砂漠の帝国を亡ぼしたのは、『夢魔の女王』だ……あれは…邪竜の真名を知り……召喚…」
途切れる。
だが伝えるべき言葉は伝わった。
ブッソールの遺言は半壊していたが、千年の時を越えて賢者連盟まで届いたのだ。
「千年前に飛んだ原因は、おそらくオプシディエンヌだろうな。彼らは千年前の砂漠の帝国へ跳び、『夢魔の女王』が邪竜を召喚。邪竜召喚を妨害しようとしたブッソールは、その時に死亡したのだろう」
カマユーは妥当な推理を吐く。
妥当過ぎて、誰も疑問を挟まなかった推理である。
「『夢魔の女王』が、邪竜を召喚できる? ………それは世界のいのちを握っているに等しいですよ」
「ああ。女王でなく独裁者だ」
カマユーは即座に吐き捨てた。
大鏡の表面は、音も無く波打つ。水銀めいた輝きが、大広間の翳にまで散った。まるで水飛沫だ。なにひとつ濡らすこともなく、跡を残すこともない光の水飛沫。
「パリエトさまは?」
「この事態をディアモン魔術師に報告させたが、まだ【胡蝶】に籠っている。返答はない」
「月下老さまは?」
「相変わらずだ。あのお方は相変わらずだ」
「テュルクワーズさまは?」
「筋金入りの穏健派だ。反対している。しかも強硬に」
「スティビンヌさまは?」
「『夢魔の女王』が扱いきれないなら、オニクスを飼って贖罪をさせることに同意している」
「………カマユーさまは、どうなさるおつもりですの?」
「愚問だな。ぼくらは世界を恙なく続けるために在る。邪竜を眠らせる女王は求めていたが、邪竜を目覚めさせる魔女は不要だ」
濃淡の眼差しを、鏡に映す。
現状、賢者連盟はミヌレを危険視している。そのなかで無言派が二名、反対派が一名、処刑派が二名。
もし賢者アエロリットが処刑を反対すれば、女王の処刑は保留になる。
カマユーは数拍の無言の後、口を開いた。
「あんたは?」
「皮肉な話ですね」
アエロリットは小さく呟いた。
「世界から排斥された魔術師たちのために、この象牙の塔が作られたのに。この月こそが、迫害された魔術師の楽園だったはずなのに。『夢魔の女王』はこの月からも、否定されるのですか」
「『戦巫女』アエロリット。『夢魔の女王』への慈悲は、自分との境遇に重ねているのか」
「否定はしません」
彼女は二百年前の獅子戦争で、コーフロ連邦王国の戦巫女として戦陣に立った魔術師だった。
アエロリットの攻撃魔術は凄まじいばかりだった。敵にとって脅威であったが、味方にとっても恐怖だった。
獅子戦争の終結後、アエロリットに処刑が命じられた。戦火を広げた災厄の魔女として、火あぶりが決定したのだ。
それを救ったのは、カマユーだった。
強すぎる魔術師は、弾圧される。
迫害から逃れるために魔術師たちは寄り添って生きたが、力が集まることで、さらなる危険視を招いた。
東方魔術師の頂点たる月下老が、月を新天地として開拓しなければ、カマユーもアエロリットも、そして他の偉大な魔術師たちも、二百年前に死んでいたかもしれない。
「あんたは『夢魔の女王』を庇うのか?」
「それは否定します」
鏡から波紋した答えは、金属より冷ややかだった。
「夫を失った寡婦に、怨みが無いとお思いですか?」
賢者アエロリットは、ブッソールの妻だった。
肉体を捨てた彼女にとって、ブッソールは己の肉体以上にこの世界に己を繋ぎとめてくれる存在だったのだ。
「では決まりだな」
そして賢者連盟はミヌレの処刑を決定した。




