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第二十話(後編) 砂塵に帰す幸福



 ざらざら


 ざらざら

 

 砂が舞い上がる音。

 終わってしまった砂時計の音が、鼓膜に届いた。 


「ヴぉげっ…!」

 口の中いっぱいに、血の味がする。

 吐き出しても吐き出しても、血の味が残ったままだ。

 うげ、鼻にも血のかたまりが入ってやがる。

「ミヌレ。鼻をかめ」

 ハンカチが出されて、ぶひっとかむ。まるで血を吸った蛭が、鼻穴が生まれてくるみたいだ。ぶよっとした血がぜんぶ抜けて、呼吸がしやすくなった。

 先生は【水】を詠唱してくれた。

 ほんの一滴ほどの水で、鼻を洗って口を漱く。やっと血の匂いと味が薄くなった。

「顔を手で擦るな。血涙も出ている」

 水で搾ったハンカチで顔を拭いてくれた。

「鼻に血が詰まりすぎて、眼球からも溢れているようだ」

 まつ毛についている血まで、丁寧に拭ってくれる。

 瞼を上げたけど、何も見えない。

 世界には靄がかかっていた。

「……何も、見えません」

 嗅覚と視覚、そのふたつが駄目になっている。

「ミヌレ」

 先生の優しい声がして、ぬくもりがわたしを包み込む。

「魔力枯渇だ。霊視できんほど、魔力を使い果たしたな。しばらくすれば回復する」

 優しい腕に、わたしは身を委ねた。

 頭がくらくらする。

「貧血みたいな感じです。血を流し過ぎたんでしょうか……」

「呼吸脈拍ともに正常値で、爪を押して色がすぐに戻るから、失った血の量は命に関わるほどではない。輸血は不要だな。もちろん安静にする必要はある」

 落ち着き払った声だ。

 先生がそう言ってるなら、わたしは大丈夫なんだろう。

 目が視えなくて、魔術が使えなくて、ひどい貧血状態になっているだけだ。その程度。

「ここは廃墟だ。砂漠の廃墟。誰もいない」

「……廃墟。本当に戻ってこれたんでしょうか」

「少なくとも千年前から未来には飛べた。風化具合からして数百年は経過している」

「ミヌレ。今は眠るといい。私がいる」

 冬山に置き去りにしたことがある人間に言われても、信頼できっこねーぞ。

 抱き締められ、頭を撫でられた。

「私の心音が聞こえるか」

「はい。聴覚に問題ありません」

「この心臓はきみのものだ。どこにもいかんよ」

 ……そうか。

 マアディン・タミーンさんと博打して、先生は負けた。その代価だった心臓を、マアディン・タミーンさんはゼルヴァナ・アカラナに献上してくれたんだ。

 だからこの鼓動はわたしのものだ。

 先生がオプシディエンヌと死ぬまでは、きっと、わたしだけのもの。

 

  




 


 ……おいで

 

 


 ……こっちに、おいで


 

 誰かが、わたしを呼んでいる?

 呼ばれたような気がして瞼を開ければ、オニクス先生の黒い輪郭が網膜に映る。

 わたしたち、ふたりきり。

 他に誰もいない。

「ミヌレ。体調は?」

「霊視が回復してきました。色彩に問題ありませんが、遠近感が掴みにくい状態ですので極度の近視に近いです」

 わたしは現状報告をする。

「他には?」

「視力以外は問題ありません」

「そうか。時間が経ってから異常が出てくるかもしれん。経過報告は欠かさずに」

「はい」

 わたしは立ち上がる。

 手を繋いで、砂ばかりの廃墟を一緒に歩いた。

 廃墟には塀や柱が残っている。もともとは広くて何階もある建物だったんだろう。

 崩落している中に、マンティコアの彫像があった。割れちゃっている。欠けた部分も多いけど、これはちょっとお茶目な顔したマンティコアの顔だ。

「これ、マンティコアの水洗い場……あの隊商宿ですよ」

「そうらしいな」

 先生と泊まった時には、マンティコアを倒した宴会が広げられた。キャラバンは行き交い、たくさんのひとたちと更にたくさんの駱駝が出入りしていた。中庭には金銀真砂の奇貨が並べられ、砂漠の華やぎそのものだった。

 だけど、今は、もう何もない。 

 廃墟を歩く。

 何もかもが壊れて毀れ、亡びて滅んだ。

 砂漠に居るすべてのひとたちの人生を、未来を、幸福を、すべて砂塵に帰して、わたしたちは戻ってきた。

 千年前は夢の果て。

 わたしは夢から醒めたように、砂漠に蹄の跡をつけて歩いていく。

「テント……?」

 廃墟の片隅に、小さなテントが張られていた。毒々しいばかりの紫の布地。

 遊牧民のテントにしても、発掘隊のテントにしても、小さすぎる。

 あれは、まさか、占いお婆のテント……?

 

「やっときたね……おじょうちゃん…………」 


 占い婆の声!

 わたしはテントに飛び込む。

 そこには王都と変わらない姿で、占い婆が座っていた。

 擦り切れたボロ衣を幾重にも着こみ、護符をじゃらじゃらと纏っている。全身はほとんど干乾びてて、護符である貝殻や珊瑚、動物の爪や牙の方がよほど生命力が漲っていた。

「やれやれ。ずいぶんと待ったもんだよ……婆のいのちが絶えるかと思うたわ……」

「オプシディエンヌ付きの予知魔法使いだ」

 先生が呟く。

 占いのお婆さんって、オプシディエンヌの配下だったの?

 恋愛値を占ってくれるNPCだと思ってた!

「久しいことだね、蛇蝎………教団が崩壊して以来かねえ……」

「どうしてお婆がここに? オプシディエンヌの差し金ですか?」

 占い婆は身体を揺らす。

 どこからともなく黒い羽虫が湧いた。でかくて真っ黒な蠅……じゃなくて虻だ。

 水のない砂漠で虻?

 いるはずのない羽虫が、わたしの顔の横を通って、暗がりへと消えていく。

「我が主は関係ないよ。もう永のお暇をちょうだいした。婆が会いたかっただけさ……おじょうちゃんに、いや、ゼルヴァナ・アカラナと呼ぼうか……砂漠の帝国を滅ぼした破壊神……」

 陶磁器めいた盲目が、わたしを貫く。 

 その目には、予知の狂気が宿っていた。

 ……ああ、そうだ。この声の響きには聞き覚えがある。


 ──亡びる! 亡びるぞ! 帝国は砂に沈む!──

 ──西の平原も、北の山脈も、東の大河も、南の海岸も、砂の底に沈む!──

 ──すべてが死に絶え、帝国は夢の跡となるぞ!──


 鼓膜の中に蘇る金成り声。

 誰にも予知を信じてもらえず、八十年間ずっと狂女扱いで閉じ込められていた。

「ゼルヴァナ・アカラナ。罪を悔いているのかね……? ……お笑い種だねえ」 

 占いお婆は皺だらけの口許を、さらに皺で歪めた。

 マンティコアより醜悪な表情だ。もしかして笑っているのか。だとしたらぞっとする笑い方だ。

「今まで邪竜を目覚めさせた人間なんて、何人もいたさ。なにもおじょうちゃんが初めてってわけでもない。レムリアもアトランティスも、邪竜の地震と津波によって滅亡を辿った……二十億年の人類の歴史には、稀にあることさ…………」

 盲目の眼を、先生へと向けた。

 その仕草ひとつが、呪詛めいている。

「…………蛇蝎も蛇蝎だよ。実験で人間を消費した程度で、悔んだりして………そんなのは歴史の中でよくあることさ……珍しくもなんともない…」

「凡百の罪であっても、罪は罪だ」

 先生の言葉に対して、占い婆は鼻で嗤った。

「歴史を引っ掻いた程度でしかないよ。所詮はひとの作った決まり事さ。生命の価値なんてもんは、因果の律、天地の理、そんなものの前では他愛もないことさ……」

 そして皺だらけの口で嗤う。

 歯がひとつも残っていない口内は、人間のものでないみたいだ。

「…………だが! おまえたちはこれから罪を犯すよ。今までの他愛ないことじゃないよ。人体実験だとか、戦争を引き起こすとか、竜を目覚めさせるとか、国を滅亡させるとか、そんなことじゃぁない…………ほんとうの罪だ……」 

 全身を震わせる。

 擦り切れた衣の端から、さらに黒い虻が溢れ出した。

「それを見届けられないのは……いいことなんだろうかねぇ…………」  

 刹那、老婆の身体から一斉に虻が湧いた。

 いや、ちがう、老婆の肉体そのものが虻になって散じていく。

 ぐしゃり、と輪郭が歪んで、服が崩れた。

 飛び散っていく何億という虻。

「中身だけ、無くなっている……?」

「【羽化登仙】の不全状態だ」

 先生の声は淡々としていた。

 指先で一匹の虻を摘まんでいる。

 羽ばたいている虻はそのうち塵になって、風に混ざっていった。

「東方魔術最秘奥【羽化登仙】。不老不死の術だが、失敗すればこうなる。成功例は、賢者連盟の月下老ただひとりだ。失敗しようが寿命そのものは千年ほど延びるため、失敗率の高さのわりに、使用する術者も多い」

 興味深い話だけど、今はそっちに意識が向かない。

 わたしの意識を占めるのは、老婆の遺言。

 呪いめいた遺言だ。

「ほんとうの罪って、何でしょう」

「何を罪と蔑み、何を功と讃えるか、それは社会によって違う。あの老女の死ぬ間際の戯言だ」

 先生自身、自分に言い聞かせているようだった。

 わたしの方を見もせず、言葉を食む。

「オニクス先生。もし、ほんとうの罪を犯して、永遠にふたりきりで閉じ込められたら、どうします?」

「きみとふたりで? 馬鹿々々しい」

 先生は素っ気なく言って、黒い長衣を翻す。

 風が吹く。

 赤く乾いた風が吹く。

 古びたテントは風に押されて崩れ去り、支柱がひとつ墓標のように立つばかりだった。

 

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