第二十話(前編)砂塵に帰す幸福
「おはよ。旦那、嬢ちゃん」
最初に目に入ってきたのは、紺の夜空。夜明けの一歩手前の紺色だ。
それからロックさん。
ロックさんは生傷だらけだったけど、わたしたちの肉体には傷ひとつない。
「守って下さってありがとうございます」
「そりゃお仕事だからね」
先生も一拍遅れて目覚めた。
隻眼にわたしが映る。わたしだ。未来のわたしじゃなくて、今のわたし。
「ミヌレ!」
「ういうい」
返事した途端、先生に凝視される。
「……縮んでいる」
「縮んでませんよ。あ、魔法空間のわたしと比べてですか? そりゃ成長した姿と比べたら、まだちっちゃいですよ。あれは三年後くらいの容姿です」
「……そ、そうだな。きみはまだ未成年だったな」
何をいまさら。
隻眼はわたしから、わたしの背後へと移る。
マアディン・タミーンさんだ。
胸から下が焼けただれ、身体のあちこちが炭化して無くなっていた。
死以外もはや掛ける慈悲など無いほど、焼かれた肉体は崩れている。【耐炎】があるとはいえ、生きているのが恐ろしいくらいだ。
先生は隕鉄のクリス・ダガーを抜いた。
マアディン・タミーンさんを楽にするつもりなのだろう。
「賭けに勝ったか、盗掘師」
「ええ、最高でさ。まったく最高の、気分、で。死ぬなら、いまがいい。お約束を、果たします」
「約束……?」
「炎の精霊によってエーテル化した肉体は、魔術媒介になる。とはいえ干渉できる領域は、空間のみ。時間に干渉はできん。ただこの盗掘師の肉体だけは、特別だ」
特別なのは分かっていた。
無性別体は、人類が北極で誕生したばかりの肉体。
先祖返りという、時間への干渉。進化の過程によって淘汰されたはずの肉体が、19億年も血に潜み、未来で花開く。この奇蹟の開花。
「そのためにマアディン・タミーンさんを戦場に? 炎の精霊に焼かせるために?」
生きたまま精霊に焼かせるために。
媒介として加工するために、戦場に送り込んだのか。
わたしの責める口調を阻むように、笑いが上がる。戦場に似つかわしい不吉な笑いは、マアディン・タミーンさんからだ。
「博打でさ。閣下との、博打。炎の精霊に焼かれたらあっしの勝ち、焼かれなかったら負け………あっしが賭けたのは、マアディン・タミーンの心臓」
そんなの勝っても負けても、マアディン・タミーンさんは死ぬじゃないか。
死ねと命じたようなものだ。
「賭けられた閣下の心臓は、ゼルヴァナ・アカラナ姫に献上致しやす……この蛇の心臓は、姫のものでさ」
オニクス先生が静かに頷く。
「ついでと言っちゃぁなんだが、あっしの心臓も、献上しますよ……」
オニクス先生は贄を受け取るように一礼して、クリス・ダガーを掲げる。刃を喉元に押し当てた。
「わたしが、します」
金と銀の眼球が、微かに動いた。
「汚れ、仕事は、閣下に任せた方が、いいんじゃ、ないですかね」
「いいえ。わたしがします。これはゼルヴァナ・アカラナの役目。汚れ仕事ではありません。マアディン・タミーンさん、あなたから献上されるものを受け取る儀式です」
「ヒャハハッ。そりゃ、また、この愚かなマアディン・タミーンにはもったいないばかりの、待遇で……」
笑う唇から、墨の粉が舞う。
「ですが、姫、どうか、これは閣下に………あっしの博打の相手は、閣下でさ」
「ああ」
先生は膝をつく。
わたしは傍らで祈る。
「死は、生まれるための儀式。新たなる旅路の餞に、嘆きではなく祝福を」
女王ゼルヴァナ・アカラナとしての言祝ぎに、マアディン・タミーンさんは眼を閉じて微笑んだ。
隕鉄の刃が、焼けただれた首に突き刺さる。
「マアディン・タミーンさん。あなたの来世に、まことの幸福を」
炭化した心臓は、漆黒の粉になる。
美しい硝子の瓶に詰め込まれると、まるで星を失った夜。
「ヴリルの銀環と媒介が揃った。これで帰れる」
先生はわたしの手を取った。わたしの手首には、ヴリルの銀環が輝いている。
これを使いこなせば元の時代に帰れる。
帰る?
ラーヴさまを目覚めさせてしまって?
こんな風に砂漠を荒らして?
わたしは世界鎮護の魔術師になると誓った。
女神を目指すと。
だけどオニクス先生が危機に陥ればそんな決意なんて、スフレみたいに即座にぺしゃんこだ。
なんて無様だ。
わたしの決意なんて、役立たずだった。
「破壊神ゼルヴァナ・アカラナッ!」
怒声を上げたのは、カンタシェくんだった。
手首を戒めていた縄を引きちぎっている。いつの間に切ったんだ?
皮膚が剥けるほどこすれて、血が滲み、赤い縄に縛られているみたいだった。
「どこへ行くつもりだッ! 邪神と蛇蝎! みんなを殺しておいて! みんな死んだ! おまえが殺した!」
「この帝国を破壊したのは、私だ。彼女ではない」
「どっちだって同じだ! おまえらがみんなを殺したんだ!」
「それでなにを望む? 贖罪か、復讐か?」
「元に戻せ! ぜんぶ! ぜんぶ! ぜんぶッ!」
癇癪じみた泣き声だった。
「だったらカンタシェ、自分が殺した兵士たちを元通りにしてくれないかな」
鋭い声を差し込んできたのは、ロックさんだった。
カンタシェくん、ザルリンドフトさん殺した暗殺者ご一行さまだったな。
わたしの知らない兵士さんたちも死んでいる。わたしは知らないだけで、城内を仕切っていたロックさんはよく知った相手だったかもしれない。ううん、友達だったのかな。
そしてわたしがラーヴさまを目覚めさせたせいで亡くなった人の中にも、ロックさんの友達がいたんだろう。
カンタシェくんは一瞬、動揺した。
喉に言葉が詰まっているけど、すぐに吐露する。
「ゼルヴァナ・アカラナといっしょにすんなよ! オレは、オレは……自分の人生を買い戻したかった……ッ」
「いいじゃん。奴隷制も借金も全部おじゃんだよ」
「そうじゃない! そうじゃないんだ! オレは前の世界で、生きたかったんだッ!」
「あのさ」
ロックさんは優しく呟いて、次の瞬間、手刀を落とす。
首後ろにクリティカルして、カンタシェくんは気絶した。
速度的にはわたしでも見切れるけど、口調の優しさと行動の容赦なさが合致してない。死角から手刀落とされたら、一角獣化していても躱せねーな。
「キリが無いよね」
「私は怨み事くらい聞いてやろうと思ったのだが」
「怨むことで怨みに囚われるひともいるよ」
わたしの脳裏に過ったのは、カマユー猊下だった。
先生の長衣がわたしを包み込む。
「ミヌレ。元の時代に帰るぞ」
「でも……! せめて、せめて、シッカさんたちを、安全な場所に送り届けなくちゃ……」
いまだ気絶しているシッカさんと、気絶させられたカンタシェくん。
こんな危険なところに置き去りにできない。
「おれがやるよ」
底抜けに明るい声だった。
「旦那と嬢ちゃんは、戻った時代ですることあるんだろ。大事なこと。あとの処理はおれに任せて、帰りなよ」
一瞬、言われた意味が分からなかった。
あとの処理を任せて、帰る?
それは、この時代にロックさんを置き去りにするってこと?
「駄目です! ロックさんは関係ないじゃないですか、わたしのやってしまったことに!」
わたしの責任だ。
先生はわたしにラーヴさまの名を伝えてしまった。世界を左右する秘密を洩らしてしまった。だから、もしかしたら、一抹の責任はあるかもしれない。
だけどロックさんは違う。
最初から最後まで巻き込まれただけだ。
「嬢ちゃんたちは残るべきじゃない。ここで残ったらもうだめだよ、帰る機会を失う。シッカや他の連中を安全な場所に。それが終わったら本当に帰れる?」
「でも……」
「キリが無いよ。安全な場所なんてあるの? あったとして、みんなを送り届けて、それで? 兵士や女奴隷たちに次の主人を見つける? 怪我した兵士を放置できる? みんなの怪我が癒えるまで? 余震が終わるまで? 復興が終わるまで? ねぇ、嬢ちゃん。もし何とかできるって思ってるなら、それは仕出かしたことを軽く見過ぎだよ」
「……!」
「あとはおれが何とかする」
「でも、でも、ぶっつけ本番で時間を飛べません。まず銀環を使いこなさないと!」
「それは大丈夫。嬢ちゃんたちは戻れるよ、絶対に」
優しくて、力強い言葉だった。
無根拠なはずなのに、頷きそうになってしまう。
「ロックさんを置き去りにできません!」
「でも嬢ちゃん。おれがここに残ったら、最高にかっこいいじゃん?」
ロックさんは微笑む。
「戻れなくても……いいんですか……?」
「おれは今ここにいる。それがすべてだよ。自分がいない場所のことは考えない」
わたしは何も言えなくなる。
静かだ。
砂の音さえ聞こえない。
もう砂時計が落ち切ってしまったから。
オニクス先生はロックさんの肩に手を置き、知らない言語で何か話しかけた。モンターニュ語だ。
頷くロックさん。
何を話しているか分からない。先生は怖いくらい真剣だけど、ロックさんは笑顔のままで変わらないから。
空が白んでくる。ロックさんは昇ってくる朝日へと視線を移した。
薔薇色の暁が、ロックさんを淡く染める。
「あちらに心残りは? なにかやるべきことがあれは、わたしが………」
「無いよ。じゃあね」
こんなにあっさりとした今生の別れがあるだろうか。
でもこの短い言葉が、ロックさんとの永遠のさよならの挨拶だった。
「ミヌレ、私たちの世界に還るぞ。きみと私が、生きる世界だ」
先生の両腕が、わたしを抱きしめる。
月下香に包まれた。
「……はい」
銀環にキスをすれば、銀の輝きが繙かれて、錫杖へと変化していった。
揺れる遊環たちに、淡い光が灯っていく。
戻るのだ。
あの時代に。
わたしと先生が生きる時代に。
「汝は時間! 障壁に囚われし、絶対の君臨者!」
右手に錫杖を持ち、左手で炭を握りしめる。
「我は汝にかしずくことなく挑むもの! 因果を射て、摂理を切りて、法則を縊るもの!」
詠唱しながら炭を撒く。
心臓の炭が魔力に反応し、魔術構築を押し上げていった。
ひとつひとつ積み上がる構築。だけど構築していくたびに、経絡に負荷がかかり、血管が千切れる感覚が全身を巡る。
「炎に焼かれし心臓は、時の針を毀す鼓動! 月と化したる太陽が、わだつみあまつち凌駕する」
鼻からは血が垂れ、皮膚の下は黒ずんでくる。
構築していくだけで、凄まじい負荷だ。
高く高く積み上がったものを、わたしと先生を包むように展開する。
まだ展開の途中だってのに、魔術がもう発動しようとする。手が届かないところに指を伸ばしているような感覚。
正しく展開させなきゃ、わたしと先生が引き離されてしまう。
でも届かない。
だめだと思いたくない。
でも!
「ミヌレ、あと少しだ」
先生が錫杖を握る。
その瞬間、暴れ回っていた魔術が、滑らかに展開していく。
混沌としていた展開が秩序立った?
いまだ。
この展開がまとまった一瞬に、魔術を解放した。
口の中に溜まった血を吐き、呪文の末尾を成就させる。
「今こそ汝を越えていく! 【時間跳躍】!」
シャボン玉の虹色に包み込まれる。
虹色は艶めき、淡くなり、さざめき、揺らぎ、絶えず波打っていく。
万華鏡に閉じ込められたみたいだ。金銀真砂と極彩色が、刹那ごとに移り変わる。
「………時間障壁です!」
土星の向こう側で見たことがある。
これは時間障壁だ。
「なるほど。障壁突破か」
「もし流されてしまったら、時間流に溺れて、星幽体が四散しますよ」
カマユー猊下からの忠告だ。
わたしは錫杖を握る手に力を込め、眉間が痛くなるほど強く念じる。
目的地は1617年の幼芽月。
ロックさんを残してまで飛んだんだ。
絶対に失敗できない。
――でも嬢ちゃん。おれがここに残ったら、最高にかっこいいじゃん? ――
耳の奥で蘇る囁き。
この言葉を最初に聞いたのは、土星の彼方にある時間障壁を突破した時。
目まぐるしい時間の万華鏡で、わたしは過去と未来を垣間見た。
あの時から知っていた。
ずっと心の奥底では知っていたんだ。
いつかロックさんが色々なものを犠牲にして、わたしのためにどこかに残ることを。