第十九話(後編) 夜は明けよと、蛇は囀り
わたしたちはふたりで、ラーヴさまの魔法空間に介入する。
宇宙だ。
ラーヴさまの魔法空間は、広大そのものだった。
エーテルが満ちて、天上音楽が鳴り響く空間に、惑星がいくつもまわっている。
なんて綺麗。そしてなんて懐かしい。
クワルツさんと時間障壁を越えたときを思い出す。
「身動きがとりづらいな」
先生の言う通りだ。
泥濘に足を取られているどころか、底なし沼みたいな感覚だ。うまく進めない。そもそも他人の魔法空間って踏ん張りが効かないけど、ラーヴさまは段違いだ。呼吸も上手にできない。
宇宙に飛んだとき、どうやって動いていたっけ?
そうそう、ラーヴさまの魔法で飛んでいたんだ。
――時空の果てにあるものは何ぞ――
「それは受肉した女王」
――かってありしものは何ぞ――
「それは夢みる胚胎」
――いづかたより来たりて、いづかたへか去るものは何ぞ――
「それは大いなる息吹」
――では、その三つは永遠であるか?――
「それらは永遠であるが、ひとつのもの。ただ唯一のもの。すなわち『夢魔の女王』!」
わたしの姿から、銀色の光が溢れる。
四肢が伸びる。
背丈が伸びる。
鉱石色の髪も伸びて、豊かに流れていく。
「ミヌレ……その姿は…」
隻眼が見開かれて、わたしを凝視している。
わたしは『夢魔の女王』の姿になっていた。
手には錫杖、身体にはプリーツドレス。空間の果てと時間の彼方に座す女王の姿だ。
「わたしの未来の姿ですよ」
くるっと一回転する。
先生はわたしの成長した姿、初見だったかな。
「大丈夫か……?」
「なにがです?」
「そんなに美人に成長してしまって大丈夫なのか? 逆に生きづらいのでは……」
愕然とした顔で呟く。
わたしって客観的に美人なんだよなあ。
予知発狂で自分がミヌレだって自覚無くしていた時、成長した姿は美人だって思ったもの。
そりゃディアモンさんほどの絶世の美貌ではないし、エグマリヌ嬢ほど気品と凛々しさもない。ラピス・ラジュリさんほど完璧な姿態と婀娜っぽさはないし、オプシディエンヌほどの迫力ある絢爛さもない。でも美人の範囲に入る。
「あの御者の小僧みたいな下種が、また現れるかもしれん」
「面倒は起こるかもしれませんね」
フォシルか。
勝手に恋愛値が上がっていくやつだけど、他にもいるんかな?
それは恐怖だな。
「でもわたしが大人になった時、先生はもうオプシディエンヌと心中してこの世にいないんですから、ご面倒はおかけしませんよ」
わたしが笑うと、先生の顔から感情というものがごそっと抜け落ちた。
これはどういう感情だ?
いや、そんなこと考えてる猶予はない。ここはラーヴさまという古代竜の魔法空間。存在しているだけで、魔力が消費する。
魔力だけならいいけど、下手したら正気が摩耗していくかもしれないのだ。
「あの方を探しましょう。急がないと」
わたしは先生の手を引いて、美しい宇宙を翔けた。
あまりに膨大過ぎる魔法空間を翔ける。
どこにいるんだよ、ラーヴさま。
ちらっと先生を盗み見れば、顔色が悪くなっている。
「あそこが地球の位置だ。おそらく我が師はあそこにいらっしゃる。だが一介の人間風情の言葉を、聞き入れて下さるかどうか……」
「あのお方は、人類が好きだから大丈夫では?」
「我が師が大事なのは人類であって、人間ではない。何億も羽虫が飛ぶ飼育箱から一匹脱走したら、わざわざ傷つけに無いように箱に戻すか? 気が向けばそうするかもしれんがな」
「おっしゃる通りですね……」
ラーヴさまは人類を愛している。
だけど人間に対して慈悲は皆無。
クワルツさんが雪山で死にそうなくらい悶絶していたときも、興味深そうに笑っていたものな。
古代竜だから、そんなもんか。
「気まぐれを願うしかないな」
先生はラーヴさまの意識に近づく。
「偉大なる古代竜! 我が師になられる御方! どうか私の言葉をお聞き届け下さい!」
宇宙の大気が揺らぐ。
これはラーヴさまの身じろぎだ。
たったそれだけなのに、宇宙の最果てまで吹き飛ばされそうになる。
「ぴえっ!」
踏ん張るけど、吹き流されそう。
錫杖を握った瞬間、杭が差し込まれたように踏ん張りどころができた。
「おっ、さすがヴリルの銀環!」
「踏みとどまれたところで、我が師に声が届かんなら如何ともしがたいな」
先生の顔色はますます悪くなっている。
タイムリミットが近い。
人類なんてちっぽけな存在の声は、今のラーヴさまに届かないのか。
「……先生も竜になるというのはどうでしょう」
「は?」
怪訝な眼差しを向けられる。
「ほら、わたしが成長した姿になったように、先生だって姿を変えられるんじゃないですか?」
「理論的には可能だ」
その口調は、机上の空論って言ってるのと同じだった。
「何が問題なんです……?」
「発狂しやすい」
明確な答えだ。
そういえば、わたしも予知発狂中はミヌレの容姿じゃなかったものな。
「魔法空間において現在の自分の状況と解離していると、自我が狂いやすくなる。ただでさえ私は予知発狂者だ。私は私の姿を手放すわけにはいかない。忘却してしまったら、狂気の淵に沈むだけだ」
「わたしが覚えていますよ」
「……」
「先生の姿かたちも声も香りも体温も、わたしは覚えています」
鴉のような黒髪と隻眼も、いつも纏っている月下香の香りも、痩せているけどしっかりした筋肉の感触も、太ももの硬さも、器用に動く指と爪のかたちも、鞭で傷ついた背中も、唇の冷たさと舌の熱さも。
わたしが覚えている。
「きみが命綱か」
「心もとないですか?」
「足りないだろう」
「足りない?」
首を傾げたわたしに対して、先生は穏やかに口許を緩ませた。
「きみにはまだ、私の仮面の下を見せていない」
「見せて頂けるんですか?」
思わず大声が出ちゃう。
顔半分を覆う白い仮面。温泉に入っているときも、眠るときも、片時も外さなかった仮面だぞ。
レアショットじゃないか!
「私がどうしようもなく弱かった頃の傷だ」
先生は仮面に、手を触れた。
しばらくの躊躇いの後、空いてる腕でわたしを抱き寄せる。
仮面の留め具を外した。
素顔が晒される。
ひきつった皮膚と、どす黒いままの傷。
顔のかたちが崩れないように、眼窩には義眼が埋め込まれていた。
いきなり見せられたら確かに心臓に悪いけど、傷があるって分かっていて仰々しく外された後なら、すんなり受け入れられる。むしろ今までなんでもったいぶっていたのかと思うレベル。
ザルリンドフトさん焼死体の方がショックだし、マンティコアの解剖の方がグロテクスだ。
「その義眼って、何で出来ているんですか?」
わたしの問いかけに、先生は口許を上げた。
「不躾でしたか?」
「いや、この醜さに嫌悪はないのか?」
「醜いでしょうか? お背中の鞭ほどひどくありませんよ。キスしていいですか?」
「頼む」
わたしは義眼に唇に触れさせ、傷跡にキスをする。
「ふふ、怪我した皮膚は、キスした感触も違うんですね」
「この義眼は硝子製で、元司祭に特注している」
「普通の硝子なんですね。護符とか呪符にしてないんですか?」
「呪符を体内に埋め込むと、経絡に負荷があるからな」
そう言って、先生は微笑んだ。
「きみは好奇心の塊だな。授業でやってない【浮遊】は勝手に使うし、図書迷宮には侵入してくる。時間障壁の向こうで闇の至宝石を採取してくるし、幼虫みたいな白桑の実を口に入れてから何か聞く。探求心に従い、好奇心のまま動く。生まれながらの魔術師だ」
混じりっけなしの賞賛だった。
最高峰に佇む魔術師にこう讃えられたら、舞い上がってしまうではないか。
「ミヌレ。きみに私の正気を任せよう」
わたしに仮面が渡された。先生がずっと被っていた白い仮面。
オニクス先生の輪郭が繙かれた。
ゆらりと揺れて、瀝青のように蠢き、鋳鉄のように艶めき、巨大な蛇となっていく。
尾を咬む蛇。
やっぱり『永久回廊』に出現した蛇は、先生だったんだ。
間違いなく一緒にいるんだ。
「我が師よ、偉大なる我が師ラーヴよ!」
繰り返される蛇の咆哮。
幾度目かの叫びに、ラーヴさまは瞼を震わした。
溶岩色の瞳が、暗闇に煌めく。
≪……つがいて永遠に座するものたちか≫
濃密なエーテルが振動して、声が届く。
不思議な声だ。若いのかお年寄りなのか、男なのか女なのか分からない。どれにでも当てはまるみたいで、どれにも似ていない。肉声を伴わない純粋な意識の声だ。
うつらうつらしているのか、声は微睡んでいる。
≪ワシに何の用か……≫
「我が師よ。千年の果てに我が師になられる偉大なお方よ。御身の尊き眠りを妨げ、まこと汗顔の至りにございます。いまひとたびの眠りを献上することをお許し下さい」
≪……無窮の混沌が目覚めさせ、循環の秩序が眠らせる。理に適っておる。まさに摂理そのもの。受けよう≫
ラーヴさまは目を伏せた。
その途端、存在が魔法的に収縮して、展開しなくちゃならない範囲が狭まる。
これなら人類でも通るんじゃねーか。
「ミヌレ、唱えるぞ」
「はい」
わたしは錫杖を構え、先生はとぐろ巻き、眠りの魔術を同時に構築していく。
「我は汝を愛すがゆえに、呪を紡ぐ」
「汝こそ死に似ており、死からいのちを守りたまうもの」
「眠れよ、揺籃の内、天蓋の下。今こそ彼らにひとときの安らぎを 【睡眠】」
ラーヴさまの魔法空間に、眠りの魔術が波紋した。
竜は眠り、蛇が倒れる。
先生のMP尽きたのか?
わたしは翔けて、大蛇にキスをした。魔法空間で生きるための息継ぎとして、魔力を吹き込む。
大蛇の輪郭が解けて、ひとのかたちに収縮した。
オニクス先生の姿を取り戻す。
わたしが仮面を付けると、瞳が開いた。黒瑪瑙めいた隻眼に映るのは、『夢魔の女王』の姿。
「ミヌレ、戻るか」
「はい!」