第十八話(後編) 滅びよと、一角獣が鳴くならば
「なにをしやがる、シッカ!」
怒声を轟かせたのは、ブッソール猊下だった。
その怒声ときたら岩を砕くほどの勢いだったのに、シッカさんは凪いでいた。
「異路同帰。同じなのでございます。まったく同じことなのでございます」
宮中と変わらない玲瓏な声。
シッカさんは銀環を手首に嵌めてから、わたしたちへと視線を向けた。
その眼差しは、わたしたちを見ているようで見ていない。不安定な目つきだった。
「わたくしめの望みは、高貴なる方に断罪して頂くこと。ならば、どちらでも構わないのでございます。いと畏き宰相閣下であろうと、いと尊き姫君であろうと。わたくしめを殺して頂ければ、どちらでも」
紫の絹をショールのように纏う。
あれはシッカさんがターバンとして巻いていた絹だ。
ディアモンさんのショールのように、魔力を込めながら織った、古代魔術の布だ。
わたしは動けない。
ブッソール猊下も動けない。
だってシッカさんから銀環を取り返そうとしたら、ブッソール猊下から攻撃くらうじゃん!
シッカさんを殺さず身動きできないレベルの一撃を繰り出しつつ、ブッソール猊下の攻撃を躱す。
できるかもしれないけど、博打だ。
身体の回復が追い付ていないのに、破滅的な賭けは挑めない。
ブッソール猊下も、動こうとしない。あのブッソール猊下を模した精霊は時間稼ぎのために、わたしと相対しているのだ。わたしに隙を見せない方が肝心だ。
動こうとしないわたしたちに対して、シッカさんは浅く微笑む。
「いと畏き宰相閣下。それともこの銀環はゼルヴァナ・アカラナ姫にお渡しいたしましょうか? この姫君こそ世界を涅槃させるお方。帝国に亡びを、砂漠に滅びを、あまたすべてに等しく死を与えるお方なのですから」
「おいおい。冗談抜かすなよ」
ブッソール猊下は口角を上げ、大判のスカーフを引っ張り出す。極彩色の刺繍がされたスカーフには、魔術が込められている。
咄嗟に霊視した。
あれは疑似空間転移か?
「シッカ。てめえが破滅を望んだのは、これが死んじまったと思ったからだろう」
スカーフが翻された。
次の瞬間、スカーフの下に金の鳥籠が現れる。スカーフに覆われている鳥籠の中で、何か動いているのは日光に透けた陰から分かった。
「てめぇの大事なカナリアだ」
その声ひとつで、今まで曖昧だったシッカさんの焦点が、金の鳥籠へ結ばれた。
カナリア?
もしかしてシッカさんのペットが、人質に囚われていたのかな?
「………それは、宰相閣下が犬に食わせたと」
「ああ。犬に食われたってのに、生きてやがったんだよ。図太くな。だから生かしてやったんだよ」
ひとのペットを犬に食わせた?
鬼畜の所業じゃねぇか!
「ヴリルの銀環を俺に渡せ。引き換えに、てめぇのカナリアを返してやる」
怒りが沸々と滾ってくる。
まだ内臓も眼球も皮膚もぐちゃぐちゃだし、手は焼けただれてるし、血液足りてないけど、知ったことか。
突進し、鳥籠を鷲掴みにする。
「なにしやがるっ!」
ブッソール猊下に蹴り飛ばされた。
でも鳥籠は確保!
転がりながら距離を取る。
「ぉ……げっ」
口から血や唾液、いっしょに内臓みたいなものまで垂れてきた。
無茶した後悔はない。だって人質なんて癇に障るもの。
「人質で取引するなんて、どういう了見です! それが賢者の在り様ですか!」
「俺ぁ聖人じゃねぇんだよ! 事ここに至って手段なんて選んでられねえ! 家族のいのちがかかってんだ」
滅びに足掻こうと決意した賢者だ。
もうどんな説得も罵倒も嘆願も届かないだろう。この人質は逃がさなくちゃ。いや、カナリアだから鳥質?
「ほら、鳥さん、早くシッカさんのところに逃げて」
鳥籠のスカーフを取った。
そこに入っていたのは、カナリアじゃない。
生首。
「ふへっ?」
二十代の男のひとの生首だ。たしかに髪はカナリア色だけどさ。
生首のまつ毛が微かに震え、唇が開いた。
この生首、生きている!
「ザバルジャド!」
シッカさんの叫びは、空を劈くほど悲痛だった。
生首へと駆け寄るシッカさん。
大気に満ちている風の精霊たちが、唸りを上げた。
「シッカさん! 後ろ!」
わたしの声は届いていなかった。
風の精霊は刃となって、シッカさんを背中から切り裂く。
血が咲いた。砂漠の砂より真っ赤な血だ。
ブッソール猊下は倒れ込んだシッカさんから、ヴリルの銀環を奪った。
「シッカさんっ……」
「……ザバルジャドは」
この生首のことか。
わたしは重い身体を引きずって、倒れているシッカさんへ生首を渡す。
生首の男のひとは、うっすらと瞳を開いた。橄欖色の瞳が光を含み、唇には笑みを宿す。光も笑みもほんとうに微かだったけど、たしかにそこにあった。
「シッカ。もう首だけになっちゃったよ」
「いいえ! いいえ……!」
シッカさんは生首を抱きかかえた。
まるで胎児を守るような動作だ。
「ザバルジャド! あなたが処刑された時に、庇えなかった! せめて、せめて、泣けばよかったのに」
「仕方ないよ、奴隷は主人に逆らうものじゃない。そういうものだから……」
「そんな価値観こそ犬に食われるべきだった! 庇えないなら、あなたと一緒に……処刑されたかった……」
絹の服も、ターバンも、その口から吐く言葉まで、すべて血の臙脂に染まっていた。
まるで赤い大地に還るみたいじゃないか。
生首は目を閉じ、シッカさんも目を伏せる。
「その生首は【屍人形】でな。どこまで肉体が欠けた状態で【屍人形】として機能できるか。その実験体だ」
【屍人形】
禁忌の獣属性魔術。
ブッソール猊下は四属の適性はないから、別の魔術師の研究結果だろう。
「オプシディエンヌの研究ですか」
「さぁな。研究してたのが、オニクスかオプシディエンヌか知らねぇよ。闇の教団から押収した資料にあった」
ブッソール猊下は語りながら、戻ってきた銀環を撫でる。
銀が纏っている光は頼りないほど淡いけど、その周囲からは影が無くなっている。不思議なひかり。
………わたしは、あの光を瞳に映した記憶がある。
いつだ?
どこで?
不思議な銀色。
「なあ、小娘。何故、こんな抵抗する? あの蛇蝎は、他の女と心中しようとしてるんだ。この世界につなぎ止めちまえば、もうどこにもいかねぇだろ」
「先生に自由を! それがわたしの望みだからだ!」
己のちからを檻にして、己の想いを鍵にして、愛している人間を束縛する。そんな愛情など無い方がいい。害悪だ。
わたしは先生の望みの手助けをするだけだ。
「『夢魔の女王』、聞き分けてくれ。頼む」
ブッソール猊下の真摯な声によって、わたしの奥から記憶が溢れかえる。
銀環。
銀の環。
ぎんの、わっか。
『夢魔の女王』。
あれは『夢魔の女王』が冠していたサークレットだ!
銀の錫杖へと変化した銀環だ!
「………わたしは、ほんとうの姿を知ってる」
銀環へ囁く。
あれはわたしのもの。
『夢魔の女王』が携えるもの!
「ヴリルの銀環! わたしの手に来なさい! わたしと一緒に、時空の果てに座すために!」
須臾、ヴリルの銀環が艶めいた。
燻し銀めいていた表面は艶を得て、淡くて強い光を放つ。
焼けただれた手のひらに、銀の光がやってきた。
「あるべき姿に」
そう命じると、銀環は繙かれた。
錫杖へと姿を転じる。
三日月めいた装飾には、いくつもの銀の遊環が揺れていた。その輪のひとつひとつが、光あふれている。まるで月のよう。
「それがヴリルの銀環の真の姿……か」
ブッソール猊下の呟きが届いた。
「ええ、これこそ『夢魔の女王』ゼルヴァナ・アカラナが継承すべき錫杖」
わたしの指先にまで力が行き渡る。幽霊でさえ息を吹き返しそうなほどの瑞々しさ。
火傷に爛れていた皮膚が、潰れていた内臓が、欠けていた血液が、信じられない勢いで癒されて潤っていく。
これがアトランティス文明の叡智の結晶か。
ブッソール猊下はわたしに突進してくる。
奪い返す気か。
完全回復まであと数秒。
紫の布が舞う。
ブッソール猊下の肉体に絡みつくのは、シッカさんのターバン。そうか、魔術で織られているから、精霊に干渉できるのか。
「姫君の……いいえ、我が君の邪魔をなさいますな」
血まみれで伏したまま、布を使役するシッカさん。
「しゃらくせぇ魔術だな」
足止めを難なく引きちぎる。
次の瞬間、ブッソール猊下の胸板が剣で貫かれた。
「………ロックっ、てめぇっ!」
ロックさんが背後から、ブッソール猊下を剣で貫いていた。
物理が通じないはずなのに、ブッソール猊下の肉体が崩れていく。指先からぼろぼろと、干乾びた土くれみたいに。
ロックさんが携えているのは、オリハルコンの剣。
反土の性質を宿した魔法金属だ。あの剣が、ブッソール猊下を形成している土精霊ディエメアエに干渉しているのか。
「勝った方に雇ってもらうって言ったけど、手を出さないとは言ってないじゃん?」
歯を食いしばりながら、剣に力を込めていた。
「このクソガキ……ッ!」
ブッソール猊下はロックさんに、肘鉄を食らわす。ロックさんが吹っ飛んだ。
だがもうわたしは、完全回復した。
わたしは錫杖を振りかざし、ブッソール猊下の腹へと叩き込む。
物理攻撃じゃない。この錫杖を介した純粋な魔力の攻撃だ。
「がは…ッ」
膝を折り、手をつくブッソール猊下。依り代となっている精霊から、ブッソール猊下の人格が剥離していく。雲母が壊れるように、はらはらと。
だけどブッソール猊下は笑っていた。
不敵に口を歪め、わたしを睨みつける。
「てめぇに負けたから散るわけじゃねぇ。本体が、役割を果たした」
ブッソール猊下が死んだの?
『星蜃気楼』へ視線を向ければ、ノイズを纏っている。
霊視しなくても分かる。『星蜃気楼』はエーテリック領域という異界へ沈もうとしていた。
オニクス先生を助けに行かなくちゃ!
「扉は閉じてある。無駄、だ」
「内部から破壊すれば……」
「はははは。遺跡の素材は、オリハルコン合金より強靭だ。中から、だろうが、人類じゃ絶対に、破壊できやしねぇよ」
霧散しながらも、ブッソール猊下の依り代だった精霊が語る。
冗談じゃない。
別の時間に飛ばされても同一時間軸だ。時魔術で追いかけることが出来る。でも別次元まで行ってしまったら、わたしには追いかけられっこない。
滅びの歴史を守るなら、『星蜃気楼』を見逃さなくちゃいけない。
そんなのあんまりだ。
オニクス先生の望みは、愛した相手と共に死ぬこと。ダンジョンの奥底で囚われたまま死ぬことじゃない!
独りで、あんなダンジョンの底で。
それこそ絶望じゃないか。
魔女オプシディエンヌが望んだ通りの絶望だ。
……いや、まだ間に合う。
方法がひとつある。
「外壁を壊すことなら、出来ます。千年後の世界では、あの遺跡は壊れていた。これは純然たる事実。だから破壊できるんです」
「はん……どうやって……?」
「世界を滅ぼすほどの力で」
投げつけられた問いかけを踏み躙るように、わたしは一歩だけ蹄を進める。
錫杖と蹄から、硬い音が響いた。
「ロックさんは避難してください。絨毯の高度を最大に」
「……分かった」
ロックさんが脇腹を押さえ、立ち上がる。シッカさんたちを絨毯に乗せるのを確認してから、わたしは錫杖を強く握った。
わたしはサイコハラジック特異体質じゃない。
だから異界への干渉はできない。
遺跡を留めることはできない。
そしてブッソール猊下の張った結界内では、四属の魔術は使えない。
でもアトランティスの遺跡を壊す方法がひとつある。
この手段は考え抜いた先なのか。この選択は思慮があるのか。この結果はわたしにとって最適解なのか。
考え抜いたものじゃない。思慮はない。最適解でも、ない。
だけど今のわたしが出来る方法は、これひとつしかないのだ!
この愚かな選択肢に、躊躇いがないわけじゃない。
これは恐ろしい手段だ。
とても悍ましい方法だ。
たったひとりの男のために、この砂漠に生きとし生けるものを無へ還そうとしているんだ。
どれほど重い罪なのか、どれほど償えない咎なのか、わたしには計り知れない。ひとの一生を生き抜いても、理解できないかもしれない。
――敬すべき御方だが、縋るべき御方ではない――
オニクス先生の戒めが、鼓膜より深いところで繰り返される。
それでも、わたしは先生の願いを叶えたい!
銀の錫杖を掲げた。
しゃらんと、涼やかに鳴る環たち。
わたしの声帯は魔力のみなもと、わたしの吐息は魔力そのもの。
微かに息を吸い込む。
錫杖がわたしの力を、反響させていく。
膨らんでいくわたしの力。
「どうかわたしの声をお聞きください。時間に棲み、空間を翔けるお方。因果を肺腑に収め、星気を喰らう畏怖すべきお方。生命と創世の記憶を宿されし、もっとも古き竜!」
喉が千切れんばかりに叫ぶ。
――きみほどの魔力の持ち主が我が師の名を叫べば、それはそのまま召喚になる――
「ラーヴさま!」
『邪竜』を目覚めさせる。
これは魔術師としての絶対禁忌。