第十八話(前編) 滅びよと、一角獣が鳴くならば
ブッソール猊下の本体がダンジョン内部で自害する前に、ブッソール猊下が依っている精霊を滅する。
ヴリルの銀環を強奪する。
そしてオニクス先生を救助する。
「突っ込んできて、どうするつもりだ? この俺は精霊に依ってるだけ。俺には物理が効かねえし、てめぇは魔術も使えねぇ」
【抗魔】が張られているせいで、フィールドは魔術が使用不可。
精霊に依ってる物理無効のボス。
これを攻略本なしで初見クリアしろってか。
なんてハードモード。
前情報アリって点だけは救いだけどさ。
わたしはさらに加速し、一気に懐に潜り込む。
「小娘。てめぇは魔術を使えんが、俺ぁ使える」
ブッソール猊下が嘯いた瞬間、無数の風の刃が生じた。
魔法の風だ。
わたしの髪を、頬を、唇を、耳を、喉を、そして眼球を、風の刃が掻き切っていった。
ブッソール猊下はわたしを殺せない。
これはただの脅しだ。
こんなもので怯むと思ったのか。
甘い。
わたしの眼球など、所詮は飾り。抉られようが切り裂かれようが、霊視はブッソール猊下を正確に狙える。
ブッソール猊下の喉笛に噛みついた。
魔力を喰らう。
虹の滝の幽霊を啜り喰らったように、ラピス・ラジュリさんを喰い殺したように。
幽霊も【屍人形】も喰い尽くせるんだったら、精霊だって喰い殺せる。
だが、浅い。
踏み込もうとした瞬間、横から拳が打ち付けてきた。
「がっ!」
思いっきり殴り飛ばされたけど、獣の下肢は引き下がらない。一角獣の蹄は、蹄鉄などなくても岩場に負けない。
「『幽霊喰いのミヌレ』。そうだったな。てめぇは小娘だ。だが何もなくても戦える小娘だった」
前情報を持ってるって点は、ブッソール猊下も同じだったな。
わたしが『幽霊喰い』で、一角獣の速度を持ってるって知られている。
一角獣という地上最速の蹄を持ちながら、ブッソール猊下の拳を躱せなかった。このひと、反応より早く動いている。
白兵戦闘の経験差ってやつか。
修羅場を潜ってないわたしが、真っ向勝負で勝てる相手じゃない。
スカートの下から、左手でナイフを抜く。
ふわっと広がるスカート。
ダマスカス鋼の斑紋が、日差しを受けて煌めいた。
ブッソール猊下の双眸が、ナイフへと向けられた。わたしはその一瞬を狙って、右手を上げる。
魔導銃を構えている右手を。
小型魔導銃。
本来なら銃身の長い魔導銃を、オニクス先生が改良したのだ。携帯性を上げるために。軽くて短かったら、スカートの下にでも隠せるのだ。
携帯タイプ魔導銃は、ブッソール猊下も知らんはず。
安全弁を外し、引き金を引いた。
魔弾が放たれる。
ブッソール猊下の眉間を打ち抜いた。
やった、クリティカル!
わたしは一気に距離を詰めて、ブッソール猊下の太ももを蹴って踏みつける。
ブッソール猊下の体勢が崩れた。
とどめに狙うは喉笛。
今度こそ魔力を食いちぎってやる!
「小娘が……ッ!」
「クソジジィ………喰われろ!」
わたしの右手首を、ブッソール猊下が掴んだ。
炎と化すブッソール猊下の掌。
「ぐぁあっ!」
熱さが滲み、まるで火箸が突っ込まれた感覚が脳髄に駆けた。すぐさま痛覚を遮断する。
獣属性の魔法使いが、痛みで怯むわけねぇだろ、クソが。
わたしはブッソール猊下の喉を、食い千切った。
鮮血の代わりに、魔力が飛び散る。
だけど風圧の塊が、わたしを横から吹き飛ばす。風の精霊が殴ってきやがった。
体勢がまずい。踏ん張れない。
風に吹き上げられて、わたしは木の葉みたいに舞い上がった。だめだ、身体の状態を立て直せない。
全身を岩盤に叩きつけられた。
「ぉげっ!」
やばい。
背骨がやばい。
痛快遮断しているから痛みはないけど、背骨か骨盤あたりのどっかが砕けているんじゃないか、これ。
ユニタウレ化してなかったら半身不随だ。
回復しなくちゃ。一刻も早く、早く、早く。
時間がないのに!
早く銀環を奪って、オニクス先生を助けに行かなくちゃ。
『星蜃気楼』がエーテリック領域に還ってしまう。
「生身だったら死んでたぞ」
ブッソール猊下の眉間に、小さな穴が開いていた。
だけど穿たれた傷は炎をちらつかせて、圧倒的な速さで回復していく。見た目はクリティカルだったけど、HPはあんまり削れてねぇのかよ。
回復速度が、ブッソール猊下の方が早い。
そりゃ精霊だもんな。肉体無いもんな。
わたしも肉体再生させているけど、損傷が激しすぎて追いつかねぇ。千切れた耳朶。切り裂かれた眼球。燃やされた右手。砕かれた背骨。ひび割れた骨盤。内臓もダメージ食らってるし、回復させるべき箇所が多すぎる。
「死ぬなよ。手加減してやったんだぜ? てめぇには邪竜を眠らせるって仕事があるんだからな」
「それを、成すのは、千年後の話ですよ」
血と言葉を吐きながら、ブッソール猊下を睨み上げる。
視界の端っこに、極彩色が見えた。
空飛ぶ絨毯がひとつ、こっち向かって飛んできている。
上に乗ってるのは……ロックさん!
うそうそ、信じられない、でも見間違いじゃない、ロックさんだ!
キビシス織りのターバンとマントを翻して、こっちに手を振ってる。
「ロックさんっ? 旅に出たんじゃないんですかっ?」
「途中で路銀が尽きちゃったんだよね。借金させてくれないかなって」
明るい笑顔で語る。
借金って……こいつ、砂漠の帝国が滅亡するからって、借金踏み倒そうって思ってたやつだよな。
にこにこしてるロックさんの後ろで、カンタシェくんが縛られていた。不機嫌顔して、こっちをちらっとも見やしない。
どういう状況だよ。
「おう、ロックじゃねえか、ちょうどいい。ちぃとこの小娘を保護すんの手伝ってくれや。俺ぁ今や帝国宰相の地位に上り詰めてる。金でも地位でも言い値で弾むぜ」
「ロックさん! ブッソール猊下は歴史改変するつもりです。わたしはそれを阻止したい、絶対に!」
「帝国の滅亡を食い止めてぇだけだ!」
「それは因果律を破壊する行為です!」
わたしは叫び返す。
ロックさんは空飛ぶ絨毯の上であぐらいかいて、頬杖をついたままだった。
「おれは勝った方に味方するよ」
「ざけんな!」
「マジかよ!」
ふたりぶんの罵声に対して、ロックさんは飄々と笑っている。
「だってどっちにも肩入れする義務は無いよね。今、おれ、フリーだし。第一、負けた方に肩入れしたら、報酬受け取れないじゃん」
冒険者らしい物言いだな。
義理は果たすけど、義務じゃないことはしない。
忠義やしがらみとは遠い場所に立つ。それでこそ冒険者だ。
ブッソール猊下はなおも説得しようと、口を開く。
次の瞬間、岩場の影が伸びた。
いや、高い岩場のところに、一個小隊が整列していた。
先頭に立つのは、盗賊頭ハジャル・アズラクさん!
彼らは魔導銃を携えている。
わたしは本陣からこっそり抜け出してきたつもりだったのに、どうしてここにいるの? まさかオニクス先生がわたしの護衛に、遊撃小隊を付けてたのか?
「撃て!」
ハジャル・アズラクさんが号令を発す。
数えきれないほどの魔弾が、ブッソール猊下目掛けて発射された。
「くそったれ!」
ブッソール猊下は青筋を浮かべ、風の精霊を召喚する。
だが不意に、別方向の岩陰から何かが飛んでくる。
フック付きロープ?
ブッソール猊下の腕の銀環に、フックが咬まされた。
「なにっ?」
ロープは意思を持っているようにうねり、ブッソール猊下から銀環を奪う。
「ヒャハハハッ! やった、宰相から奪った! 負ける博打に! 負けて当然の博打に! このマアディン・タミーンが、勝った!」
マアディン・タミーンさんだ。
魔導銃小隊がすべて囮。
目的はヴリルの銀環を得ることか。
不健康に痩せた手に、銀環が収まる。
「しゃらくせぇっ!」
ブッソール猊下の怒声によって、エーテリック領域から炎の精霊が召喚された。
熱風が、業火が、周囲一帯に荒れ狂う。
呼吸できなくなるほどの焔。
まるで煉獄。
「ふぎっ……」
一瞬、焦げる直前の感覚が押し迫ってくる。
だけどわたしの本能は、わたしの判断力より優秀だった。反射的に魔力で膜を作ってくれる。これ、地震で生き埋めになった時と同じ、空気の膜だ。
……でも、みんなは?
みんなどうなった?
視線を上げた先は、見渡す限り地獄だった。
煉獄の底が抜け、地獄に堕ちたよう。
だってすべてが焼け焦げているんだから。地面も岩も人間も。
誰もかれもが人間の輪郭さえ保てていない。死体より無残な姿。まるで死体の炭でできた森のようだった。
なんて静かな地獄だろう。
業火は一瞬だったけど、苦しみを味わう暇もないほど苛烈だ。
悲鳴もない、苦悩もない、呵責もない、青い空の下の、地獄だった。
「さっすが爆炎のソル。手が付けられない強さじゃん」
遥か上空の絨毯から、ロックさんの暢気な声が降ってきた。
目の前の地獄とはちぐはぐな暢気さだ。
「ゼルヴァナ・アカラナ姫……」
地獄にひとりだけ立っている。
マアディン・タミーンさんだ。
【耐炎】と【硬化】の護符の守りのお陰か。
あるいはヴリルの銀環を持っていた影響なのか。
なにが原因か分からないけど、マアディン・タミーンさんだけが生の淵に立っている。
「こいつぁ戦ですぜ、蒼褪めてる暇はございやせんよ」
柘榴のように爆ぜた顔が、歪む。笑っているのだろうか。きっと笑っているんだろう。このひとは血肉が焼け焦げて尚、心の底から笑っている。
「さあ、姫」
マアディン・タミーンさんは銀環を投げる。
わたしへと。
真っすぐに。
ハジャル・アズラクさんやマアディン・タミーンさんの援護で、ヴリルの銀環に手が届く!
指先まで、あと少し。
ショールめいた紫絹が、わたしと銀環の間へ割って入った。
「え……?」
紫絹が、ヴリルの銀環に絡みつく。
日差しに反射しながら、彼方へと奪い去られていくヴリルの銀環。
「シッカさんっ!」
ヴリルの銀環を手にしたのは、シッカさんだった。
優美な姿勢で立っている。佇んでいるだけで、水際立った気品が漂っていた。まるでここが宮中みたい。
だけどターバンは解かれ、美しい髪が流れている。生まれてから一度も切ったことがないほどに長い髪が、砂風に吹かれて揺らめいていた。