第十七話(前編) そして砂鉄の味を知れ
いまは夜明けのひとつまえ。
お布団の中で目覚めかけていると、気配をひとつ感じた。先生じゃない。
わたしは息を殺して枕元のナイフを握り、霊視を向ける。
「……マアディン・タミーンさんですか」
盗掘師のマアディン・タミーンさんが、格子窓の傍らに佇んでいた。
紺色群青の影を纏っているせいで、金眼銀眼とも昏い。陰影が底冷えする青さだからなのか、不健康な痩躯がさらに削られているようにも見えた。
「ゼルヴァナ・アカラナ姫。こちらに蛇蝎の閣下はおいでじゃござんせんか?」
「いえ、おいでではありませんよ」
わたしに添い寝してくれているのは、護り刀の蛇とチョーカーの蜜蜂だけだった。
「火急の知らせですか?」
「ヴリルの銀環は、変わらず宰相が後生大事に抱えてるって定時報告でございやすよ。ありゃ一時も手放しませんな」
ならば必ず戦場にも持参するだろう。
良い知らせに分類できる。
「マアディン・タミーンさんも戦争へ赴くんですか?」
「あっしが戦場に? この臆病で瘦せっぽちのマアディン・タミーンは、とてもとてもお役に立ちゃしませんぜ」
「では砂漠から離れることをお勧めます。もうすぐ滅びますから」
すでにラーヴさまのタイムリミットは目前に迫っていた。
この盗掘師なら、旅暮らしになっても生きていけるだろう。
だけどわたしの言葉に対して、マアディン・タミーンさんは微かに口許を歪めた。
笑っているの?
それともただ陰影が揺れただけ?
「夜が明けりゃ、乾坤一擲の大博打が始まりまさぁな。砂漠すべて巻き込んだこの狂った博打を目前にして、愚かなマアディン・タミーンが立ち去るとお思いですかい?」
「わたしたちが勝つか負けるか、見届けるの?」
「そいつはちぃと違いますな。他人の博打なんざ、面白くもなんともありゃしませんぜ。あっしは賭けたんでさ。胴元は蛇蝎の閣下。負けても勝っても楽しいですぜ」
博打。
「なにを賭けているんですか?」
「さぁて? 当てたら申し上げますよ」
出会った時から変わらない笑い方だった。
賭場の前の路地で出会った時、このひとはこんな風に愛想笑いをべったり貼り付けて、茶化した物言いをしていた。
「護符?」
「ゼルヴァナ・アカラナ姫から拝領したものは賭けられませんぜ」
「髪? 涙? 爪? 血液?」
「そんなものはさんざん採取されましたなぁ」
「歯? 眼球? 臓腑?」
「ああ、ほとんど正解でさ」
マアディン・タミーンさんは、ぐにゃぐにゃと身を揺らして笑う。
骨っぽい指先を、自らの胸に這わせた。その指の動きに、わたしの視線が奪われる。
「賭けたのは、このマアディン・タミーンの心臓」
戯言めいているのに、ひどく不吉な響きが秘められていた。
心臓。
オニクス先生は以前、時魔術の研究が大詰めを迎えているって言っていたな。
まさかマアディン・タミーンさんの心臓を、時魔術に利用する気か?
このひとは無性別者。稀有な躯だ。
髪や涙をさんざん採取して研究した結果、心臓が必要だって結果になったのか?
いや、違う。
この仮説には大きな穴がある。
無性別者の心臓。仮にそれが不可欠であるなら、オニクス先生がマアディン・タミーンさんを危険な宰相の元に派遣するわけがない。だからこの仮説は致命的に間違っているはずだ。
元の時代に戻るための素材に、マアディン・タミーンさんの心臓が必要になるわけがない。
これは砂漠帝国風の大袈裟な物言いか?
わたしが思考に沈んでいると、回廊から微かな布ずれが聞こえてくる。女奴隷たちが沐浴を知らせにきたのだろう。
「ではあっしはお暇致しやす」
痩せぎすの身体が、軽やかに窓から飛び出る。
マアディン・タミーンさんと入れ替わるみたいに、女奴隷たちが朝の挨拶に入ってきた。
女王ご親征のために用立てられた衣装は、翡翠色のオリハルコンシルク。
東方大陸では皇族しか纏えないオリハルコンシルクを、透明感ある翡翠色で染めている。まるで本物の翡翠を蕩かして、糸に紡いて織ったみたいだ。
オリハルコン糸の刺繍によって、あらゆる果実が描かれている。葡萄に柘榴に桑の実。銀の豊穣だ。
帝王の寵姫でさえこの衣装を所望したら、高望みだと思われるほど贅を凝らしてある。
あんまりにも布がたっぷり過ぎて、独りじゃ脱ぎ着できない。
女奴隷たちの手を借り、着替えていく。
ひとりの女奴隷が、わたしの前に傅いた。
「姫君。老楽師さまのご容態、甚だ芳しくないとのことでございます」
「では見舞いに参ります。支度滞ること、背の君に伝えて下さい」
わたしは翡翠色の裾を引き、楽師のおじいさんを見舞った。
おじいさんの部屋は、相変わらず絨毯も垂れ布も柔らかい。おじいさんはそのなかでいちばん柔らかな布団に横たわっていた。
畏まろうとするおじいさんだけど、わたしは手で制した。小姓が布団の上に正装の長衣をかけて、かたちばかりの礼を整える。
「この老骨もそろそろ潮時でしょう。死出の旅の前に、ひとつ懺悔をさせてください」
わたしは人払いをする。
静まり返った部屋には、澄んだ朝焼けと、坪庭からの噴水の音色だけが満ちていた。
「このジジィは姫君の信者でございませぬ。ただ知らぬ音楽を学びたい、奏でてたい、それだけでした。たったそれだけで姫君の信者たちの音楽を学んだだけの……このような身に余る厚遇を受けるべきでなかったのです」
信者じゃないからこそ、わたしに縋らなかった、祈らなかった。偶然の出会いに感謝し、ただ傍らで弦を爪弾くだけだった。
それがわたしの心地よさに繋がっていた。
「なにも気に病まなくていいのです。あなたはあなたの生き方を全うしたのですから」
「しかし……」
「死出の旅は素晴らしいものですよ。魂はあの月より遠くへ旅立ちますが、その時に天上の音楽を聴けるのです。惑星の球層が擦れることで、地上には存在しない荘厳な音色を奏でているのです」
おじいさんの瞳が輝く。
「地上では聞けぬ音楽……」
「わたしはその音色がどれほど素晴らしいか知っています。歩むべき道を生き抜かれたあなたにとって、美しい旅になるでしょう」
「ああ、姫君。慈愛豊かなる姫君。どうか、どうか言祝ぎを……」
「死は生まれるための儀式。新たなる旅路に祝福を」
わたしはおじいさんの手を握り、囁く。
「ナハル・アル・ハリーブさん。あなたの来世に、まことの幸福を」
おじいさんは安らかに目を閉じた。
見守っていると、ゆっくりと眠っていく。
寝息が浅い。
きっとそれほど時経たず、楽師のおじいさんは新しい旅に出るのだろう。
「女王が板についてきたな」
背後に佇んでいたのは、オニクス先生だった。
壊れかけたままの鴉の仮面に、漆黒の長衣を引きずり、幾多の呪符を装備している。
その姿は魔王そのものだ。いや、死神かもしれない。死神だとしたらその影が触れた瞬間、いのちを奪うタイプだな。
「まことのゼルヴァナ・アカラナと見紛うほどだ」
「……本物のゼルヴァナ・アカラナは、もっと強くて美しいですよ」
「本物を目にしたことがあるようだな」
皮肉めいた戯言に対して、わたしは答えなかった。
微笑みだけを返す。
「身支度の手伝いに来たんですか?」
「ああ。きみのための宝飾がやっと完成した」
更衣の間に戻れば、無数の金貨が飾られた装飾品が輝いていた。いや、金貨じゃない。オリハルコンに黄金を混ぜて、貨幣形に連ねている。腰飾りと、腕輪のセットだ。
腰飾りと言っても足元に垂れるほどで、腕輪といっても手の甲を覆うほど。
「砂漠の女王に相応しいだろう」
先生が自ら手に取って、わたしの前に膝をつき、腕輪と腰飾りを付けてくれる。見た目は重厚だけど、それほど重くはない。オリハルコンのおかげだ。
ときおりオニクス先生の指先が、わたしの皮膚に触れる。くすぐるように。
「美しいな、我らが女王ゼルヴァナ・アカラナ。女神として望ましい姿だ」
オニクス先生が柔らかく囁いた。
優しくて、静かで、それでいて熱っぽい。なんだか求愛しているみたいな口調だ。気のせいだと分かっているのに、愛を語られている錯覚に陥る。
ヴェールを被せられた。
まるで結婚式みたい。
このひとに手を取られ往くのは、戦争なのに。
空飛ぶ絨毯が群れ成し、進軍していく。
恐竜の骨たちに取り囲まれ、駱駝の兵士たちが付き従う。
わたしはいちばん豪奢な絨毯に腰を据え、クッションと日傘に埋もれている。夢孔雀の羽根扇によって、常に心地よい風が通り抜ける。進軍中なのに大法院に居る時と変わらない居心地だ。
日傘を支え、扇を煽いでいるのは、着飾った女奴隷たちだ。その身に飾られた真鍮細工が、ちらちらと日光を反射させる。
わたしはチョーカーになっている蜜蜂を太陽に透かした。
日長石が輝く。
「………まだ封印されている」
ブッソール猊下の張った結界は大規模だ。まだ効果範囲から抜けない。地図上では分かっていたけど、実際に結界範囲を膚で感じると、宰相の権力が伝わってくる。
女奴隷たちが日傘に垂れ幕をかけようとする。
「どうして風景を遮るの?」
「蛇蝎の閣下からのご指示です。ここはお目汚しになりますから」
「要りません」
作られた日陰から身を乗り出す。
なるほど。
赤い砂に埋もれているのは、死者の群れだ。
砂漠そのものが墓標になっている。
「背の君を呼んで下さい」
わたしが頼んで間もなく、大きな羽ばたきが聞こえた。
漆黒のペガサス。
その背にはオニクス先生が騎乗していた。
「どうした、ゼルヴァナ・アカラナ」
「進軍を小休止させてください。わたしは降りますから」
「この大軍を止めるには、それなりの理由がいる」
「あなたに任せます。見え透いた嘘はお得意でしょう?」
わたしが言うと、先生は不愉快そうに顔を顰めた。
「降りて、どうする?」
「合戦の跡を見ておきたいだけですよ」
「きみが、穢れる」
「それはわたしが判断することです」
わたしの強情にオニクス先生は微かに嘆息する。
「ゼルヴァナ・アカラナによる黙祷を行う! 全軍停止だ」
オニクス先生が指示を飛ばせば、進軍が止まった。
わたしは絨毯から飛び降りた。
一角獣の蹄は砂地に着地するのは向いてないけど、それでも踏ん張って倒れないようにする。
血や腐臭は、赤い砂に啜られていた。
肉や腱には、蛇や蠍が群れていた。
頭尾蛇アンフェスバエナがしゃれこうべから飛び出し、わたしに威嚇音を発してから赤い砂底へと沈んでいく。
「これが穢れですか」
わたしは砂を握る。
オリハルコンが混ざって赤っぽくなった砂は、わたしの拳の中で、きりしきりしと甲高く鳴った。
悠久の砂は、手を開けば風に散る。
「平和を愛する人間にとっては、汚れ仕事にしか見えんだろう。それとも私が悍ましくなったか?」
「あなたを愛してますよ。未来永劫、絶え間なく」
蹄で砂を掻く。
「わたしが考えていたのは、あなたから受け継ぐお役目のことです」
「世界鎮護の魔術師か」
「ええ。わたしは世界を鎮護します。それは嫌じゃない。あの世界が好きだから。エクラン王国のひとたちも文化も好きです。身分制度や政治形態に関してはまだ未熟ですが、嫌なら変えていける範囲でしょう。でも、あの王国に戦争が起こったら?」
西大陸は安定している。
それでも火種がないわけじゃない。わたしが役目を全うするまで平和とは限らない。
「戦が人類の業なら、わたしは戦禍も愛さなくちゃいけないのでしょうか?」
ひときわ強い風が吹く。
呟きも砂に散っていった。
飛竜が蒼穹を舞い、一角獣が雪原を駆け、人類が闊歩する世界。
ひとの手が造る建築も、ひとの喉が奏でる歌も、ひとの指が縫う衣装も、ひとの心が綴る詩も、わたしはこの上なく愛している。
「戦を嫌っていたら……戦争が起こってもなお、鎮護魔術師を務められるでしょうか?」
わたしは戦いを食い止める気はない。
もし戦争を起こしたのが搾取されているひとだったら、そのひとたちに対して、平和が大事だから慎ましくしていなさいなんて、言えやしない。戦うなら戦えばいい。抗うなら抗うべきだ。
その戦いが戦争になったら、わたしは嫌悪するのか。
あまりにも身勝手じゃないか。
身勝手に嫌だ、嫌だと、情勢を呪いながら世界を鎮護するのか。
それならまだマシかもしれない。
否定のあまり、世界を毀してしまわないだろうか。
「わたしはこの世で最も尊い御方の名を知っています。その方の名を呼べば、地震を…終焉をひきおこすことができるんです」
まだラーヴさまがそんな存在だと知らなかった頃、お名前を呟いたことがある。
あれは二度。
エクラン王国の王都の地下で、そして空中庭園で。
ラーヴさまのおひざ元ではないのに、あれだけの地震が起こったのだ。
わたしは視線を、腹を裂かれた兵士の死骸へ移す。
砂に埋もれた死者たちは、何も訴えない。
蛇や蠍に喰われた眼窩で、わたしを見つめているだけ。
無残なありさまだ。
たとえばエグマリヌ嬢やサフィールさまがこうなったら、わたしは心が折れないでいられるだろうか。世界に絶望しても、人類に失望しても、世界の維持を務められるだろうか。
「平和も戦争も、等しく愛することが必要でしょうか」
「きみは人間だ。女神ではない。相反するものを等しく愛せるなど人間ではないし、人間が神になる必要はない。平和を愛して、戦争を忌めばいい」
女王で留まる程度の力なら、それもよかったかもしない。
だけどわたしは世界鎮護の魔術師の、さらにその先までも進まなくちゃいけない。
『夢魔の女王』ゼルヴァナ・アカラナだ。
時間の輪の外を統べるもの。時を超越する錫杖を持ちて、あまたの予言を齎すもの。未来を齎すもの。すべての巫はひれ伏せ。女神にして女王なり。無窮の混沌なり。
それがわたしだ。
恋に殉じるだけじゃなくて、女神にして女王にならなくちゃいけないのだ。
もっと強くなろう。
何にも屈しない強いこころを持とう。
女神として女王として、どんな思考をすればいいのかまだ手探りのまま。それでもこころの強さがあれば、わたしはわたしの選んだ道を外れずに歩いていける。
「ミヌレ。やはりきみは下がっているといい。もう後方に本陣を作れば……」
「いいえ、参ります。これはわたしたちが始めた戦です」
わたしはオニクス先生を見上げる。
「進軍を」
わたしの命令に、先生は一瞬だけ黙った。
ゆっくりと膝をつく。
「御意に、我が女王」