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第十六話(前編) 時の流砂



「先生、寝所で休みましょう。お疲れなんですから、酔いが回るのも早いですよ」

 オニクス先生は動かない。

 それどころか呼吸さえ浅くて、闇が凝っているみたいだ。

 ここで放置しておくわけにもいかないから、寝所へと引きずっていく。

 常夜灯がひとつ。足元がほの明るいだけの寝室だ。

 オニクス先生は長身を寝床に沈める。吐かれた息は、酒の匂いが濃くてむわっとした。

「今日は寝ましょう」 

 先生の装具を外さなくちゃ。寝苦しいだろう。

 わたしは籠手やピンを外していく。先生の大切な呪符だ。ひとつひとつ化粧台に乗せていった。

「ミヌレ」

「ぷきゃっ?」

 手首が掴まれた。布団の奥へ引きずり込まれる。

「戦に勝てば、きみが悦ぶと思っていた。きみを傷つけないようにしたかったのに、私は、根本から間違っていたというのか」

「落ち着いて下さい。ちょっと行き違いがあっただけじゃないですか!」

「私は、生き方を失敗した男だ」

 大きな手のひらが、わたしの手首じゃなくて肩を押さえつけてきた。

 骨が軋む強さだ。

「どうせ私は、きみを正しく愛せない!」

「はい、そうですか、お水を飲んで寝ましょうね!」

「オプシディエンヌだけだ! あの邪悪な女なら、私は愛することができる。私がありのままで、悦んでくれたのは彼女だけだ!」

 魔女の名に、不快と怒りが同時に競り上がってきた。

 はらわたが煮えくり立つ。

 苛立ちに、自分の内臓を引きずり出したいくらいだ。

 あの女だけは我慢ならない。

「やめてください! だったらありのままでいればいいでしょう! わたしが先生に変わってくれるよう、願ったっていうんですか!」

「違う! だが! きみの横にいる人間が、私のような男など我慢ならんのだ!」

「なんですか、それは!」

「きみの隣は、誠実な人間以外許せない」

「……ハ、ハァアア?」

「生徒番号010か220のような人間だ。清廉で、誠実で、きみの一途さに報い、世間の誰からも石を投げられることのない人間がいい」

「なんでわたしの交友関係を、指示されなきゃいけないんですかッ!」

 エグマリヌ嬢にも似たようなこと言われた。

 オニクス先生はやめておけって。

 だけどあれはわたしのための説得だ。

 先生は理想を押し付けてるだけだ。わたしはそういうの嫌いなのに。

 わたしは先生の長身から抜け出そうとする。

 一角半獣になってんだから、股間のひとつでも蹴り上げれば早いんだけど、さすがにそれは可哀想だしな。なんとか穏便に脱出したいもんだな。

「……ミヌレ」 

 先生の吐息が、首筋に触れた。

 手つきが優しい。

 このまま受け入れてしまいたい。

 ぶっちゃけ大歓迎なんだけど、それはきっと駄目だ。明日、先生が自己嫌悪で投身温泉するコースじゃねぇか。

「やめてください、落ち着いて……やっ、ほんとに……ッ!」

   

「姫君っ!」


 閨に踏み入ってきたのは、シッカさんだった。

 寝床の傍らで跪く。

「閣下。今夜は姫君の具合が悪いようでございます。別の寝所を設けさせて頂きます」

 第三者の存在に、先生は微かに息を飲んだ。 

「……なにを僭越な。宦官風情が、あるじの寝所に踏み入って許されると思うか」

「無礼千万は承知の上にございます。お怒りはわたくしめの首によって贖ってくださいませ」

 この帝国の身分のあり方は、エクラン王国より非人道的だ。先生がシッカさんの首を落とそうとすれば、たとえそれが癇癪の結果でも許されてしまう。

 それでもシッカさんは、なにひとつ臆することなかった。

 むしろ震えがきているのは、オニクス先生の方だ。

「……我らが女王ゼルヴァナ・アカラナへの忠義に免じて、無礼を許そう」

 オニクス先生はゆらりと立ち上がる。

「私は宴席に戻る。きみはゼルヴァナ・アカラナに従うといい」

 先生は立ち去ってしまった。

 静まり返った閨で、シッカさんはまだ平伏していた。

「シッカさん、顔を上げて下さい。感謝しています。でも背の君に首を落とされていたのかもしれないんですよ。無茶はやめてください」

「わたくしめの望むところでございます」

 シッカさんの口ぶりは穏やか過ぎていた。

「早く死にたいのです」

 そのまなざしを色を絶望と呼ぶには、あまりに空虚だった。

 長く見つめていると、誰もいない暗闇に置き去りにされた気分になる。 

「姫君。お怪我がなくば寝床を整え直しましょうか。眠らないと魔力が回復しませんよ」

「……ええ、そうね」  

 わたしはぐしゃぐしゃになった髪に触れる。酷い有様だ。

「寝る前に、髪を梳いてください」

「畏まりました。誰ぞ呼びましょう」

「だめ。シッカさんが梳いてください。あまりひとに見られたくないんです」

 宦官が女性の髪を梳いたりはしないけど、わたしの言い分に納得したらしい。

 飾り立てられた鏡台には、鼈甲の櫛がおいてあった。わたしがオニクス先生から買ってもらった鼈甲の櫛と鏡。他の小物や調度と比べたら見劣りするけど、あれで梳いてほしい。

 シッカさんはわたしの髪を梳いてくれる。

 心地よい。

 何となくだけど、手つきがディアモンさんに似ている。以前、ディアモンさんに髪を梳いてもらったことがあるけど、あの時の感覚が蘇ってきた。

 胸の奥で鳴っていた鼓動が落ち着いてくる。このまま眠れそうなくらい。 

 さらさら、さらさらと、わたしの髪が整っていく。

 髪が常夜灯の光を浴びて、きらきらと、きらきらと鉱石色に輝く。

「ねえ、シッカさん」

「はい」


「あなたが帝国の密通者ね」


 わたしの問いに、櫛が止まった。


「梳るのを、続けてください」

 わたしの呟きに、また櫛が動き出す。

「眠らないと魔力が回復しない。それは現代魔術の知識だもの。それを誰から教わったんですか?」

「わたくしめがそう思っただけです。わたくしめの浅慮な物言いによって姫君の疑心暗鬼を招いたこと、申し訳なく思います。処罰はいかようにも」

 秀麗な面立ちに、動揺や焦燥は無い。

 だからこそわたしの疑いは強くなる。

 裏切りの疑惑をかけられてこの落ち着きようは、覚悟を決めた人間だ。

 懐柔も拷問も、通じないだろう。

 とはいえこのままにしておけない。

 帝国の暗殺者によって、ザルリンさんたちが亡くなった。

 すでに戦争が始まったこの状況で、足元をすくわれるわけにはいかないんだ。

    

「バレちまったら仕方ねぇなあ」

 

 闇の中から、ガラガラ声が響いた。

 これはジズマン語だ。

 それもエクラン王国のイントネーションじゃないジズマン語。

 チューリップの一輪挿しが揺れて、倒れ、水が溢れ出す。

 いや、正確には水じゃない。

 精霊だ。

 水の精霊は揺らぎながら、ひとの輪郭を象る。

 飛沫は鼻眼鏡を擬して、水滴は金糸銀糸の長衣を模していった。波打ちは静まり、人の姿として佇む。

「よう、嬢ちゃん。それとも女王ゼルヴァナ・アカラナって呼んだ方がいいか?」

「……どちらでもお返事致します。お久しぶりです、ブッソール猊下」

 わたしは深く頭をさげる。 

 ブッソール猊下の姿を目にして、わたしの肺腑に溜息が沈んだ。この気持ちを吐くことも出来ない。

 どうりでブッソール猊下のことを誰に尋ねても、知ってるひとがいないはずだ。見つかるわけがない。

「改めて挨拶するか、女王ゼルヴァナ・アカラナ。俺ぁ帝国宰相。帝国風に名を改めムグノティス・エマンと名乗っている。この帝国の帝王三代に渡ってお仕えした精霊遣いだ」

「いったい何年ぶりですか?」

「そうさなぁ……九十歳の祝いをしたのは一昨年か、その前か? だから、かれこれ、三十八年ぶりってとこじゃねぇか」


 雄牛じみていた赤毛は白髪に。

 屈強だった体躯は、痩躯に。

 皺はさらに深く刻まれている。

 眼光の鋭さだけは変わってないけど、片方に大きな傷を負っているせいで、片目は白っぽく濁っていた。

 そこにいるのは、百歳に近い老人。


「……長いこと、ほんとうに長いこと帝国にいらしたんですね」

「ああ。どうやらてめぇら、こっちの時空に飛ばされて一年も経っちゃいねえな。放逐時空の齟齬か。どこ探しても見つからねぇはずだ」

 疲れを吐くように笑えば、痩躯が萎れる。

「カマユーの御大はてめぇの魔力のこと、無窮神性『ゼルヴァナ・アカラナ』に等しいって抜かしてやがったな。マジで名乗るとはな。妙な因果になったもんだ」

 いや、等しいって、ゼルヴァナ・アカラナはわたしですので等しいですよ。

 そんな真実を白状するつもりはない。

 わたしはこの話題を誤魔化すために、本体ではないとはいえブッソール猊下に腰掛けを勧める。視界の端にいるシッカさんに意識を逸らした。

「シッカさんに指示を出していたのは、ブッソール猊下ですか?」

「指示つーか、俺が水精霊と交信できるように一輪挿しを配置させていただけだ。蛇蝎と名乗る存在が星を降らせたとなっちゃ、俺が動かねぇわけにはいかんだろ。大それたことしやがって」

「元の世界に戻るためです。わたしたちは時魔術を完成させなくちゃいけないんですから」

「そんでオニクスに好き勝手させて、戦争になっちまったってわけか」

 肩を竦める。

「……こうなっちまうよなあ。あいつの才能の手綱をあいつ自身に任したら、新興宗教を起こして教祖化するか、軍人として戦争起こすか。あの戦争狂、戦術面じゃ一流だが戦略面じゃド三流なのがタチ悪ィ。収集つかねぇ」

 手厳しい評価だ。

 だけど反論する余地はない。

「なあ、夢魔の女王」

 叱られる前の空気だ。

 わたしは身を縮めて、ブッソール猊下のお叱りを待った。

「オニクス。あいつ、たしかオプシディエンヌと心中したがってたんだよな。昔の話だから、記憶に自信無ぇけどよ」

「ええ、おっしゃる通りですよ」

「あいつが心中なんかやめちまって、生き延びる方法、教えてやろうか?」

 オニクス先生が……生きる…?

 飛びつきたくなるほど魅力的な言葉だった。

 心臓になっている一角獣の角が、高鳴って、熱くなってくる。

 魔女オプシディエンヌと一緒に死なずに、生きてくれる選択肢?

 だけど踏み留まらなくちゃ。

「……【魅了】ですか?」

 ブッソール猊下の提案に、どんな落とし穴があるか分からない。

 誘惑に屈したいこころに鞭打って、わたしは背筋を伸ばす。

「違ぇ、違ぇ、とにかく聞けよ」

 ブッソール猊下は鼻眼鏡を直す。その仕草は三十八年経とうが変わらない。

「オニクスな、あいつ真性マゾなんだよ」

「ハァアン?」

 なに唐突にぶっこいでんだ、このジジィ!

「あの外見と言動で真性マゾなの、笑えねぇ話なんだが、いやもうこいつはほんとの話でな」

「真面目な話をすると思っていましたよ」

「真面目だよ。この上なく俺ぁ真面目だよ。いいから、頼む、真剣に聞けや」

 鋭い眼に見据えられる。

「俺の言い方が気に食わなかったら、奴隷根性って言い換えてもいい」

「それも相当、気に入らない単語ですよ」

「我儘ぬかすな、小娘が。とにかくあいつの根っこは奴隷でな、そのくせプライドと能力は空中庭園なみに高いんだよ。だからいつも、自分という奴隷に相応しい主人を探している。オプシディエンヌとかな」

 その女の名前に、わたしはこめかみがひくつく。

「よく考えてみろや、小娘。真性マゾじゃなかったら、あの大毒婦と付き合うか?」

「付き合いませんね」

「な」

 ドヤ顔するブッソール猊下。

 腹が立つし受け入れたくないが、半分くらい納得させられてしまった。

「あいつは己の理想とする主を探している。そういう生き方をしてる強くて愚かな奴隷だ」

「性癖がちょっと………その、寝台の上ではマゾヒズム的かもしれないという可能性は考慮しますが、人生すべてにおいて隷属を望んでいるとは限りませんよ」

 わたしは反論を口にしてみた。

 ささやかな反論に対して、ブッソール猊下は大仰に肩を竦める。

「だったら魔女オプシディエンヌを殺した後、とんずらこきゃ良かったんだよ。隷属を欲してねぇなら、賢者同盟に命乞いなんてしたのはどういう了見だ」

「それは……悔んでいるからでしょう」

「いや、あいつが己の行いを悔んだのは、邪竜を鎮めてからだ」

 そう指摘されて、わたしは先生の過去を脳内で整頓する。


 1 王宮永久追放後、闇の教団を設立。

 2 賢者連盟討伐と同時期に、オプシディエンヌを殺害。

 3 世界鎮護としてラーヴさまへ派遣される。


 先生は予知発狂者だ。

 偉大なるラーヴさまに巡り会って癒されるまでは、この世界を戯曲だと思っていたんだ。

 だから罪悪感無しに人体実験をしたり、恋人であるオプシディエンヌを殺したりした。

 命乞いした時は、まだ改悛はしていない。

 だったら賢者連盟に頭を下げる理由なんて、どこにもないはずだ。どこにもないのに、どうして命乞いなんてしたんだ?

「オニクスは命乞いした。賢者連盟にとっちゃ、それはそれで洒落にならん災難でな。あいつが「我が教団に栄光を」とか言って自爆してくれりゃ、こちとら始末が楽だったんだがなあ」

 全開の本音で語ってくれる。

「どうすっか会議してると、パリエト猊下が邪竜鎮護にオニクスを推薦した」

 パリエト猊下……

 たしかディアモンさんのお師匠さまだ。

 羊毛や馬毛とか絹とかへの魔力付与がお得意で、古代魔術の最高権威でもある魔術師。

 どうしてパリエト猊下が、オニクス先生を推薦したんだろ?

 だって成功したら、オニクス先生を保護しなくちゃいけない。世界鎮護の魔術師って貴重だもの。

「俺らは失敗するって算段してたら、まさかまさかに成功しやがってなあ。会議がすったもんだ紛糾したが、結局、カマユーの御大が【制約】かけて飼うはめになった」

 言葉のほとんどは溜息だった。

「てめぇは知らんだろうが、カマユーの御大なぁ、あれでもむかしは賢者を冠するに相応しい方だった。業績も、知性も、人格も……あの方だけは敬意を払うに値する、まさしくまことの賢者だった……オニクスがすべてを踏み躙る前は」

 賢者らしいカマユー猊下?

 想像もつかない。

 わたしが知っているカマユー猊下は、骨が恨みで、肉は憎しみ、皮は怨みで出来ているようなひとだった。

 ブッソール猊下はわたしの思考を察したのか、微かに項垂れる。その眼差しは、失われたものを愛しむ翳りだった。

「カマユーの御大はもう限界だ」

 短く言い切った一拍後、ブッソール猊下は頤を上げる。

「夢魔の女王。次はてめぇがオニクスを飼いな」

「……は? なにを馬鹿な……?」

「女王になって、あいつを飼え。蛇蝎を飼いならせ。そうすりゃあいつは、前の飼い主と心中なんかしねぇよ」

「だからって、ひとがひとを飼うなんて!」

「それがあいつの幸福で、世界の安寧だ」 

「飼われることが幸せだと! そんなもの奴隷制度を肯定する愚劣どもの詭弁です! 人間は誰だって自由です!」

 ひとがひとを飼う。

 ひとがひとを買う。

 そんな悍ましいことあっちゃいけない。

 人間は人間として生まれて、生きて、死ぬのがいい。

 奴隷や家畜は許せない。

「あいつは自由なんて好きじゃねぇよ。分かってやれ、オニクスが望んでいるのは、隷属と命令だ。自分を御せる器量を持った人間に、屈服したい奴隷だ」

「悍ましいことを言うなッ!」

 裂帛が響き、静寂が押し寄せてきた。

「我の強い小娘だ」

 真夜中に相応しい静けさのなか、ブッソール猊下は溜息めいたものを吐いた。

「………てめぇが飼わないって突っ撥ねるんなら、俺があいつを飼うしかねぇのか」

「そんなことさせません! だいたい飼うってなんですか? 元の時代に帰るなら、協力すればいいだけの話ですよ!」

 ブッソール猊下が宰相になっているなら、手に入る文献や素材も桁違いだ。

 ラーヴさまが目覚めるデットラインに間に合う。

「そうだな。俺に協力してくれや」

「ええ、休戦しましょう。元の時代に戻る研究は、オニクス先生が進めています。完成まであと少しだと……」

「いいや」

 ブッソール猊下は、わたしに視線を突き付けてきた。


「歴史を変革する」


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