第十五話(後編) 渡り鳥は泥砂を去りて
どうしてオニクス先生がここに?
宴席にいたはずでは?
だいたい【透聴】が使えないのに、どうやってピンポイントにやってきた?
「あの若造に、きみの様子がおかしいから見に行けと言われてな。慧眼だったな」
「……ぅ」
ロックさんの差し金か。
いや、差し金って言い方は失礼だな。思いやりとかそういう言い回しの方が的確だろう。気分的には差し金だけど。
黙っていると、隻眼がわたしからカンタシェくんへと移る。
「きみが逃がしたのか。言葉を交わしたせいで情が湧いたか? いや、逃がしたいなら好きにするといい」
「ふえっ? 怒られるかと思ったんですが」
「何故?」
心の底から疑問だと言わんばかりに、オニクス先生は小首を傾げた。
「ミヌレ。私はきみを傷つけたくはない。オプシディエンヌのことはどうしようもないが、それ以外で、きみを、傷つけるつもりはない」
オプシディエンヌのこと以外、か。
「カンタシェくんの処刑は取りやめてくれるんですか?」
「ああ、適当な捕虜の首を刎ねよう」
「そういうことじゃなくて……ッ!」
「何が嫌だ?」
先生はゆっくりとわたしに近づいた。
「ずっと憂い顔をしていたな。何がつらい?」
「たぶん、戦争が……」
「戦争のどこがつらい?」
「味方が、死にます」
「こちらの死者をゼロにするのは難しいが、努力しよう。私の能力では至らないかもしれんが、それでもきみが喜ぶ戦争をしよう」
「喜ぶ戦争なんて、あるわけないじゃないですか!」
「悲観的だな。きみらしくない。嫌だったところを教えてくれ。全部いやでは私も分からん」
先生の口調は、頑是ない子供を窘めるみたいだった。
「ちがう、ちがうんです」
「斬首が嫌か? なら絞首刑にしよう。飢えるのが嫌か? 市場の統制は整っている。民衆の不安が嫌か? すでに阿片の流通で不満の吐きどころは作った。きみが嫌がっているところを避けよう。取り除こう。それで戦争すれば、またいつも通りに笑ってくれるか?」
わたしが戦争の、何かが嫌で、憂いているって思っている。
何かが嫌、じゃない。
その存在そのものが、現象そのものが、状況そのものが嫌だと。
ああ、オニクス先生は戦争に関して、なにひとつ後悔していなかった。
――あんな程度はセーフだ――
先生にとって、戦争は己の人生に必要だったもの。
悔いているのは別の事。
――奴隷時代に面白半分で受けた辱め――
――教団にいたころ興味本位で行った実験――
先生が厭うていたのは、搾取だ。
奴隷時代と教団時代を厭ったけど、戦争は悔んでいない。やり方を省みたことはあっても、戦争という行為そのものは疎んでいない。
このひとの魂は戦争によって救われたから。
「ミヌレ、きみは戦争をやったことがないのだろう。尻込みするとはきみらしくない。私のやり口がまずかったせいで、苦手意識を植えてしまったか?」
「ちがう、ちがう……」
「すまない。次はきみの好きに指揮を執らせようか。そしたらきっと楽しいぞ」
無邪気な笑顔だった。
この世でいちばん楽しいことを、好きな相手に勧める笑みだ。
一緒に遊びに行くとか、美味しい食事や面白い作品を勧めるとか、そんな優しさだ。
絶望が胸に満ちる。
どうすればこのひとに、戦争そのものが嫌だと理解してもらえるのだろうか。
だけど戦争を否定できない。
だって戦争がこのひとの救いだから。
否定せずに、わたしが嫌だと伝えなくちゃ。
ああ、なんだか、つかれた。
とても、こころが、つかれる。
「やっぱりこうなってる」
わたしでも先生でもない声が、回廊に響いた。
ロックさんだ。
古びたマントを、キビシス織りのマントの上に羽織っている。腰にはオリハルコンの剣とダマスカスの短剣、銀のダガー。それから水筒まで。
「旦那。おれは定住できない人間だ。とどまっていると息が詰まるんだ。それと同じで、姫さまは戦争だと息が詰まるタイプだよ」
「馬鹿な……? 自分を襲撃した誘拐犯を殺しかけて、平然としていたぞ」
自分でも完全に理解できない。
レトン監督生と馬車に乗っていた時は誘拐犯に反撃し、クワルツさんと森を駆けていた時には密猟者を殺した。
そのわたしが戦争に耐えられないってのは、わたし自身がよく分からない。
「敵を殺せるけど、味方が死ぬのに耐え切れない」
「いのちの価値は等しいのに?」
「敵と味方じゃ、姫さまにとってはメンタルへの刺さり方が違うんだ。そもそもこの空気は、姫さまの心が落ち着く世界じゃない。戦争そのものが、耐えられない」
「……?」
先生は理解できないと言わんばかりに、呆然とかぶりを振った。
「ここは、姫さまの好きな世界じゃないんだ」
……ああ、そうか。
ここはわたしの愛した世界観じゃない。
それが、とても、とても、わたしを息苦しくしていたんだ。
戦闘パートも楽しめるけど、乙女ゲーみたいな世界観の戦闘だけだ。
「ミヌレ……きみは、戦争そのものが、辛いのか?」
オニクス先生も理解したみたいだった。
わたしは頷く。
「どうして言わなかった! 戦を仕掛ける前に!」
怒声が響き渡った。
「私はもう始めてしまった。戦争は私自身でも収束できん! 何故だ! きみは話し合いができる人間だと思っていた。自分の意見を声に出せる人間だろう」
わたしのせい?
わたしが最初に反対しておけば、みんな、焔に焼かれたり土に埋もれたりして死ななかったの?
「旦那。そんな言い方はないよ。嬢ちゃんだよ! まだ嬢ちゃんなんだ。しっかりしてるからって、大人が勝手に一人前扱いしていい年齢じゃない!」
「ロックさん、先生を責めないでください」
大人の都合によって一人前にされてしまった先生に、その説得はむごすぎる。
背が高いという理由で、幼いのに徴兵された。
「先に責めてきたのは旦那だ。この件に関しては、嬢ちゃん自身が戦争がつらいって知らなかったんだから仕方ないよ。戦後生まれでしょ、嬢ちゃん」
ロックさんがため息をつく。
ただ呼吸しただけかもしれないけど、それは重い溜息に聞こえてしまった。
「戦争と縁のない土地の戦後生まれだよ。戦争で不幸になった人間も、戦争で幸福になった人間も見たことない」
「私は? 私は戦争で成り上がった人間だぞ」
「旦那は例外すぎる! 戦争の英雄なんて、何千人と死んだ中でひとりかふたりしかいないだろ!」
ロックさんの勢いに、先生は息を飲む。気おされているみたいだった。
回廊に静けさが舞い戻った。
誰も何も言わない。
沈黙だけ。
ただひたすらの沈黙だけが、夜を統べていた。
「じゃあ、あとはふたりで話し合ってね。おれは一抜けするよ」
「……きみは何を言っている?」
「ねえ、旦那。おれは傭兵じゃない、冒険者。護衛はするけど、これ以上はおれの手に負えないよ。だから一抜けする。別に無理して元の時代に戻ることないし」
「馬鹿な!」
「後任はヤークート・アスファルを推薦しとく。仕事はもう引き継ぎ済だから安心して」
「そういう問題ではない!」
「西に戻るのもいいけど、東方大陸に渡るのも面白いかな。タイムリミットまで一か月以上あるんだから、どっちかに行けるし」
暢気な声だった。
ほんとうにこのひとは自由だな。
冒険者だもの。
そう、ロックさんは冒険者であって、傭兵じゃない。戦争が始まった以上は、技能外の注文になってしまう。
後任ができるまで付き合ってくれたのは、義理だろう。
「あ、こいつはおれが引き取るよ」
気絶中のカンタシェくんを、ひょいっとずだ袋みたいに拾う。ついでにわたしが用意した路銀も懐に押し込んだ。ちゃっかりしてる。そんなロックさんだから、どこでも生きていけそうだ。
わたしは頭を下げる。
「お世話になりました、ロックさん。お元気で」
「じゃ、嬢ちゃんたちも元気でな」
「待て! ガブロ!」
裂帛が回廊に響く。
追おうとする先生の長衣を、わたしは踏んづけた。一角半獣の蹄は釘より強い。
「部下が離散するなら、どんな将でも留められない。そうおっしゃったのは先生でしょう」
「だが、ガブロが……ガブロ…………」
先生が息を飲む。
機械仕掛けからバネが飛んだみたいに、動きを止めた。たったひとつの焦点さえどこにも結ばれない。
もしかして名前を呼び間違えているの、やっと気づいたのか。
ロックさんは立ち止まって、振り返ってくれた。
その笑顔は晴れやかだ。
「旦那。じいちゃんになってあげられなくて、ごめんな。じゃーねー」
手を振れば、大きく翻るマント。
渡り鳥が飛び立つように、ロックさんは行ってしまった。