第十五話(中編) 渡り鳥は泥砂を去りて
先生が不在の大法院だけど、思いの外、騒動は起きなかった。謀反の暗殺だのそんな兆しもない。
きっとロックさんと、それからロックさんが紹介して雇っている冒険者さんたちが、治安を維持してくれているからだ。
平穏だ。砂漠の彼方で、戦が勃発したとは思えない。
確かに新鮮な野菜や果物は、食卓に上がらなくなってきている。花もない。でもそこから目を逸らせば全く平穏だった。
しゅりっ……しゅりっ……
現在わたしは山姥モード。
ナイフ研ぎ中である。
今までロックさんに果物ナイフの研ぎをやってもらっていたけど、先生からナイフをプレゼントされたからには、普段の手入れくらい自分でやりたかった。
今研いでいるのは練習用のダマスカスナイフ。
まだ練習中だけど、そのうち自分の武器は、自分で手入れできるようになろう。
「姫さまは指が飛んでも再生できるから、見ててもハラハラしなくていいよね」
「飛ぶ前に、指の位置が悪いって教えて下さい」
ふたりで話していると、エクラン王国で冒険している気分になる。エグマリヌ嬢もいて、魔術の素材を採取したり、魔獣コカトリスを撃破したり、うさぎを捌いたり、『頭痛製造パン』をスープでふやかしたりしていた。
刃の鋭さが増してくる。
「ロックさん。こんな感じでいかがでしょう」
顔を上げたわたしの前に、羽根がひとつ、ふわりと飛んでくる。
ペガサスの羽根だ。
真っ白い輝きと魔力の煌めきをまき散らしながら、わたしの手元に降り立った。
獣魔術【書翰】だ。
袖をまくって腕を差し出す。
羽根は踊りながら、わたしの皮膚に文字を綴った。
『勝ったぞ。【抗魔】の支柱の二本目を破壊した。本隊を一時帰還させる』
懐かしいエクラン王国の文字と、挙げられた戦果、そして何より久しぶりの先生からの伝言に、わたしは微笑む。
「ロックさん。先生が勝って戻ってきます」
そう告げると、ロックさんは眉間に皺を寄せた。
どうしたんだろ?
先生が勝ったってのに、そんな渋い顔をして。
「おれが知ってる『幽霊喰いのミヌレ』は、そんな顔する子じゃなかったな」
「……変な顔してます?」
笑ったつもりだったんだけどな。おかしいな。
「女王さまみたいな笑い方」
「じゃあ、いいじゃないですか」
「おれしかここにいないのに?」
ロックさんとふたりきり。
控えている兵士や女奴隷たちは、部屋の外。鈴を鳴らすなり、大きな声を出せばすぐやってくるけど、少なくともわたしたちの会話は聞き取れないはずだ。
取り繕う必要はないはずなのに。
なんとなく視線を逸らす。
部屋の絨毯も垂れ布も極彩色だった。チューリップの一輪挿しにも、刺繍されたクッションにも、ありとあらゆる色が花開いているのに、目の前が無彩色になっていく。
どこか遥か彼方から、戦勝祈願の勇ましい音色が微かに響いてきた。
「ねえ、もう旦那いないうちに逃げちゃう?」
ぞっとする誘いだった。
悍ましい裏切りを口にしているはずなのに、ロックさんの声ときたら冗談とも本気ともつかない。
「だって旦那は話通じないくらいテンションおかしいじゃん。冒険してる方が、性に合うし」
「わたしは先生を裏切れません」
「……そう言うと思った」
ロックさんは立ち上がる。
「帰還式は盛大にするように言われているんだ、旦那から。打ち合せしてくるよ」
たったひとり残された。
研がれたばかりのダマスカスの刃に、わたしの顔が映っている。
女王の笑みが、べったりと張り付いていた。
軍が帰還した。
わたしは着飾って出迎える。
湯あみから上がった髪には、白い花の香油。百合や白薔薇やジャスミンを組み合わせた香油だ。
新調したばかりの衣装は先生が好きな葡萄酒の色合い。オリハルコン糸と金糸で葡萄模様を刺繍されている。飾り帯の刺繍は翡翠色で、葡萄の葉っぱ模様。しかも朝露を模した水晶粒が、無数に縫い取りされていた。
イメージコンセプトは勝利の美酒。
わたしは裳裾を翻し、四つの蹄で回廊を駆け下りる。
凱旋した先生は上機嫌だ。
「ゼルヴァナ・アカラナ!」
出迎えたわたしを抱きしめる。
「……ッ」
先生の手のひらから、髪から、吐息から、べったりと濁った匂いがした。
ザルリンドフトさんが燃えた瞬間を思い出す。
これは、燃やされた人間の脂の匂いだ。
焼死体の匂い。
「予知など無くとも、私の采配で勝利したぞ! さあ、女王、私を褒めてくれ!」
「ええ、おめでとうございます」
喋るのも辛い。
口を開くたびに、燃えて死んだ人間の匂いと味が入ってくる。まるで死体の脂のジュレを、舌に塗られている気分だ。吐きたい。言葉じゃなくて、唾液も胃液も吐いてしまいたい。
「きみのおかげだ。【耐炎】の護符を付けさせた部隊に、油壷と火矢を抱えさせて突撃させた」
「護符を? え、味方を守るためじゃ、なかったんですか………」
「守るだと? 馬鹿々々しい。戦争は味方をどう死なせるか、敵の機嫌をどうやって取るか、そこに尽きる」
残酷なことを語っているのに、隻眼はきらきら輝いていた。
視覚情報と聴覚情報がちぐはぐだ。
現実感が希薄になる。
「まったく愉快だったぞ。敵のご機嫌取りに、部隊をひとつ真正面から進ませたら、矢襖を際限なく降らせてきた。敵の隊列が崩れた瞬間に、油壷の部隊を横っ腹に突っ込ませてみれば、面白いように敵味方燃えたぞ」
「……」
「若い頃は死地へ送り込む兵どもに、犬死だと思わせんよう腐心していたものだ。私の戦術論を理解しない愚物を、片っ端から吊ってやりたかった。だが今回は楽だ。きみのお陰で誰もが皆、喜んで死んでいく!」
胸に不快感が競り上がってきた。
それなのに吐く言葉が無い。わたしのこころのなかに無いのだ。行き場のない不快感だけが、わたしの胸郭に留まる。
「この戦争で死ぬ魂は、すべてきみの誉れだ。捧げさせてくれ」
先生は微笑んでいた。
いつもみたいな冷笑だったらよかったのに。嘲笑だったらよかったのに。
わたしに向けてくれた笑みは、まるで同じ年の男の子の笑顔だった。
「さ、湯あみを用意させます。身体をいたわってください」
拭い去りたい。
この匂いを。
死の気配を。
「いや、私を案じなくていい。まずは兵どもに酒を配ってやらんとな。それから軍議だ」
息が触れていないにも関わらず、死んだ人間の匂いがした。
「与しやすそうな捕虜が手に入った。拳闘奴隷の小僧は明朝、処刑させよう。きみには特等席を用意しようか?」
「処刑?」
脳裏にカンタシェくんの顔が横切った。
「代用品が手に入ったからな。扱いづらい捕虜だが、見栄えがする。見せしめには丁度いいだろう」
「……見せしめで、ひとを、殺すんですか?」
「ああ、殺すことが最適なら殺せ、捕まえることが最適なら捕縛しろ、逃がすことが最適なら逃走を促せ。あの子供はまだまだ強くなる。逃がして泳がすのも禍根を残す。私は殺すことが最適だと判断した。だから処刑するだけだ」
――殺すことが最適なら殺せ――
――捕まえることが最適なら捕縛しろ――
――逃がすことが最適なら逃走を促せ――
――敵もいのちはたったひとつ。殺してしまっては、尋問も取引も見せしめも出来ん――
今までずっと先生から教えられた言葉は、わたしの指針だった。支えだった。標だった。
ずっとずっとその言葉を抱えて、わたしは戦ってきた。
だけど、それが、今は、吐き気がする。
「処刑は好みではないか」
「わたしはオプシディエンヌではありませんから!」
荒げてしまった声の後は、耳鳴りするほどの静寂だった。
あの魔女の名を言ってしまったせいか、吐き気が増す。
「そうだな、すまない。では酒宴にきみの席を設けていいか? 手柄を立てた兵に、きみへの謁見を許したい」
「…………は…い…」
先生の腕がわたしを解放して、その手のひらが離れていく。
なのにまだヴェールに戦の匂いがこびりついていた。
まるで死人が、わたしの身体を弄っているみたい。
頭からヴェールを引き離しても、わたしから匂いは離れてくれない。
怨嗟のように纏わりつく。
……怨嗟のように?
いいや、比喩でなくこれは間違いなく怨嗟。ゼルヴァナ・アカラナへ届いた怨みと嘆き。
「誰かッ! 誰が来なさい!」
わたしは悲鳴じみた声に、女奴隷たちが駆けつける。
「お呼びですか、姫君」
「湯殿を用意して! 石鹸も香油もありったけです!」
明朝、カンタシェくんが処刑される。
公衆の面前で、半ば娯楽のために殺されるのだ。
戦場で死ぬのは許容できて、娯楽で殺されるのは嫌なのだろうか?
密猟者を殺せても、暗殺者を殺すのは嫌なのだろうか?
自分の許せる範囲が分からない。
虚ろな気分を抱きつつ、わたしは戦勝の宴の上座に腰を下ろしていた。
大法院にある最も格式ある大広間だった。
戦功を上げた兵士さんたちが集まり、従軍書記をしていたシッカさんも座し、普段は図書館に詰めている学者さんたちも席を並べていた。
銀細工の美しい盃に葡萄酒が満ちる。
戦功をあげた兵たちに、わたしが手ずから酒を満ちた盃を与えていく。この盃を与えるわけじゃなくて、ただわたしが注いだ酒を飲む権利がもらえるというやつだ。
たったそれだけなのに感極まる兵士さんたち。
阿漕なアイドル商法みたいだな。
一通り酒を下賜する。
「ではゼルヴァナ・アカラナ。私にも下賜を」
オニクス先生がわたしの傍らに膝をつく。
「そのヴェールの下にある唇でさくらんぼを噛んで、私に与えてくれ」
普段だったら恥ずかしいという気持ちが湧くだろうけど、今夜は妙にこころが動かない。
わたしはよく熟れたさくらんぼを噛んだ。
「可愛らしい歯の跡だ」
臙脂色の小さな果実は、咀嚼され嚥下されていった。
杯が一巡すれば、無礼講が始まる。
大広間には次から次へとご馳走が運び込まれて、葡萄酒や蜜酒の香りが入り交ざる。酩酊のさざ波が寄せては返し、会話は突風だったり凪いだりしていた。
オニクス先生も珍しいほど上機嫌だった。
だって歌ってんだぞ!
先生が!
その美声を十分に発揮している!
学院にいるとき、校歌斉唱も国歌斉唱もしなかったひとが!
そもそも全校集会にも晩餐にも、滅多に姿を現さないひとが!
人前で飯食って歌ってるぞ!
これにはさすがにびっくりだよ。
っていうか、歌が上手かったんかい……
敵の血で染めし剣掲げよ
いのち永らえるは、本意に非ず
我ら女王のために、亡骸とならん
誇りと勝利
誇りと勝利
それが我らの欲するもの
「物騒なお歌ですね」
「エクラン王国軍歌だよ。アレ、じいちゃんも酔うと歌ってたな。ほんとは女王のところが、国家なんだよねえ」
ロックさんは骨付きチキンを齧りながら説明してくれる。
軍歌はサントラ未収録だったなあ。
「ロックさん。わたしはそろそろ眠りたいのですか……」
「姫さま、お眠? 御寝所まで送っていくよ」
断ろうとしたけど、有無を言わせずエスコートされてしまった。
わたしは寝所に入る。
遠くから華やいだ音色が聞こえてきた。眠りそうになるけど、我慢して目を開いている。
しばらくしてロックさんが去っていく足音がした。
よし。いまなら、オニクス先生もロックさんも、わたしから目を離している。
結界のせいで【透聴】も使えない。
牢獄に行ったって、わたしを見咎める人間はいない。門番だって、このユニタウレ化した下肢を見れば、わたしに逆らうことは無いだろう。
よしんば逆らったところで、一角獣の脚力に勝てる相手はそんなにいない。
わたしは中庭に面した窓から、そっと寝所を抜け出した。
大理石の回廊を走っていく。
不意に、風の血の匂いが混ざった。
暗がりに、衛兵が倒れている。わき腹から血を流して。
腰にさげられていた剣が無い。
わたしは霊視モードにして、索敵する。
柱の陰に人影がひとつ。
帝国からの暗殺者か。戦勝の夜に暗殺者を差し向けてきたか。
いや、違う。
侵入してきた暗殺者だったら、兵士から得物を奪う必要はないんじゃないか?
「カンタシェくん……?」
「気配断ってんのに、よくわかったな」
衛兵の剣を片手に、カンタシェくんが現れた。
「脱獄したならそのまま逃げて。明日、あなたは処刑されるんですよ」
「駄目だ。敵将の首を刎ねてくれば、オレは自由民になれる。自分の人生を買い戻せる」
「あと一ヶ月もすれば、この帝国は砂の下なのに」
わたしの呟きに、カンタシェくんはぎょっと目を見開いた。
「邪神ゼルヴァナ・アカラナ! すべて滅ぼすのか! この都も、信者も、諸共に!」
「すべては歴史です。でも死に絶えるわけじゃありません」
流浪の民として旅する蜂蜜色の膚のひとたち。
あのひとたちは、砂漠の帝国の生き残りだもの。
僅かに残った民の子孫。
「西でも東でもどちらでもいい。砂漠から抜け出せば、生き延びれます」
わたしは路銀を差し出す。
最初に両替して、使っていなかったドラフム銀貨だ。
路銀としてどのくらい持つのか分からないけど、無いよりマシだ。
「いいや。あんたを殺せば、世界の滅びは止まる」
「違ェ! わたしじゃねぇんだよ、帝国を亡ぼすのは!」
叫んだ瞬間、カンタシェくんが倒れる。
倒れたその背後には、闇より夜より深い漆黒が佇んでいた。
「オニクス先生……」




