第十三話(中編) 誰が為の花葬、汝が為の砂牢
「どうして、これが……」
オニクス先生の過去が綴られているラノベ。
一巻は読んだけど、二巻目はまだ未読だった。読むつもりはない。勝手にひとの過去は暴けない。
だけど、なんでこれが現実空間にある?
知らないうちに、意識が魔法空間に沈んだわけじゃない。ロックさんはいる。
「どったの? 姫さま?」
ロックさんから疑問が飛んできたけど、構っている余裕がない。
わたしはラノベを抱えて駆ける。
ヴェールもつけず、大理石の床を砕くほど、急いで駆けた。
「オニクス先生っ!」
「どうした、ヴェールも被らず」
先生は急いで腕を広げ、長衣のなかにわたしを迎え入れてくれた。
ふわりと優しい月下香が漂う。
「これ、先生の過去の」
ラノベを差し出す。
「わたしが読んでない二巻目です。ここは現実空間ですよね」
「ああ」
「内容は先生の過去で間違いないですか? わたしは開いてもいないんですが……」
「読めない」
「悔いているからって、今はとにかく読んで内容を確認してくださいよ」
先生にとっては忌まわしい過去だ。
直視したくないのも分かるが、とにかく確認してほしい。
「違う、物理的に読めん」
開かれたページが突き付けられる。
読めない。
なにこれ、文字化け?
いや、これは神聖文字だ。
わたしは他のページも確認する。すべてのページが神聖文字で綴られている。
「きみの空間の書籍はどうなっている? あの若造はどこだ?」
先生に抱えられて、わたしは寝所に戻る。
ロックさんはまだ廊下にいた。
「敵襲?」
「違うが緊急だ。私たちは今から肉体を留守にする。きみは護衛を!」
わたしたちは寝台に飛び込むと同時に、魔法空間へダイブする。
沈む、沈む、わたしの魔法空間へ沈む。
ゲーム機とディスプレイ、漫画と資料集と同人誌が限界までつまった本棚。そしてお布団。
オタクの小部屋だ。
すぐさま本棚をチェックする。
無い!
一巻と三巻はあるくせに、二巻だけ隙間が出来ている。
「本棚にありません」
ぽすんと、何かが落ちてくる軽い音。
天井からラノベが落ちてきた。
二巻だ。
先生は拾って、ページを捲った。
「中身は読める文字になっているな……と、いうか、自身の魔法空間のアイテムを、きみは、現実に持ち出せるのか?」
……え。
あ、そうだ!
永久回廊で『夢魔の女王』は、玉座の横でゲームしてた。大きなディスプレイにゲーム機。
わたしは将来的に、魔法空間の便利アイテムを出し入れできるようになる?
そんでアイテムを予知に利用しているのか?
「アプデだ!」
「すまんが意味が分からん」
「能力がパワーアップして、出し入れが可能になるんだと思います」
わたしは笑みを装った。
ああ、どんどん『夢魔の女王』に近づいていく。
わたしがたった独りで最果てに座す未来が。
「ミヌレ、現実に浮上するぞ。もう一度できるかやってみてくれ」
「ういうい」
現実空間まで浮上した。
お布団のうえで、わたしは魔法空間のものを出そうとする。
引っ張ってみても、唸ってみても、うんともすんとも言わない。
「全然ダメです」
手ごたえゼロだもの。
「先生も魔法空間をお持ちなんですよね?」
魔法空間。
魔力が強いひとは、魔法空間を持ってるっぽい。クワルツさんも持ってたし。
「私には無理だろう。私の魔法空間は、きみほど安定していない。そもそもきみの魔法空間の安定度と強固さは、類を見ないぞ」
安定度とかよく分からんな。
「さっきは何を思考していた? 魔法は無意識を斟酌する。きみの願いが書籍を現実に引っ張り出した」
「………先生のこと…もっと知っといた方がいいのかなって」
お布団に沈黙が落ちる。
「でも読んでませんからね!」
「分かっている。好奇心より倫理を優先したのだろう。もし先に読んでいたら私に読ませるために、必死の形相で全力疾走してこないだろう。敵襲かと思ったぞ」
分かってくれて嬉しい。
「読まなくて正解だ。あの頃の私は血も涙もない冷酷そのもので、今ほど温和ではなかったからな」
温和……?
「今はきみのいる前では、多少、慈悲深く振舞えている」
慈悲深く……?
なんかちょっと噛み砕き難い単語が飛び込んできたけど、わたしは咀嚼して嚥下して反芻する。
まさかあの魔王状態が、丸くなった状態なのか?
容赦なく敵を討ち、味方にさえ死を命じ、己を庇った相手でさえなにひとつ感情を動かさない。
あれが、まっとうになった状態?
そういえばマアディン・タミーンさんだって言ってたじゃないか。わたしが隣に居ないオニクス先生は、話しかけられないほど怖いって。
冗談じゃなくて、大袈裟でもなくて、本当に慈悲深くなっているってこと? あれで?
では闇の教団の副総帥だった時代は、どれほどの邪悪さだったのだろう。カマユー猊下の狂おしい憎悪でさえ、納得できるほどの存在だったの?
「どうした、ミヌレ」
「いえ、その、マアディン・タミーンさんが………」
「盗掘師が?」
「ええと、持っていたゲーム機。あれも誰かが自分の魔法空間から引っ張り出したものでしょうか。そしたら時代は関係ないです。わたしみたいにオタクライフ系予知をしていた魔法使いが、むかし居て、ゲーム機を現実に引きずり出した」
話題を変えるために、仮説を適当にぶちかました。
でも言いながら、アリな仮説だって思い始めた。オタクライフ系予知してる人間って、わたしが史上初ってわけでもない気がする。過去にいたっておかしくない。
先生の横顔が硬い。
「仮説に致命的な欠陥があります?」
「いや、魔法はいまだ未知の領域。その仮説は考えるに値する」
口調も硬い。
なんだ?
何か一体、問題なんだ?
「……だとしたら、『図書迷宮』にあるエメラルド牌は、過去に存在した『誰か』の空間から生じたのか?」
エクラン王国三大ダンジョンのひとつ『図書迷宮』。
そこに秘められているのは、過去と未来の歴史と技術、すべての知を宿したエメラルド牌だ。
だけど書かれた文字は解読不能。
同じ文字がひとつも出てこない神聖文字によって刻まれている。
「きみが現実空間に引っ張り出した書物が、神聖文字化した。まさか仮想空間にある文章を現実に持ち出すと、神聖文字化するのでは……?」
神聖文字化は文字化けってこと?
読み書きできないわたしが、魔法空間に書籍を作った。
文盲だった頃のわたしに読める文字。
現実で閲覧すると、対応言語が無いから、文字化けして神聖文字になってしまうの?
『図書迷宮』にあるエメラルド牌も、いにしえの魔法使いが魔法空間から出したアイテム?
ばかでかすぎるだろ!
『図書迷宮』は第十二層まで、人類が辿り着いている。
だけどさらに地下に続くと予測されているんだ。
その壁にずっとずっとエメラルド牌が続いている。
地下何キロにも及ぶエメラルドだぞ!
でもあれほどの巨大なエメラルドに、予知魔法使いが一文字一文字彫っていったって考えるより、魔法で出した方がまだ現実味がある………のか?
どっちも非現実的だ。
ふたりで黙り込んで考えていると、ロックさんが壁をノックする。
「旦那。衛兵から伝言だよ」
「なんだ?」
「捕虜に関して」
ロックさんは柔らかい言葉で伝える。
たぶん尋問とかするんだ。
オニクス先生はわたしがいなかったら、慈悲深くならない。きっと尋問は無慈悲なものになるだろう。
なら、わたしは。
わたしが纏っているのは、普段のゼルヴァナ・アカラナの衣装じゃない。頭から地味な被衣を被り、草臥れた靴を履いて、下働き娘みたいな恰好。
久しぶりに人間のかたちで動いているから、心もとないな。
しかも赤葡萄酒がたっぷり入った酒瓶を提げ、水差しまで抱えている。どっちもオリハルコンは含有されてない庶民向けの器。
一角半獣状態じゃないから、この程度でも重く感じるな。
バランスを保ちつつ、手狭な階段を降りていく。
地下牢に続く階段だ。
瀝青じみた闇をくぐり、澱んた匂いを掻き分けて、階段を一段、一段、下りていく。
わたしはレトン監督生のことを思い出していた。
白皙の上級生。己の病弱さに屈せずに、監督生にまでなった。
あれは去年の秋霜月だったか。レトン監督生と遊覧馬車で学院から王都へ行く途中で、何か知らんけど襲撃されたことがある。
――そういうことじゃない。きみは人を殺すつもりか!――
――人を殺すつもりはありませんが、わたしは自分が大事ですので――
レトン監督生の言い分に腹が立った。
わたしは自分が大事。襲撃犯を殺しかけたことに悔いもない。敵のいのちなど惜しくもない。
けど、それでもレトン監督生に対して憤ったのは、なんて幼い感情だったんだろう。
だって襲われた被害者ってのは、レトン監督生だって同じだ。
同じ立場だったんだ。
襲われてなお敵の生命を配慮した信念に対して、わたしは癇癪を起したんだ。
平和な王国ならば、レトン監督生の清冽は平和を繋げるだろう。
砂漠の帝国ならば、オニクス先生の暴虐は敵を退けるだろう。
それぞれに適応する社会があるだけだ。
暗い階段を降りる。
一歩一歩、人間の足で。
だから、先生のやり方に悍ましさを覚えたって、きっとそれはわたしが不慣れなだけだ。
これは心がびっくりしているだけ。
受け入れられるかどうかはさておいて、耐えられない価値観じゃない。
だって、そうじゃなかったら。
――殺すことが最適なら殺せ――
――捕まえることが最適なら捕縛しろ――
――逃がすことが最適なら逃走を促せ――
今まで先生の言葉で歩んできたわたしは、どうすればいいんだ。
いつの間にか階段を降り切っていた。
獣脂の明かりが辛うじて届く壁際で、門番さんが退屈そうにしている。
彼の向こう側に牢獄がひとつ。
正確には牢獄じゃなくて、留置所なんだけどね。大法院で罪を犯した人間を、一時的に入れておく場所。大法院内だから衛生的ではある。
「お役目お疲れ様です。こちらは近衛隊長のロックさまから差し入れですよ」
「こりゃ良い」
お酒の香りを嗅いだ途端、破顔する門番さん。
持ってきた赤葡萄酒は普段、オニクス先生が飲んでるやつだ。最上級品である。
ここが地下牢だって思わせないほど、芳醇な香りが漂う。
「捕虜をもうすぐ尋問するそうなので、水を与えてきます。怪我の具合も診たいので、鍵を開けて頂けますか?」
「おう、気を付けな」
門番は鍵を開けたら、さっそく赤葡萄酒を呷り始めた。
いやいや、見張ってろよ、職務怠慢だぞ。
こっちには都合がいいんだけどね。
暗い暗い牢屋。
あえて窓を塞いでいるせいで、時間の経過が分かりにくい上に、饐えた匂いに満ちてしまっている。希望が一滴もない空間だ。ひとの精神を削る。
少年がいた。
大広間に突入してきたときは勇者みたいな威勢だったけど、いまは傷だらけの手足を縛られて、地べたに転がされている。
まずは霊視して変なものがないか安全確認。
「お水ですよ」
わたしの囁きに、少年は僅かに首を横に振る。
「せめて唇を濡らすだけでも、お飲みください」
「いやだ。みんな死んじまった。マルワの姐ちゃんも、オーバールのおっちゃんも、サハムの兄ちゃんも、ネギーンばあちゃんも……」
「あなたは生きてます」
「それが、なんだよ……なんだっていうんだよ………オレひとりがおめおめと生き残っても……」
「泣き言は赤ん坊の仕事ですよ」
わたしはびしゃりと言い放った。
味方をすべて失った同世代に対して手厳しいかもしれんけど、この男の子はオニクス先生を殺しにきたんだ。
それなりの覚悟を貫いてもらわんとな。
「生き残って大法院を脱すれば、お味方にあの蛇蝎の強さを報告することが出来ます。屈したら敗北が真実になってしまいますよ。敗北したって、まだこれは真の敗北じゃありません」
わたしの囁きに、少年は顔を上げる。
廊下から差し込む僅かな光に、彼の瞳が照らされた。
整った顔立ちに光る瞳は、赤と黒。
いや、血と闇だ。
「今夜は酒盛りになります。鍵は閉まらないように細工しておきます。すべてが寝静まった頃に、わたしが抜け道をご案内致します」
何も言わない彼に水を飲ませて、薄暗いばかりの牢屋を出た。