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第十話 (後編) 熱砂の祈りたち


 

 ゼルヴァナ・アカラナの絵姿が完成して、除幕式が執り行われる日がやってきた。

 檸檬色のドレスを纏って、空飛ぶ絨毯で進む。オニクス先生が先導して、ロックさんが横で護衛し、女奴隷たちが後ろで静々と付き従っている。 

「あの……まだ前廷から離れている回廊なのに、この時点ですごい歓声が聞こえてくるんですが……」

「そりゃ除幕式だからね」

 ロックさんが肩を竦める。

 にしても歓声が質量を持っている。普段よりひとが殺到するだろうなって覚悟していたけど、ほんとに多すぎやしないか?

 わたしが姿を現すと、歓声が津波のように襲い掛かってきた。割れんばかりの歓声だ。もう信者さんたち、前廷に入れ切れていないぞ。門の外までぎゅうぎゅう詰めじゃないか。

「先生。この信者さんたち、ほんとにどっから湧いてきたんですか?」

「きみの降臨した噂が広まって、帝国の辺境からも集まってきている。遠路はるばる、ゼルヴァナ・アカラナの救いを信じてやってきたのだ。この砂粒じみた民草すべて、きみの信者だ」

 楽師のおじいさんみたいに、遠方はるばるやってきたのか。

 大きな絵姿が、祭壇に掲げられている。

 黒い楕円枠のなかに、ゼルヴァナ・アカラナが描かれていた。

 祭壇の下には貢物が輝いていた。

 夢孔雀シームルグの羽根は透明に輝き、不死鳥フェニックスの羽根は燃え盛るように煌めいている。マンティコアから剥いだ皮、伽羅に白檀、それから象牙に珊瑚。

 しかもお宝を乗せているのが、オリハルコンの大皿だぞ。わたしの湯舟にできるくらいのサイズなのに、この光沢からして純度が高い。あれがいちばんのお宝だ。

「さあ」

 先生に手を取られ、わたしは花飾られている祭壇に誘われる。

 歓声の大津波が押し寄せてきた。

 わたしへ献じられる花々。

 わたしへ捧げられる賛美。

 先生は微笑んでいた。

「ゼルヴァナ・アカラナ。さあ、信者のために、きみの可愛い指先で花のひとつも投げてやるといい」

 わたしが花を投じる。

 その瞬間、先生が唱えておいた【浮遊】と【飛翔】で、花たちが一斉に空へと舞い上がる。

 まるで花の雨。

 花びらと雫が降り注ぐ中、信者さんたちは狂ったように手を上げ叫び、花を求める。

 降りやまない花。

 あとからあとから降り注ぎ、絶えることを知らないように舞い上がる。

 先生はどれほど花びらをしこんでおいたんだ?

 薔薇の花びら、ジャスミンの花びら、檸檬の花びら、ハニーサックルの花びら、それからわたしの知らない花たちが無限に空を舞う。 

 地平の彼方まで花が舞い、陪都ダマスカスを埋め尽くすほどだった。

 砂漠ではなく、花園になったみたい。

「すごい。あんな遠くまで花びらが………どうやって範囲効果を広げているんですか?」

「ペガサスの羽根から作った錬金薬で、風の加護を強めている。怪盗の名前を騙ったときもやったが、あれはグリフォンでな、ペガサスの羽根で作ると静かだな」

 偽予告状を振りまいた件か。

 クワルツさんガチギレ事件な。

 ………怪盗クワルツ・ド・ロッシュ。

「飛んでもいいでしょうか?」

「好きにするがいい。きみがここの女王なのだから」

 わたしは【飛翔】を唱えて、花舞い散る青空へと翔けあがる。

 ヴェールを棚引かせ、大法院の外周を大きく一周した。

 門前どころか大通りまで埋め尽くすほどに、信者さんたちが詰めかけているみたいだ。あちらにも手を振っておこう。

 後部座席へのファンサも大事だろ。

 もっと彼方まで翔けたいけど、一応わたし、除幕式の主役だしな。

 祭壇の不在が長いと、白けちゃうね。

 わたしは花と戯れながら、大法院の祭壇に戻ることにした。


「んっ?」


 はるか彼方の大通りから、砂埃が立っている。

 駱駝か羊の大群でも暴走しているのかな。せっかく花と水を降らせているのに、空気が悪くなっちゃうじゃないか。

 わたしは花びら纏いながら【飛翔】する。

 大きな駱駝が一頭、土ぼこりを上げて駆けていた。このスピードで混雑に突っ込んだら、死人のひとりやふたりじゃ済まねぇぞ。

 っていうか跨ってんの、マアディン・タミーンさんじゃん。何してんだよ!

「ああっ、ゼルヴァナ・アカラナ姫! こんちこれまた、お日柄もよろしゅうござんすな」

 暴走駱駝の上で手を振る。

「なにやってんですか?」

「率直に申し上げるなら、遺跡に忍び込んだのが見つかって、宰相の手下たちに追われてる最中でござんすよ。いやはや振り切ろうにも、相手も死に物狂いで追いかけてきやしてねえ」

 真面目に働いた結果がこれなら、叱咤するわけにはいかない。

「わたしが防ぎますから、スピード緩めて下さい。この先、とんでもない人込みなんですから!」

「ゼルヴァナ・アカラナ姫のご加護たぁ、ありがたい」

 護符を博打で流したひとの発言だと思うと、すっげー白々しいな。

 突っ込んでる暇はない。

 すぐに追っ手がやってきた。

 何頭もの駱駝が連なって駆けてきている。

 一見して野盗だ。砂埃に負けぬように、顔をターバンでぐるぐるまきまきしている。片手で手綱を引き、もう片手にはむき出しな三日月刀。

 街のひとたちは悲鳴を上げながらも、なんとか通りの脇に逃げていく。

 だけどこれ以上先は、式典に集まった信者さんたちでごった返している。突っ込ませるわけにはいかない。

 

「無礼者!」


 肺腑すべての空気を使って、声を絞り出した。

 わたしはゼルヴァナ・アカラナとして、ここにいるのだ。

 街のひとたちや信者さんたちの目の前なんだから、女王として威厳ある振る舞いをしなければいけない。


「止まりなさい! ゼルヴァナ・アカラナの式典で狼藉を働くとは、いかな了見です!」


 追っ手はわたしを見上げて、なにか叫んでいた。

 防塵布で顔を覆っているから、喋っている内容、分かりづらいぞ。

 だが駱駝は走り続ける。

 よし、警告しても突っ走ってくるなら、わたしがなにをしようが完璧に正当防衛である。


「我は風の恩恵に感謝するがゆえに、さらに纏うことを求む」


 呪文を唱え、【飛翔】を紡ぐ。 

 【飛翔】は直接、敵にかけるの向かないんだよな。

 発動にタイムラグがあるからだ。

 不意打ちかけるなら可能だけど、あんな猛スピードで駆けてくる相手には掛けられない。

 だから展開先は、この空間にあるすべての花びら。

 花には先生が【浮遊】を掛けている。 


「飛べよ、翼在るがごとくに、雲得た如くに 【飛翔】」


 大地の加護を断ち切られた花びらは、風の加護だけに従って舞い、狂い、荒れ吹雪く。

 無数の花びらが嵐になって、追っ手を包み込む。

 まず煙幕代わりの目隠し。


 花びらが嵐になってく。

 いや、津波だ。

 目暗まししようと思ったけど、思った以上に花びらが多い。

 この質量は完全に物理攻撃である。

 

 呻きやどよめきと一緒に、花の大津波で追っ手が鞍から落ちていく。


 オーバーキルしたかな?

 この速度で地面に落ちたら、死ぬぞ。

 まずい。

 殺すべき時じゃないのに殺すとか、能力の制御と判断力が欠けているってことだ。

 全滅してたら、先生と顔を合わしづらい。


 一瞬、冷や汗が噴出したけど、大量の花びらがクッションになってくれた。

 結果オーライか。 


「ねえ、姫さま。なにやってんの?」


 ロックさんの声が後ろから聞こえてきた。

 追ってきたの?

 あの大法院周りの大混雑を越えられたの?

 どこにいるのかと視線を彷徨わせれば、ロックさんは空中にふわりと浮かんでいた。【浮遊】を先生に掛けてもらって、砂岩の屋根を蹴って進んできたのか。

「ねえねえ、マアディン・タミーン。ちょっと引っ張ってくんない?」

「お安い御用でさ」

 マアディン・タミーンさんが腰のロープを解いて、ロックさんへと真っすぐ放つ。

 ロックさんはロープを掴み、引っ張られて大通りへと着地した。大きく翻ったキビシス織りのマントを抱え、【浮遊】が掛けられた状態で地面に立つ。

 すっかり【浮遊】を掛けられ慣れてるな。

「状況よく分かんないけど」

「あっしがご説明いたしやす」

「だったら、あとはおれが何とかするよ。姫さまはそろそろ祭壇に戻ってくれって、旦那が」

「ありがとうございます」

 わたしは【飛翔】して、大法院へと戻る。

 雑踏の上空をゆっくり旋回したり、大きく跳ね跳んだりして、祭壇へと着地した。

 花まみれの祭壇で、わたしは集まっている信者さんたちに手を振る。

「姿が見えなくなっていたが、なにをしていた?」

 先生が影のように寄り添ってくる。

 わたしは信者さんたちに手を振りながら、微かに唇を開いた。

「マアディン・タミーンさんが戻ってきていました。宰相の配下の方々に追われていたようなので、もしかしたら興味深い手土産があるかもしれません」

「今度は真面目に仕事をしたか」

「博打したのだって、情報収集のためかもしれないじゃないですか」

 わたしのフォローに対して、先生は露骨に顔を顰めてきた。

「なおさら悪い。情報を集めているのが、ゼルヴァナ・アカラナの信者だと吹聴しているのだからな」

 それは確かに一理ある。

 反論できなかったので、わたしはにこやかに手を振る作業を続けた。

 熱砂じみた祈りは加速していく。

 見渡す限り、熱狂の渦が広がっていた。

 生半可な覚悟で吸えば、喉が焼ける、肺が爛れる。まるで熱砂。地獄の熱砂。

 これがいつ、怨嗟の石と嘲笑の礫に変わってもおかしくない。

 わたしは知ってる。

 エクラン王国の民衆がクワルツさんへした仕打ちを。

 怪盗クワルツ・ド・ロッシュが活躍しているときは褒め称えていたのに、サフィールさまに捕まった途端に物笑いにした。『引かれ者の小唄亭』で歌われていた嘲りを、忘れることは出来ない。

 残酷な手のひら返しに、わたしのはらわたが煮えくり返った。

 大衆の気まぐれさ。

 でもクワルツさんとオンブルさんはそれさえ承知で、怪盗をしていたんだ。

 だからわたしもゼルヴァナ・アカラナとして砂漠を歩いていくなら、覚悟しなければ。

 この祈りがすべてが、怨嗟に変わることを。

 




 盛大な除幕式が終わった。

 檸檬色の月が照らしているのは、後夜祭だ。

 あちこちで美酒が振舞われているのか、夜風は仄かに酩酊していた。

「近衛隊長、きみは衛兵たちに祝い酒を振舞ってくれ。警備が弛緩せんように手綱を引いた上でな」

「おれ酔えないじゃん」

 不満そうだけどロックさんは、素直に聞いてくれた。

「他の者たちももういい、下がれ。ゼルヴァナ・アカラナの供回りは私一人で十分だ」

 女奴隷たちも下がった。

 わたしたちは外廷から奥へと赴く。

 回廊の半ばで、先生が立ち止まった。

 どうしたんだろ?

 先生は庭先にある茂みを睨みつけていた。良い香りのする灌木が、月明りを浴びているだけだ。

 霊視モードに切り替えれば、茂みには人影がひとつ。

「盗掘師。さっきからこそこそ様子を窺っているのは、分かっている」

「こんちこれまた相変わらずのご慧眼で。閣下」

 茂みから現れたのは、マアディン・タミーンさんだった。のそのそと這いずって出てくる。

「頂いた護符を散じちまったのは、そりゃお怒りごもっとも、申し訳ございませんがね、このマアディン・タミーンはきちんと働きましたよ」

「その件はもういい」

 先生は何かを払いのける様に手を振る。ひどく素っ気ない態度だ。

「あれに類する遺物が見つかったのか?」

「そうお急ぎなさんなって。結果としちゃ見つからなかったんでさ」

「ほお?」

 静かだが威圧的な呟きだった。

「遺跡の警備が厳しいってもんじゃないんでさ。宰相閣下直々の飛行騎兵が巡回しておりやしてね。こいつは相当なお宝が見つかったって噂ですよ」

「相当なもの、か」

「あっしの馴染みが小耳に挟んだところにゃ、ヴリルの銀環ってものが見つかっ……」

「ヴリルの銀環だとっ!」

 先生の裂帛が轟いた。

 黒い隻眼が僅かに色あせて、マアディン・タミーンさんを凝視している。

「それは本当なのか?」

「へい。馴染みの同業者と、親の代からの付き合いがある故買屋、どっちからも聞きやした」  

「ヴリルの銀環が……存在したのか」

 呆然としているけど、そのアイテムは初耳だぞ。

 攻略本にも載ってない。

 先生がここまで動揺するアイテムって……?

「背の君。そのアイテム、初耳ですよ」

 声をかけると、先生はゆっくりと、ことさらにゆっくりと、視線をわたしへ向けた。

「アトランティス伝説のひとつだ。言い伝えに残っているだけで、実在も定かではなかった。アトランティスの叡智マシュ=マックの力を具象化したものらしい。その力を解放すれば、物質界すべて解体し、あまたの精霊を従え、あらゆる時空間を超越できる。そう伝わっている」

「そんなびっくりチートアイテムが存在するんですか?」

 あらゆる時空間を超越?

 もしその伝説が真実だったら、わたしたちが喉から手が出る程、求めてやまないアイテムだ。

「ヴリルの銀環について、詳しい情報があれば頼む。最優先だ。金に糸目はつけん。なんだったら私の名前で人を使っても構わん」

「承知しやした。宰相関連は手ごわいんですが、閣下からそこまで采配を許された以上、この卑しいマアディン・タミーンは命がけで働かせていただきやしょう」

「ついてきたまえ。必要経費を用意する。また護符も与えるが、次は賭博のカタにするな」

 図書館の閲覧室だ。

 ここが先生の執務室にもなっている。

 棚の鍵を開けて、金貨や護符を出していく。

 マアディン・タミーンさんが微かに笑った。

「蛇蝎の閣下も、姫とご一緒だと人間味がありやすな」

「……そうなんですか?」

 わたしと一緒にいないときのオニクス先生って、わたし、分かんないものな。

「姫がいないときの閣下に奏上なんて、とてもとても。この矮小なマアディン・タミーンは、恐ろしさのあまり言葉も出ませんぜ」

 へらへらとだらし無く緩んだ口許から、冗談を垂れ流す。

 初対面であれだけ先生と会話できたひとが、今更なに謙遜しているんだ。

 わたしは衣装の裾を引く。檸檬色の綺麗な絹が、ふわふわと揺れた。

「レモン」

「へい、なんざんしょ?」

「蛇のから揚げってレモンかけると、美味しく食べられるの。わたしは先生のレモンなのかしら?」

「そうですな。姫さんは蛇のレモンですな」

 それなら嬉しい。

 レモンってささやかだけど、あるとないとじゃ雲泥の差だもの。

「マアディン・タミーンさんは、どうしてわたしを信仰しているの?」

 このひとにも聞いてみたかった。

「お許しを。嘘だろうが本音だろうが、罰が当たりそうですからね」

「罰なんて当てませんよ。ただ正直な祈りが聞きたいだけです」

「確かにゼルヴァナ・アカラナさまはお優しい。普通の女主人だったら、あの厚かましいザルリンドフトに鞭のひとつでもくれてやるところでさ」

「悍ましいことを言うんですね」

 わたしの脳裏に過る、オニクス先生の背中。

 刻み込まれた鞭の跡を思い出すたび、わたしはわたしから生まれた苛立ちに、手荒く引っかかれる。

 人間が人間を鞭打つなんて、許されない。

 それは人間への接し方じゃない。

 家畜への接し方だ。

「ヒャハハッ、ほんとうにお優しいこって」

「真実、そう思っているなら、わたしを信仰している理由を教えて下さい」

 目を合わせ、問う。

 一拍の沈黙の後、マアディン・タミーンさんはひび割れ乾いた唇を笑ませるように開いた。

「そりゃ分の悪い博打だからでさ」 

 マアディン・タミーンさんは笑いながら立ち上がる。自分の笑いに振り回されるように、姿勢の悪い身体をふらつかせていた。足元はふらふらふらりと定まらないのに、金眼銀眼の視点はわたしから外さない。

「この帝国でゼルヴァナ・アカラナなんて異端を信奉するなんて、まったく分の悪い博打ですよ。この愚かなマアディン・タミーンは、勝てない博打だけが好きでね」

「勝てる博打はだめなの?」

「ヒャハハッ。だって退屈ざんしょ。勝てる博打をするくらいなら、自殺した方がまだ愉快でさ」  

 理解も共感もできない。

 マアディン・タミーンさんにとって、勝てない賭けこそが生きてるってことなんだろうか。

 金貨と護符を渡されて、マアディン・タミーンさんは夜へと消える。

 さて、そろそろ休めるかな?

「ゼルヴァナ・アカラナ。休む前に、謁見を」

「ハァ?」

 思わず呻いちゃった。

「前々から予定に入っていたなら兎も角、いまから休もうって時に言う台詞ですか?」

「仕方あるまい。容体が安定したのは昼過ぎだ」

 容体? 

 病み上がりで、わたしに謁見?

「もしかして………楽師のおじいさんですか」

「察しがいい。連れてくる」

 小姓に介添えされながらやってきたのは、楽師のおじいさんだった。

 背中はひどく曲がったままだけど、血色は良くなっていた。

 よかった、回復したんだ。

 身に通しているものは真新しい衣に、ゆったりとした長衣。濃く染められて刺繍が散らばった長衣は、天の川みたいに光がさんざめいている。宮廷楽師みたい。

 小姓が杖代わりになって、おじいさんは恭しくわたしの前に跪いた。

「畏まらないでください。お具合はもう大丈夫ですか?」

「ええ、もったいないほどの手厚い看護に感謝しております」

 皺だらけの顔が綻ぶ。

「ゼルヴァナ・アカラナ。きみが望むなら、老楽師どのをお抱え楽師として一室与えようと思う。老楽師どのは状況的にも身体的にも、密偵の可能性は限りなく低い」

 わたしがゼルヴァナ・アカラナって称する前に偶然会って、偶然再会したおじいさんだもの。

 三度目に会った時には、脱水か熱中症で死にかけていた。わたしが眠れずに夜に飛び出したから救護できただけで、あのままだった命に関わっていたもの。

 密偵って線はゼロ。

 完全に安心できる相手だ。

「わたしのために奏でて頂けるんですか?」

「はい。この楽師ナハル・アル・ハリーブ。もしお許しいただけるならば、いと尊き姫君に楽を献上する栄誉をお与えくださいませ」

「お体の調子がよろしかったら、さっそく奏でて頂きたいです」 

 わたしは音楽を奏でてもらう。

 しわがれた指先が弦を愛撫すれば、星雫めいた音が散らばっていった。

 空のお星さまが音楽になって、地上に落ちてくるみたい。

 ゼルヴァナ・アカラナのためじゃなくて、わたしのためだけの音楽だ。

 生演奏は、やっぱり最高……っ!

 心地よい音楽を浴しながら、わたしはクッションに凭れる。先生は執務机で書き物をし始めた。

 いくつめかの曲が終わった後、問うために唇を開く。

「おじいさんはわたしに何を祈ります?」

「感謝を。この指がまた音楽を奏でられることに、ここで新しい音楽を学べることに、感謝をしております」

 夜陰に優雅な衣擦れが混ざった。

 シッカさんがやってくる。

「閣下。お探しの文献が届きました。閲覧室に運ぶには損傷が激しいので、ご覧になるには修繕後でよろしいでしょうか」

「どのくらいの状態か、私が確認する。きみは近衛隊長から、護衛をひとりこちらへ回すように言付けておいてくれ」

 オニクス先生はシッカさんと連れ立って、去っていった。

 式典が終わったのに、ゆっくりする暇もないのか。

「もしやあの玲瓏なお声は……後宮祐筆のシッカさまでしょうか」

「シッカさんとお知り合いなの?」

「面識があろうはずございません。ただ後宮の手前で、一度だけお声を聴いたことがあるので……どうして陪都に?」

「さあ? でも、そうですね。宦官なんだから、後宮にいるものなのに」

 宦官っていう役職が、どういうものか知らないわけじゃない。

 エクラン王国みたいに歌唱のためじゃなくて、後宮の浮気防止のためにそうされたひとたち。

 手術の死亡率を考えれば、エクラン王国みたいに女官を雇えばいいと思う。

 だけどこの帝国の考えって、たくさん産んでたくさん消費しちゃえって感じなのか?

 いのちがすごく安いぞ。

「シッカさまは筆致が当代一と名高い方ですから、写本にいらしたのでしょうか……?」

 おじいさんが仮説を口にしてくれる。

 この時代だと印刷がないものね。

 字を書くのが上手なひとが、一文字一文字、写していくしかない。

 帝都からここまで出張して、騒動に巻き込まれたら不運すぎる。

 いや、でもシッカさんってゼルヴァナ・アカラナの教義を解釈するくらい信者だよな。

「あのかたは帝都では冷遇されていたの?」

「まさか。能筆と名を馳せ、後宮で重んじられていた方です。少なくともこのジジィが下級楽師として宮中に参内していたころには、最も有望な若手の宦官奴隷でいらっしゃった。いと優れたる宰相の覚え目出度い方で、ゆくゆくは宦官長となられるかもしれない方でしたよ」

 宦官長って、後宮でいちばん偉いのかな?

 どのくらいの偉さかなのか分かんないけど、宰相の覚えが良いってのはすごいことだって分かる。

「……では、なにか変わってしまったんでしょうか」


 シッカさんの祈り。

 絶対の涅槃、永遠の静寂。すべてが虚無に還ること。

 あれが上っ面だとは思えなかった。

  

 帝都の後宮で何かあって、シッカさんはゼルヴァナ・アカラナへ傾倒したの?



 祈り。

 ひとの祈り。

 ひとりひとり祈りを聞いたところで、結局、心の奥にある願いは分からないかもしれない。


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