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第十話 (中編) 熱砂の祈りたち



「ぅへへへ」

 今日は一日、ずっと楽しみにしていたのだ。先生とのお茶会デート。

 口許が緩みっぱなしだ。

 参詣が終わってから、デートのために真新しい衣装に袖を通す。

 檸檬色のドレスだ。

 白に近い銀の刺繍糸が施されているから、生地が揺れるたびに、銀の光の雫が飛び散って綺麗。それに裾にオリハルコン糸が刺繍されているから、ふわふわしてるの。物理無視して、ふわっふわ。

 きらきらするし、ふわふわするし、歩くだけで心躍る衣装だ。

 この衣装でお散歩したら楽しいぞ。

 わたしは夏用の宮廷内離宮へ赴く。

 夏のいちばん暑い日のためにしつらえられているから、居間も支柱に取り囲まれているだけで、水の音色や風がいっぱい入ってくる。自然の涼しさに満ちた空間だ。

 椅子もテーブルもみんな大理石。壁のタイルはすべて青と白。

 とにかく涼しげなの。

 まだ夏の盛りじゃないから、薄い紗が垂らされて風除けになっている。木漏れ日を映して翻る紗は、いのちあるステンドグラスみたい。手を伸ばして踊りたくなってくる。

 日当たりのいいところで待っていたのは、シッカさんだった。 

 茶道具を用意している。

 しゅんしゅんとお湯が歌う銀のヤカンに、東方陶磁器のティーセット。藍染の上品な陶磁器に、大量の珊瑚やターコイズがデコられていて、おまけにオリハルコン箔で輝かされている。ちょっとこれは悪趣味だ。

 一輪挿しのチューリップは清楚なんだけどね。

 果物皿の上には、乾燥させないためか刺繍の絹が掛けられている。

「この果物はなんでしょう?」

「姫君の食卓に供するに相応しい異国の果実でございます」

 刺繍の絹が取り払われる。

「林檎でございます」

 誇らしげに登場したのは、真っ赤な果実。

 林檎。

 レネットの実とかラリアンの実とかの総称のことである。エクラン王国だと普通、フロリーナの実とかルビネットの実とかボスコップの実とか、パット・ドゥ・ルーの実とか品種ごとに呼ぶ。

 だってシチューに入れる用と、お酒造る用と、タルトに使う用って、全然違う。あとは生食用とか、野生種とか、ジャムに半分入れて固まりやすくするための品種とか。

 それぞれ利用法も保存期間も実る時期も違うから、林檎ってひとまとめに呼ぶのは乱暴すぎる。

 でも砂漠の帝国じゃ育たないもんな。

 ぜんぶざっくり林檎って呼ぶのか。不思議。

 この林檎は遠方から遥々、キャラバンの駱駝に揺られてやってきたのだろう。輸送費いくらなんだ?

「林檎もいいんですけど、スイカが欲しいです」

「庶民が水代わりに食べるものでございますよ」

「いいの。スイカも運ばせて下さい」

 赤の果実だったら、遠くから運ばれてきた林檎より、新鮮なスイカの方が先生に喜ばれるに決まっている。

 水盆にスイカ丸ごと運ばれてくる。

 よしよし、先生の大好物も揃ったし、素敵なティータイムの予感。

 でも肝心のオニクス先生は影も形もない。

「姫君。蛇蝎の閣下は隊長たちとの打ち合わせを終えたら、茶席にいらしゃるそうです」

 警備の会議かな。

 早くお茶会したいけど、それより過労が心配だ。先生は治安と警備から研究までやってるから、そろそろ過労じゃね?

 先生、お昼寝しちゃうかな。

 こんな素敵な天気のお庭で、お昼寝する先生と、それを見守るわたし。

 ふへへ、それはそれでロマンチックなひとときだよね。

「お召しになっている霓裳羽衣、姫君によくお似合いでございます。青と白の離宮に、その檸檬色は目映いばかりございます」

 賞賛を紡ぎながら、シッカさんは気品ある所作でお茶を淹れる。

 シッカさんは地味な衣装。だけど品格は格上って感じ。給仕されているだけで、背筋が伸びる。

 お茶が注がれると、涼風に花の香りが混ざった。ジャスミンティーだ。

 この世界はミント茶ばっかだけど、わたしはジャスミンティーの方が好きなんだよね。それにシッカさんの淹れるお茶って、色合いから香りから味に至るまで、ディアモンさんにそっくりなんだもの。

 立ち居振る舞いが似ていると、淹れるお茶の味も似るのかな?

 目を瞑って味わうと、ディアモンさんのアトリエにいるみたいだった。

「シッカさんのジャスミンティーって、すっごく美味しいですね。コツがあるんですか?」

「お気に召して頂けて幸いですが、取り立てコツはございません。ただ必ず乾燥期の花を使ったものを選ぶこと、沸騰してから程よく冷ましたお湯にすること、蒸らし時間を守ること。この程度でございます」

 めちゃくちゃコツがあるじゃねーか。

 程よく冷ますって、その温度はかなりのコツだぞ。本人は無意識でやってるんだろうけど。

 ジャスミンティーをお代わりを頼む。

 先生が来ないから、間が持たない。

「シッカさんは……来世で望むことはある?」

「その望みは叶うのですか?」

 問いかけは静かで、あんまりにも静かで、わたしは言葉を返せなかった。

「姫君は、『醜き過去を喰らいて、美しき未来を齎さん。世界と魂を等しく生まれ変わらせし時間超越神』でございます。ゆえに奴隷女たちは来世で、身分の高い殿方に嫁ぐことや、戦士になることを夢見ています。ですが、そうではないのですね。美しいは世界にかかっている形容で、魂は生まれ変わるのみ」

 なるほど。

「等しい、とは如何なる意味かと思案したことがございます。報われぬ民たちは現世で報われぬからこそ、来世は報われると信じております。ですが神から賜る等しさとは、すべてが無に帰する、いえ、涅槃という完全な静寂に至るのだとわたくしめは解釈しました……その解釈で宜しいでしょうか?」

 わたしは何も言えなかった。

 だってわたし知らないもの。

 自分の力を何も知らない。

 沈黙を肯定だと受け取ったのか、シッカさんは言葉を続ける。 

「結婚制度も奴隷制度も、すべてが無に帰していく。男女の別もない、生者と死者の別もない、平等なる涅槃。完全な平穏。姫君はそれを創られるのですね。歓天喜地もなく、愁苦辛勤もない。涅槃へ赴くために帝国が亡びるというなら、わたくしめは摂理として受け入れましょう」

「……」

 そこまでまっ平にする予定はなくてすみません。



 水を含んだ風は重たく、木々が大きく揺れる。

 木陰が重なって翳が深まったところから、誰かが飛び出してきた。

 盗掘師のマアディン・タミーンさんだ。

「ふへっ?」

 なんでいるんだ?

 いや、雇ってるんだからいてもおかしくないんだけど、なんで上半身裸なんだ。

 青白い膚で、肋骨が浮き出ている。病人じみた体躯だ。

「なんで裸なんですか?」

「当てたらお答えいたしますよ」

 へらへらと笑う。

 マアディン・タミーンさんの瞳は、金と銀。だけど日差しに照らされているせいか、金眼だけが妙に輝きが強かった。

「仮説がみっつほど浮かんだんですが、とりあえず全部口にしていいですかね?」

「ぜひともお聞きしたいが、追っ手が迫っているみたいなんで、そいつはいずれまたの機会に」

 そのまま灌木の陰に飛び込んで、隠れて、どこかに去っていった。

 追っ手?

 一拍遅れて、オニクス先生がやってきた。

「あの盗掘師はどこだ?」

 微かに怒気を孕んだ問いかけだ。

 オニクス先生が追っ手か。

「マアディン・タミーンさんなら逃げていっちゃいましたけど、なにかやらかしたんですか?」

「きみの作った護符を、博打のカタにしたのだ!」

「あらま」

 マアディン・タミーンさんにも、【水】と【光】、それから石化を防ぐ【耐土】を装備済みである。

 パーティーメンバーの装備品を整えるのは義務だけど、それを勝手に外されると参っちゃうな。

「下賜されたものを賭けるとはどういう了見だ! 護符はゼルヴァナ・アカラナの役に立った信者のみという触れ込みで、下賜しているのだ。服をいくら賭けようが構わんが、護符の値打ちを下げる振る舞いは許されん」  

 先生は辺りをうろうろ探し回ったけど、溜息をひとつ吐き捨てて戻ってきた。

「私も国王からの下賜品を、宮廷賭博で流したことがあるがな」

 あるんかい。

「いっそ護符を埋め込んでやろうか」

「埋め込めないんですか?」

「護符を義歯に加工して、口内に埋め込む実験をしたことがある」

「ディアモンさんから聞いたことあります」

 正気のまま閲覧できる研究だって言ってた。

「ああ。いろいろと埋め込んでみたが、後天的に経絡が増えてしまうせいで、負荷が生じる。人間の体内に埋め込める符は、象牙や真珠などの生命宝石かつ、獣属性魔術。さらに肉体が大きく損傷している場合のみだな」

 後天的に経絡が増えてしまう現象が、肉体損傷してる時には回復に繋がるのか。

 わたしは薄っぺらい胸に触れる。

 この胸の下で鼓動しているのは、心臓じゃない。

 【一角獣化】の呪符。

 いつか訪れる未来に、過去のわたしによって奪われるもの。

「あの盗掘師は一流の盗っ人だ。気配と痕跡を消すのは巧いものだな」

 憤然と言い放ちつつも、マアディン・タミーンさん探しを諦めたらしい。大理石の椅子に腰を下ろす。

 シッカさんがジャスミンティーを淹れ、空気が上っ面だけでも和らぐ。

「私が呼ぶまでひとはいらん。久しぶりに妻とくつろぐ。誰も近づかんようにしてくれ」

 命令されて、シッカさんが下がる。

 ふたりっきりの時間と空間になった。

 わたしは微笑む。

「先生、時魔術の研究はいかがでしょうか」

「ようやく文献に一通り目を通し、蘆ペンにも慣れてきたころだ」

 文字と筆記用具が違う世界だもんなあ。

 研究の進みも悪そうだ。

「今のところ詠唱から、術式解析する方向性で研究を進めている。オプシディエンヌの唱えていた術だが、あれは完全に制御を放棄しているな。時間は普遍的に存在するが、それを御そうとすると困難だ。元の時代に戻るのに役に立たん」

 スイカを切りながら語る。

「きみの教えてくれた【時間遡行】から組み立てるのが、いちばん良さそうだ。色彩言語によって織られた布や、螺旋貝の化石を献上するように要請している」

「なんだかんだ言って、順調そうですね」 

「当然だ。予算の限界だの、査読義務だの、論文の締め切りだの無ければ、私の研究に滞りはない」

 傲慢のお手本みたいな口調だ。

 ま、過去に飛ばされてる状況だと、傲慢でいてくれた方が頼もしく感じる。

「きみは暢気に参詣されているといい。ただ間男だけは作るな。ゼルヴァナ・アカラナの伴侶という地位があるからこそ、私は命令を下せるのだからな」

 …………へえ。

 冗談でも本気でも聞き捨てならんぞ。

「ところで先生へ美女や美青年が献上されたって、今日、はじめて伺いました」

 わたしの問いかけに、先生はスイカを食べる手を止めた。

「断ったぞ」

「わたしは献上されたことも断ったことも、知らんのですが」

「きみの耳を穢す話題を振るつもりはない」

「わたしの耳を穢すような理由で献上されたのは分かりました」

「私は蜂蜜色の乳房の女には、いや、美少年でも近づかんぞ」

「知っています」

 わたしの素っ気ない返事に、先生はますます渋面を作った。

 黙ったまま、風で乱れた黒髪を整える。耳朶に飾られている黒緑の石が、木漏れ日を反射させた。透輝石ダイオプサイト、【透聴】の呪符だ。

「ああ、来たようだな」

 傍らに置いていたヴェールを被せられた。

 ほへ? ふたりっきりなら、ヴェール必要ないやん。

「きみに会わせたい人間がいる」

「はひ?」

 先生が手を鋭く打つと、木陰から誰か進み出てきた。

 初めて見たおじいさんだ。大理石の床の一段下で、深く跪く。

 けっこう年配だけど背筋はしゃんと伸びていて、動きが機敏だった。矍鑠としている。

 それからやや後ろには、屈強な若い男のひとがふたり。

「盗賊団の頭目と、その懐刀だ。きみの信者だというので、目通りを許した」

 えええっ?

 お茶会デートじゃなかった!

 わたし、お茶会デートだと思ってたのに、謁見スケジュールぶち込まれていた!

 お仕事じゃん!

 これ、ゼルヴァナ・アカラナのお仕事じゃん! 泣くぞ!

「面を上げることを許すか?」

「どうぞ」

 わたしの一言に、彼らは顔を上げた。

 おじいさんの瞳は黄ばんで濁っている。眼病かな。

 憐憫が湧く。

 わたしも子供ころも、頼りない視力しかなかったから。

 おじいさんは眼病みだけど、付き従っている屈強な男のひとは、眼差しも視力も鋭いようだった。わたしの下肢に視点がいく。

「絵姿と、ちがう……?」

 不思議そうな声だった。

 絵姿か。

 以前、ディアモンさんのアトリエで見たな。

 古い文献に描かれていたゼルヴァナ・アカラナの絵姿。

 一角獣の前脚までは同じだけど、女王ゼルヴァナ・アカラナは後ろ足がイルカ状態になっている。神話の怪物みたいな姿だ。

「あれはわたしの遥かなる未来の姿。永遠に続く回廊の終局地。今のわたしは、女王ゼルヴァナ・アカラナに至らぬ夢みる胚芽です。いまだ女王には達していません」

 わたしの語る声に、屈強な男のひとたちは思いっきり頭を下げた。

 下げるのはいいけど、大理石に額を打ち付けているぞ。大丈夫か、新手の自殺みたいな勢いだぞ。

「疑ったのではございません。平に! 平に! ご容赦くださいませ」

 うわわ、額を打ち付けまくってる。

「控えろ。ゼルヴァナ・アカラナの聖域が血で穢れる」

 オニクス先生の冷淡な声に、屈強な男のひとは打ち付けるのをやめる。

 怖ぇ。

 その止めさせ方もどうかと思うけど、即座にやめる方も狂信者かよ。

 わたしが思うのも失敬だけど、目の前のやり取りがわりと恐怖だよ……

 神さまだって狂信者が怖いと思うよ。

「ゼルヴァナ・アカラナの御前で名乗りを上げさせてやろう」

「は。名をハジャル・アズラクと申します」

「この老人は四十の手下を持つ盗賊の頭だ。私の眼と耳になってもらうことにした」

「背の君の諜報役に?」

 四十人の手下を持つ盗賊頭なんて、どこで見つけてきたんだろう。

 でも人手が増えるのはいいことだよね。

 オニクス先生は廷内警備だけでなくて、この広い陪都ダマスクスの治安にも目を光らせなくちゃいけない。諜報役が四十人いれば、ずいぶんと助かるだろう。

「若造と盗掘師には紹介済みだ。すでに部下たちを陪都ダマスクスに潜り込ませ、定期報告を受けている」

「わたしには内緒だったんですか」

 また初耳じゃねぇか。

「偉大なるゼルヴァナ・アカラナに目通りを願うなら、信仰を身をもって示してもらわねばならん。駄馬が栄誉など浴する権利はない」

「ではこの方は、背の君が満足する働きだったのですね」

「思った以上に」

 先生は芝居がかった仕草でうべなう。

 盗賊頭ハジャル・アズラクさんは深く頭を下げた。

「ありがたきお褒めのお言葉。いと尊き女王……いえ、姫君の御為とあらば、老骨に鞭打ち働く次第にございます」

 ありがたいけど、定年退職してる年齢のおじいさんに危険なお仕事を任せるのは、ちょっと気が引けちゃうんだよなあ。

 働きたいって意思が強いみたいだから止めはしないけど。

 でも申し訳ないな。

「……では」

 わたしは席を立ち、盗賊頭のハジャル・アズラクさんへと近づく。

「さあ、顔を上げて下さい」

 しわがれた額に口づけた。

 魔力の息吹が、波紋していく。

 ハジャル・アズラクさんの瞳に涙が浮かび、鱗のような薄い破片が混ざる。涙はきらきらと散っていった。

「見える……目が、見える!」  

 お、白内障だったのか。

 治癒が簡単で良かった。

「ひとつお尋ねします」

「なんなりと」

「あなたはなにを祈り、どんな救いを求めるのです?」  

 わたしの問いかけに、深く深く頭を下げる。

「祈るだけです。祈りて生き、祈りて死ぬ。次の魂の行き着く先がどのようなものであろうと、それが我が魂に与えられた試練ならば、ただ粛々と祈り続けるだけです」


 盗賊さんたちは下がる。

 夏の離宮に、静けさが舞い戻った。


 ゼルヴァナ・アカラナに祈るひとたち。

 女奴隷のザルリンドフトさん。

 宦官奴隷のシッカさん。

 盗賊頭のハジャル・アズラクさん。

 それぞれ違う願い。異なる想い。

 ひとの幸せはそれぞれだってわかっていたのに、結局、わたしはなにも分かっていなかったかもしれない。

 



「ミヌレ。盗賊たちのことは、部外秘だ」

「ういうい」

 秘密部隊だもんな~

「特にあの宦官には知らせることはおろか、気取られんよう注意を払え」

「ほへ? シッカさんにも内緒ですか? 先生、近習にしてるんだから、信頼してるんだと思っていました」

 シッカさんを近習に命じたのは先生だ。

 近習ってのは、偉い人の側近だ。

 職務内容は国や時代によって変化するけど、とにかく重要視されるのは信頼度。

 だって偉い人のいちばん近いところにいるんだもの。寝首を掻くのが簡単だからこそ、信頼している人間しか任命しない。

「彼を傍においているのは、信頼ゆえではなく能力ゆえだ。帝国の密偵として動いている可能性が拭えん」

「ゼルヴァナ・アカラナ信仰はしているみたいですよ」

 自分なりに、教義解釈をしているって点が好感度だ。

 全幅の信頼を置くわけではないけど、宦官奴隷が帝国からゼルヴァナ・アカラナへ鞍替えしても変じゃないよな。

 先生は皮肉な笑みを、唇に含む。

 何か言うのかと思ったけど、なんにも言葉にしない。ふたりっきりの静かな空間で、ジャスミンティーを淹れてくれた。

 茶器の音が涼しげに響く。

「私は心から愛した女を、裏切った」

 穏やかな口調だった。

 優しい目をしていた。

 あるいは悲しい目なのかもしれない。

「彼女に褒められれば、頼られれば、愛されていれば、他に何もいらないと思うほど恋焦がれていた。彼女からの愛だけが、私の喜びだった。私の絶対、私の唯一。それほど愛していたのに、私は、彼女を裏切って、殺した」

 口許を歪ませる。

「こんな男が、何を信じろを言うのだ?」

 問いかけと一緒に、お茶を出してくれる。

 漂う白い花の香しさ。

「先生はわたしのことも信じていませんか……?」

 刹那、空間から言葉が消えた。

 面食らっている、のかな?

「きみか。いや、違うな。信じているとか、そうではないな……今夜、きみが私を殺したくなって殺したとしても、それは、きみの自由で、心の儘で、私が裏切られたわけではない。そうか。そうだな、きみに殺されるなら、別にいいかもしれん。ありのままでいなさい。私はそれでいい」

 素っ気ない口調だったけど、ありままを望まれて嬉しくないわけがない。

 オプシディエンヌほどの情熱じゃない。

 でも確かに、先生はわたしのことも愛している。

 弟子のように、娘のように。

 わたしはジャスミンティーを飲む。

 抽出時間が長かったのか、シッカさんが淹れてくれたお茶より渋かった。

 ティーカップが空になったころ、誰かがやってくる物音が届いた。

 シッカさんだ。

 人払いをしたのにやってくるとは、緊急事態かな?

「火急か?」

「絵工房から連絡が届いてごさいます。閣下のお命じになられた絵画が、今月のみそかには完成するとのことでございます」

 絵画?

 先生、なにか絵を注文していたの? 

 しかも連絡を命じていたってことは、魔術に関わるのかな?

「やっと除幕式を行う目途がついた」

「へっ?」

 思いがけない単語だった。

 除幕式ってのは、肖像画とか銅像とかのお披露目パーティーみたいなものだ。

 肖像画を描かせた貴族が開いたり、偉人の彫像が完成した時に行うやつな。

 たとえばサフィールさまとの恋愛ENDだと、ロリケール大聖堂で結婚式のあとに、結婚記念の肖像画の除幕式があるんだよな。貴族の披露宴として、除幕式。

 ま、庶民には縁のない話。 

「ゼルヴァナ・アカラナの巨大な絵姿を用意させた。最優先で取り掛からせたが、特別に大きなサイズを命じたから思いの外、時間がかかったようだな」

「わたしの肖像画の除幕式!」

「もともと信者たちは、ゼルヴァナ・アカラナの絵姿に祈りを捧げていた。朝と夕べの鐘以外は、絵姿を飾った祭壇に祈らせておけばいい。きみが存在するという事実は、定期的に知らしめる必要があるが、それ以外は絵姿で十分だろう」

「やった!」

 ひたすら座っている退屈タイムから解放されるのか!

「除幕式は盛大に行うぞ」

 そう言いながら、先生は椅子から腰を上げた。

「私は除幕式の打ち合わせをしてくる。絵工房の進捗具合も視察しなくてはな」

 先生は長衣を翻し、足早に立ち去ってしまう。

 独りで残されたわたしは、大理石のテーブルを枕にした。

 ひんやりした硬さが、ほっぺを冷やす。

 きっと華やかな除幕式が開かれるんだろうな。

 でも。

「除幕式より、デートしたかったな……」

 絵姿を作らせて除幕式を催すのは、わたしを見世物にしないための処置だ。

 感謝すべきだろう。  

 この気持ちは我儘だと分かっていたけど、落胆は口から飛び出してしまった。



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