第六話 (後編) サブクエかと思ったら、
娼館の窓から火災を見れば、路地向こうの家屋が火元だった。
炎が火の粉を噴き上げて、一番星まで届く勢いで燃え盛っている。
あの舞い散る火の粉が、星に生まれ変わるほどの勢いだ。
風向きからして娼館に火は向かってないけど、豊かではない地区は家屋が密集しているし、通りも狭いし、ごみだって散らかってるかも。火がこっちに来る可能性は高い。
「火災か。初期消火に失敗すると、地獄になるからな。一応、消しておくか」
先生は窓から【飛翔】して、呪文を詠唱する。
唱えているのは、【浮遊】だけだ。
え? 【水】じゃないのか?
【浮遊】が周囲の砂を浮かせて、集めていく。
そっか、もしも油火災だと水で悪化するから、砂を集めて炎を埋める作戦か。
窒息消火は知識の中にあるけど、咄嗟にこの判断は出来ない。わたしだったら思慮なく【水】を降らせるところだった。
娼館の別の窓から、黒い影が飛び出した。
火災現場に駆けていく。
「ロックさんですよ!」
炎の目映さと闇の昏さで見えにくいけど、あの軽快な身のこなしはロックさんだって分かった。
衣類を膚に引っ掻けただけで、ナイフを装備しながら、火災現場に走っていく。
「野次馬か?」
「人命救助ですよ」
ロックさんって、初対面のわたしと先生を助けようと、剣を抜くタイプだもんな。
救助に行くつもりなのか。
「どこまでも祖父似だ。怪我されたら困るな。あの若造、ここの風習に詳しい上に、交渉役を任せられるのだが」
「わたしが回収してきます。先生は鎮火をお願いします」
「風属性の【飛翔】を、炎に近づけるなよ。火災が悪化する」
「はい」
「無理はしてくれるな、ミヌレ」
「ういうい!」
治癒能力があるから火傷くらいへっちゃらだけど、心配してもらえるのは嬉しい。思わず口許が綻んじゃう。
わたしは【飛翔】を唱え、髪を靡かせて飛んだ。
ロックさんのところに翔けつける。
「待ってください、ロックさん! オニクス先生が鎮火しますから下がって下さい」
「水降らしてくれるの?」
「いえ、油火災だと悪化する可能性があるから、砂で鎮火します。家屋を砂で押しつぶして、炎を窒息させるんですよ」
「駄目じゃん! あっちは貧民給食院なんだ。動けないひとたちが飯を貰いに来る。逃げ遅れてるかもしれない!」
駆けていくロックさんを、わたしは引き止められない。
そもそも反論なんてしたくない。
初めて会った時、人助けに突っ走るロックさんに助けてもらったんだしな。まったく知らない人間のために、【雷撃】の中に飛び込んでいけるひと。それがロックという冒険者だ。
「旦那、逃げ遅れを想定してないのかよ!」
してると思うけど、助ける気ゼロなだけですよ……
先生は逃げ遅れたひとを見捨てる気だろう。
だけどロックさんの横顔は必死だ。
この帝国が半年足らずで亡ぶと知っていながら、全力で走っている。ひょっとかすると忘れてるかもしれないけど、忘れるほど必死ってことだしな。
「わたしも助けます。掴まって下さい」
伸ばした手を握られる。
一気に【飛翔】を加速させた。
炎に近づく前に、【飛翔】を解除する。
近づくと火事の熱さに皮膚がひりひりする。
貧民給食院っていう名を付けるには、みすぼらしいあばら家だ。すでに一階には完全に火の手は回っていた。
いや、もう、これ諦めて、砂に埋めた方が被害が少ないのでは……?
「逃げ遅れてるひとは?」
ロックさんの問いかけに、家屋の二階で動く人影。
だけど誰も助けに行けない。
行かないんじゃない。
現場に駆けつけてくれたひとたちは、周りの木箱や荷車に引火しないように移動させたり、他に燃え移る前に鳶口やのこぎりで壊したりして、延焼を防いでいる。
最適解だな。
残った人間を助けるより、燃え広がりを防止した方が、最終的には死傷者は少なそうだ。
でも、わたしはロックさんに付き合うか。
ヒロイズムは好きじゃないけど、ロックさんは好きだもの。
「ロックさん! わたしに乗って下さい」
わたしはユニタウレ化した。
ロックさんって見た目より重いな。筋肉だもんな。
ユニタウレの脚力で、人垣を飛び越え、火の粉舞う二階へと飛び上がった。窓枠を蹴り飛ばして、業火の奥へと突っ込む。
熱い……
産毛が焼けちゃいそう。
一角獣は寒さはへっちゃらだけど、熱とか炎とかに強いわけじゃないんだよな。
わたしは熱さに堪えながら、炎を霊視する。
何人か逃げ遅れているな。
火の元が一階の調理場で、階段から煙が立ち上っているせいで逃げられんのか。
「三人いますね」
逃げ遅れていた三人とも老人で、幸いなことに骨の皮だけだった。これなら運びやすい。
ロックさんが両脇で老人を抱きかかえて、さらに片手で老人の襟首を持つ。
すぐさま一階へと飛び降りる。
すげー。三人抱えて、軽く着地したよ。
いくら痩せてガリガリの老人でも、驚異的な筋肉だ。
身体能力のステータスはクワルツさんより下だけど、彼も十分に頼れる冒険者だもんな。
わたしも飛び降りる。
次の瞬間、大量の砂が、家屋ごと炎を押しつぶした。
圧倒的な砂に、炎は息絶える。
夜を照らすのは、月と星ばかり。
静寂の藍だ。
周囲の視線がわたしに集まってる。
なんで?
普通、助けたロックさんが英雄視でちやほやされるターンだぞ。
なのに、ここにいる人たちは、揃いも揃ってわたしを凝視していた。
正確には、わたしの下肢。
ユニタウレ化した肢。
しまった!
ライカンスロープ術って、めっちゃ目立つよな。
先生にも釘刺されていたのに、迂闊だった!
逃げるか。
炎から助け出された老人が、ふらふらと近寄ってきた。
なに、なに? 助けた相手をぶちのめしたくないぞ。
「ゼルヴァナ・アカラナさまじゃあああ! ついに! 女王が! 現世にご降臨されたのじゃあああ!」
老人の歓喜に満ちた叫びが、真夜中を劈いた。
「ひへっ?」
みんな跪いて、わたしを拝み始める。
間違えられている!
いや、間違いじゃないけど、まだ違うんだよ!
「まだゼルヴァナ・アカラナじゃありません!」
「……? まだ、とは……」
「どうか面を上げてください。わたしはゼルヴァナ・アカラナの幼体。夢みる女王の胚芽。あなたたちの望む力は、まだ宿していません」
わたしの語る言葉に、老人は恐る恐ると顔を上げた。
窪んだ瞳は泣きぬれている。
滂沱が祈りの手を濡らしている。干乾びてやせ細った肉体のどこに、これほどの水分があったのだろう。
長い人生のなかで溜められた、すべての涙みたい。
「いと尊き女王。いえ、姫さま。砂漠の賤民はあなた様を千年お待ちもうしておりました。幼き御身であろうとも、お目にかかれた喜びに変わりありませぬ」
ど、どうしよ……
打開策が思いつかないうちに、夜空の彼方から羽ばたきが聞こえてくる。
あの白い翼は、ペガサスだ。
何頭ものペガサスに赤い制服の射手が跨って、手綱を引いている。
先頭を駆る射手が、わたしを目にしてぎょっとした。
「ゼルヴァナ・アカラナだと……っ!」
まあ、下半身異形の女だし、ゼルヴァナ・アカラナだと思うよな! だってみんな平伏しているし!
射手の判断と動作は早い。
矢が番えられ、弦が引き絞られる。
まずい。わたしが【飛翔】で逸らせば誰かに当たってしまう! だってみんな平伏しているし!
数は多いけど、飛んで叩き潰すか。
【飛翔】で、わたしは夜空を翔ける。
だけど一角半獣ユニタウレの機動力より、天馬ペガサスの方がずっと空間を把握している。
やっぱり一角獣じゃ空中戦が不利か。
一角獣は地における最速だけど、空はペガサスやマンティコアという翼ある生き物たちの領域だ。
「我は汝を恐れるがゆえに、呪を紡ぐ。炎を恐れぬ勇者あれど、痛みを恐れぬ聖者あれど、死を恐れぬ賢者あれど、恐れを恐れぬものは在らず」
夜空に朗々と響く詠唱。
オニクス先生だ!
日が落ち切り、星が統べるこの時刻、闇魔術は力を強める。
「恐れよ。涙に嘆き、悲鳴に叫び、闇に額ずくがいい。【恐怖】」
空中に広がる魔力波。
ペガサスに跨った射手たちが、恐怖に苦しみ、呻きだした。ペガサスにしがみつく射手もいれば、狂ったように暴れて落ちる射手もいる。
宵闇に、甲高い嘶きと、羽根が散った。
オニクス先生が空中から、わたしの元へと舞い降りる。
黒い外套を翻して降り立つ姿は、美しくて不吉な鴉に似ていた。
わたしは先生に抱き締められる。
「ペガサスに空中戦を挑むな」
「ごもっともです……」
わたしを抱きしめる腕は優しいのに、声は厳しい。でも怖くはない。
砂地に降り立てば、平伏していたひとたちの視線が突き刺さってくる。無数の視線。無数の涙。
「……まさに女王ゼルヴァナ・アカラナ」
「伝説の通りじゃ……」
「おお、我らの女王さま……」
「どうか我らに救いを……癒しを……祝福を……」
周りにいるひとたちが、グールみたいに近づいてきた。
怖いんですけど!
「控えろ、慎め! 膝をついて頭を下げろ! 女王ゼルヴァナ・アカラナの御前だぞ!」
声を裂帛させたのは、オニクス先生だった。
恵まれた身長と声帯に圧倒されたのか、周囲のひとたちはみんな跪いて額づいた。なんやこの状態。
「……大義名分だ」
低い呟きが零れた。
月明りに翳された先生は、静かに微笑んでいた。病的なほど静かな笑み。
「大義名分が手に入ったぞ」
わたしは先生の声が好き。
低くて、深くて、捻くれているのに澄んでいるの。
だけど今夜の囁きは、わたしの知らない人間みたいだった。