第二話 (前編) 砂時計紀行
ジャスミンみたいな朝焼けだった。
格子窓からの朝日が、オニクス先生に差し込んでいる。黒髪に光が降ってきて、輪郭が輝いていた。すごく綺麗だ。
うっとり眺めていると、先生の瞼が開く。
「………きみの髪は眩しいな」
「すみません、起こしちゃって」
頭を引っ込める。
わたしの髪の乱反射で、眠りを妨げちゃったかな。
「いや。そろそろ起きようと思っていた。やっと魔力が全回復した感覚がある」
寝ないとMP回復しないからなぁ。
「HP、じゃなくて、体力も回復しました?」
「体力は……もう少しかかりそうだな。若いころほど無茶はできん」
静かに呟きながら、わたしの髪を撫でた。
指に絡めて、梳く。
わたしの髪がさらさら鳴っている。砂の音みたい。
「まだジャスミンの香りがする……」
起きると言ったわりに、しばらくわたしの髪を撫でていた。
新婚旅行って名目だからか、起床を急かすひとはいない。
ぷすぅ~
おならぷぅだ。
わたし、おならした!
「ピエエエエ……」
昨日、お豆を食べ過ぎたからだ!
よりによって、こんな、タイミングでするか、わたしは!
恥ずかしすぎて、口から奇声まで出た。
「きみは放屁の音まで小動物だな。可愛らしいことだ」
「可愛くないです! 可愛くないです!」
「はははははっ」
オニクス先生が笑う。
あんまりにも屈託ない笑い方に、わたし、びっくりした。だって、すごく若く見えたんだもの。
そっか。まだ二十代って言ってたな。
老けてるから忘れてた。
朝日の中、黒髪はくしゃくしゃで、屈託なく笑うと二十代に見えるじゃないか。髭が生えているけど、普段より若く見えるってどういうことだ。
剃ったらもっと若く見えるかもしれんぞ。
「もう終わりか?」
「なでなでするな!」
先生がおなか撫でてきた。
逃げようとしても、先生はわたしの腹を撫でまくる。わたしは猫じゃねーよ。
「私の夢では、きみは笑っていただけだったからな……やっと現実だと認識できた」
先生は六十日間もわたしを探し回っていた。
わたしが見つかった夢を繰り返したせいで、夢とうつつが曖昧になっている。わたしと再会できた現実を疑ってしまうほど、こころが疲弊してるんだ。
でもおならぷぅで、現実を噛み締めないでほしい! 恥ずかしい!
「やめないと仕返ししますよ!」
「それは楽しみだ」
笑いながらおなかを撫でてくる。
ぷぅ
「ピギィイイイッ!」
わたしの絶叫に、先生は笑壺に入ってる。
ちくしょう、ちくしょう………乙女に、いや、乙女じゃねーけど、こんな辱めを………
先生はさんざん笑ってから、隻眼を窓辺に向ける。
「天気がいい。今日は霊廟参りに、案内を頼むか」
「お廟参りに行っていいんですか?」
やった!
でも、意外だ。
帝国滅亡まであと半年。
中央大法院がある陪都ダマスクスに急ぐんじゃないのか。
「この旧都も想定以上に豊かだからな。陪都や帝都ほどではないが、何か手がかりがあるかもしれん。情報収集をするにも、荷造りをするのも向いている。スークに掘り出し物があるかもれんしな。長居するなら、廟参りのひとつもせんと不自然だ」
「急がば回れですね!」
わたしは布団から跳び起きて、身支度を整える。
パジャマを脱いだら、まずドロワーズ、それから果物ナイフ。
宵闇色のオリハルコンシルクが、鞘に結ばれている。
婚約式でわたしの髪を結っていたリボン。参内するときのお守りとして持ってきたのだ。
シュミーズ着て、ペチコートを履いて、刺繍のワンピースへ袖を通す。
「きみは忙しないな」
「だってお廟、見たかったんですよ! 早く起きましょう」
わたしが腕を引っ張ると、先生は名残惜しそうに布団から長身を起こした。
遅めの朝食を終えて、旧都に繰り出す。
案内役を務めてくれるのは、宿屋のおねえさんだった。地元のひとの道案内は助かる。
今日の予定は廟参りして、地元の美味しい食事処を紹介してもらって、そのあとは大スークで素材探し。
なんたる完璧な新婚旅行コースだ。
白い尖塔が見えてきた。
「あれが帝国でも屈指の霊廟モジャウハラートです」
うわ、雲の上に建っている?
いいや、これは巨大なカスケードだ。
カスケードの石材は灰と白が入り交ざった空色だから、色合いが雲そっくり。水が流れて色合いが揺らめいているから、雲で造園したみたい。
天上の光景だ。
なんて荘厳な佇まいだ。これは千年前から来た甲斐があるというものだ。
「すべてアクアマリン原石だな。地下水道の水を物理的にくみ上げるのではなく、魔術で地上に出しているのか」
先生も興味深かそうに、カスケードを眺めている。
「帝王の鍾愛深き偉大なる宰相閣下が、まだ治水大臣であらせられたころに整備なさった水路です。宰相閣下が整えられてから、水は絶えることなく豊かに溢れ、旧都を潤しているんですよ。ずっと続いている彫刻模様は、宰相閣下の最初の奥方のいちばんお好きな花を模したものなんです」
おねえさんの解説を聞きながら見物する。
カスケードの終着地には、赤や白の花びらが浮かんでいた。無垢な水にはすっかり花の香りが移っている。
お参りする前に、カスケードで手足を洗う。沐浴だ。
「冷たい! 水魔術で作った水より冷たいですよ。術式違うんでしょうかね」
氷みたいな温度の水だ。
跳ね飛ぶたびに水飛沫がきらきら散って、楽しい。音楽もないのに、踊りたくなる。
「奥さま、奥さま、足首より上が見えてますよ」
はしたなかったのかな。
ここは神聖なお廟なんだし、おとなしく足を洗おう。
そう思った瞬間、頭上に翳りがきた。雲でも出たのだろうかと思ったけど、ここは砂漠の帝国。天空に雲なんてない。
オニクス先生がわたしに翳を作っていた。
「私が目隠しになっていればいいだろう。好きにはしゃぐといい」
「大丈夫です。そんなにはしゃぎませんよ。お廟の前なんですから」
わたしは唇を尖らせたけど、先生は口角を上げただけ。
結局、わたしがはしゃぐと思ってるな。
「子ども扱いされるのは不服です」
「それはすまない」
子供っぽくはしゃいでいたわたしが言っても、説得力がないな。
次はおとなしく、上品に。
なんといってもお廟ですよ。敬虔な態度は崩しちゃだめだ。
「うひゃぅ! 真っ白い壁に色鮮やかなタイルって、壁が刺繍されているみたいですね。というか、絨毯や刺繍の柄こそ、お廟のこのタイル飾りを模しているんでしょうか。シャンデリアのかたちが、幾何学の組み合わせって洗練されていいますね。オリハルコン製の円。これは光を象徴化しているんでしょうか、それとも壁のタイルを映えさせるために、シャンデリアはシンプルに進化したんでしょうか。洗練の極致は好きですが過程も興味深いので、このシャンデリアの進化前が年代別に見たいですね」
おっと、おとなしくするだった。危ない危ない。
静かにするんだったな。うっかりオタク早口喋りしてしまった。静かにすべきところで騒ぐのは、害悪オタだぞ。
ここは宗教施設。
郷に入っては郷に従え。
「……シャンデリアで惑星層を模しているのか」
先生がシャンデリアを見上げて、呆然としている。
わたしがもう一度見直すと、確かに惑星層の模型になっていた。洗練されすぎて分からんかった。
「だったらあの青と緑が混ざった硝子灯が、地球ですか」
「ああ。周囲を回っている白い硝子灯は間違いなく月だが、同じく回っている黒い硝子灯は仮想衛星リリスということになるぞ。この時代にすでに仮想惑星がこれほど正しく観測されていただと……いや、時間障壁の外まで観測できるなら、仮想惑星が発見されていても不思議ではないが……25個より多い!」
仮想惑星って現代で発見されているのは、25個なのに?
「芳香性惑星と仮想惑星がいっしょくたなのでは?」
「いや、成層矛盾が生じてない。仮想惑星だ」
「おふたりとも、お願いですから、お静かに……」
宿のおねえさんの声は、静かだけど思いっきり強い感情がこもっていた。
しまった、ここは宗教施設。
お静かにしないとな。
「仮想惑星は25以上あると、数秘学では予測されているが……あの位置か」
「先生、静かに。静かに」
「何故ここまで天文学が発達しているのに、太陰暦なぞ使っているんだ。こいつら馬鹿どもか?」
まだ減らず口をぶちまけていやがるので、わたしは軽く屈伸する。
「せいやっ」
全力で先生の股間に頭突きした。
クリティカル喰らった先生は物理的に黙って、小さく蹲った。よし。
「……きみは…なにを」
「朝、おなか撫でられたから、このくらいし返して大丈夫かなって……」
「返し方が、桁違いだぞ………」
そのまま呻いて黙った。
わたしたちは縮こまって鑑賞する。
圧倒的な美。
魂が傅き、跪き、額ずく美しさ。
これを信仰にすり替えるが宗教なのかな……
わたしは他のひとたちを真似てお祈りする。
神さまなんて天空のティーポットほども信じていないけど、こんな美しいものが出来るんだったら、敬意を表したいし、お布施だってしたい。やっぱ心を動かしてくれるものには、課金したいからな。
参拝を終えてお廟を出る。
ちょっと離れたところに屋台が並んでいた。
いちばん大きな屋台では、鉄の大鍋で何かぐつぐつ煮込んでいる。漂ってくる匂いからして、ピリ辛モツ煮込みっぽいスープかな。嗅いでるだけで鼻先が脂っぽくなりそうな、独特の空気だ。
他にも古着の吊るし売りとか、いろんな木の杖を売ってる行商さんがいた。あと軟膏や湿布とかの行商さんもいる。地味な縁日みたい。
廟参りのひとたち狙いの屋台かな?
「あのスープ美味しいんですか?」
わたしの質問に、宿のおねえさんはちょっと笑った。
「たぶんあまり味にはこだわっていませんよ。あれは喜捨の屋台ですからね」
「……喜捨の屋台?」
「あっちのひとたちに渡すんですよ」
宿のおねえさんが示したところには、年を取っていたり、身体の一部が不自由にひとたちがいた。
服というよりボロ布を纏って、座り込んでいる。
「物乞いに直接お金を渡すと、騙されたり無駄遣いしたりするものですからね。心無い物乞いだと、賭博ですっからかんになったりして。だからあちらの屋台で滋養のあるスープや古着などを買って、喜捨するんですよ」
生活保護に現金じゃなくて、物資で渡すという理屈か。
理論的には理解した。
「物乞いか。自尊心を売っている惨めな人間と、自己満足を買っている惨めな人間だな」
オニクス先生は冷やかな眼差しだった。
鉱山奴隷として幼い頃を過ごした先生に、あの光景はどう映っているんだろう。
わたしには窺い知れない。
ただきっと善行の場として納得できない光景なんだろう。それだけはひしひしと伝わってきた。
「喜捨は神の御心に適った行い。天国に召されます」
「他者の善行などという気まぐれに、人間のいのちを委ねることを恥だと思わんのは、死後の安寧のためか。自分の安心のために、他人の尊厳を踏みにじるのは見るに堪えんな」
煽るな!
それを普通に言うと、たぶん「福祉は国家が保証すべき」って意見なのに!
どうして煽った言い方をするの!
宿のおねえさんはドン引きしてるからな!
「そもそも善行も悪行も、正義も邪悪も等しく腐っていく。祈りやこころが関与しないものだけが美しい」
霊廟前でその発言は無いぞ!
わたしが頭突きの構えを取ると、察した先生は黙った。
霊廟から歩いて、ジャスミンの木陰を歩いていく。
日差しは強いけど、木陰は涼しくて香しい。
「もう少し歩いたところに、子宝祈願のお廟がありますよ。小さいけど霊験あらたかですから、お勧めしますわ」
子宝、祈願。
それは、ちょっと恥ずかしいな。
「ええっと、それより『ゼルヴァナ・アカラナ』のお廟ってありますか」
「…………お参りしたいんですか?」
「ええ」
「………ちょっと聞いてきますね。失礼致します」
宿屋のおねえさんは行ってしまった。
ジャスミンの木陰で休む。
先生とふたりっきりだ。
ひらひらとジャスミンの花が落ちて、わたしの被衣に留まる。
離れた広場で、男の子たちが遊んでいる。輪転がしだ。エクランでも見かけた遊びだけど、この帝国でもおんなじ遊びがあるのか。
樽の箍を棒で転がすだけだから、世界のどこでもあるだろう。
いちばん背の高い腕白小僧が、お兄さん風を吹かせている。
赤みの強い膚に、モリオンくんを思い出した。
オプシディエンヌの小姓。
――親は選べないってことですよ――
――ボクの両親の名前、聞きたいですか?――
別れ際の囁きが、鼓膜に蘇ってきた。
ついでに暴発した金属片が、顔面に突き刺さる感触も。
「ミヌレ? どうした、そんなに顔を引き攣らせて」
「いえ、その……」
「不満があるなら言うといい」
「違うんです。ええっと、オニクス先生は………モリオンくんのご両親って……ご存じですか…」
「誰だ?」
「武器展示室にオプシディエンヌを案内した小姓ですよ」
「ああ。いや、教団時代には見たことが無いな。あの小姓がオプシディエンヌの手のものだと知っていたら、武器展示室で目にした瞬間に攻撃している」
あっさりとした回答だった。
じゃあ最悪の想定ではないのかな。
「あの小姓の両親がどうかしたのか?」
「最悪の想定として、オプシディエンヌとオニクス先生の息子さんだと思っていたんですよ」
その途端、隻眼が見開かれた。
先生の喉がひゅぅ、と、か細く鳴る。
「オニクス先生?」
心当たりがあるのか。
いや、心当たりしかないだろうけどさ。
そもそもさ、もしモリオンくんが先生の息子だったとしたって、なんか影響があるの?
先生はもう三十近いんだから、子供のひとりふたりいても不思議じゃない。
別れた女性との間に息子がいたからって、わたしがああだこうだ嘴を容れる権利は無い。いや、建前とはいえ法律的には婚約者だからちょっぴりはあるかも。
「あの女が出産などというリスクを負うタイプだと思うか?」
皮肉で陰鬱な口調だった。
「出来たことはあるが、彼女は産んではくれなかった。別に産んでほしかったわけじゃないが」
「………あ」
想定以上にセンシティブな話題だった。
オプシディエンヌは、先生との子どもを産まなかった。
わたしはどんな言葉を発すればいいんだ。それとも黙っている方ががいいの?
がんじがらめになった気分だった。
「そもそも彼女は両性具有だから、出産は向かん。産まないことを望んでも止むを得ない」
「両性具有……」
待て。
あの魔女が両性具有ってのは、そういうこともあるだろうから横に置いておこう。
先祖返りのレア性別だ。
「オニクス先生は女性じゃなくても、大丈夫だったんですね……」
問題はそこである。
予期せぬ斜め方向から、新事実が衝突してきやがった。
冷たい水に手を突っ込むの覚悟していたら、横から村でいちばん凶悪な雄鶏に追突された気分だよ!
覚悟してない事実だよ!
いや、もうひとつ大きな問題があった!
あの魔女オプシディエンヌ……先代国王の公妾だったわけであって、つまり、その……え?
ピエール18世も半分男でも大丈夫っていうか、むしろ大歓迎な性癖だったと……?
混乱していると、大通りの向こうからがちゃがちゃと盛大な音が聞こえてきた。
鎧が留め金とぶつかり合う音だ。
兵士だ。それもたくさんの兵士たち。
何か事件かな?
宿のおねえさんが走ってくる。
「あのふたりが『ゼルヴァナ・アカラナ』の邪教徒です!」
ぅええっ?




