序のあと 聖暦1617年
ミヌレが消えた翌日。
「オプシディエンヌが生きていただと?」
驚愕の声が響く。
バギエ公国賢者連盟支部。
なにひとつ飾りのない白漆喰の壁には、呪符であるダイヤモンドの輝きと、カマユーの姿が映し出されていた。
見た目は六つばかりの少年だが、中身は星智学最高位の魔術師だ。浅黒い肌に、星座が刺繍されたローブを纏っている。
「え………ええ、はい。『未来視の狼』クワルツ・ド・ロッシュさまが、証言してくださいました。辛うじて、ですが」
テュルクワーズは語る。
いかにも気弱そうな司祭だが、彼も賢者のひとり。
治癒系魔術の権威である。
高弟たちをクワルトスの看護にあたらせて、アルケミラの雫を投与し輸血を続けていた。王侯貴族でも受けられられないほどの医療を注いでいるが、クワルトスは今も予断を許さない状況である。
それでも彼のいのちは、生還の奇蹟に繋がっていた。
「き、聞き取れたのは本当にそれだけで、今はまだ重篤状態です。ええっと、回復するか神の身元に行くかは、その、半々……です。なので、その、これ以上の証言は、いかんとも……」
「魔女オプシディエンヌが生きていたというだけで十分だ」
カマユーは幼い顔に、醜怪な皺を刻む。
怪盗クワルツ・ド・ロッシュ。
カマユーにとって笑止の沙汰な生き方とはいえ、その実力は認めている。
賢者同盟でも補足できない闇耐性の魔力と、魔術騎士団を翻弄する戦闘力の持ち主だ。スフェール学院に忍び込んで、オニクスから逃げ果せたという情報も掴んでいる。
そのクワルツ・ド・ロッシュが、完膚なきまで叩きのめされているのだ。
そんな化け物じみた存在が、この世にいくつもいるわけがない。
「オニクスめ。殺したふりをして、あの魔女を逃がしていたのか。よくもぼくらを謀ってくれたものだな」
「発言を宜しいですか?」
挙手したのは、ディアモンだった。
彼は一介の魔術師であるが、賢者パリエトの名代として、他の魔術師より発言を許されていた。
「許す」
「アタシは六年、監視役を務めました。オニクス魔術師が魔女オプシディエンヌと通じていた痕跡はありません」
「ふたりがうまく周囲を欺いただけだ」
「オニクス魔術師も、オプシディエンヌの生存を知らなかったのでないでしょうか」
「馬鹿々々しい」
カマユーは一蹴する。
刺々しくなった空気が沈殿しきる前に、テュルクワーズが挙手した。
「あの、それより『夢魔の女王』ミヌレ・ソル=モンドさまの行方まで知れないのが……」
「オニクスが連れ去ったに決まっている!」
苛烈な叫び。
有無言わせぬ空気に反論したのは、ディアモンだった。
「そのような行為をすれば、ブッソール猊下が阻むはずです。オプシディエンヌと会う前に、ブッソール猊下がミヌレを保護しておりました……それに」
ディアモンは一瞬、口ごもる。
「猊下。魔術師として発言してもよろしいでしょうか?」
「あんたは今までなんのつもりで発言していたんだ。いや、いい。話せ」
「時魔術の痕跡を感じました」
「ブッソールの召喚ではないか?」
カマユーの予測に、ディアモンは首を横に振る。
「召喚痕跡ではないんです。これは近代魔術では理論化されていない感覚なので、上手く表現できないのですが……古代魔術の空間跳躍に似ています」
古代魔術を研究しているディアモンの感覚に、カマユーは信を置いていた。
「パリエトは?」
カマユーの口から、この場にいない人間の名が出る。
賢者パリエト。
古代魔術と生物付与の分野においては、最高位の魔術師だ。
「師に呼び掛けてはいるんですが、反応はありません。まだ【胡蝶】の領域に留まっています」
ディアモンの師パリエトは、古代魔術再現のために弟子たちと魔術結界【胡蝶】に閉じこもっていた。賢者としての世俗的な役目は、二番弟子のディアモンに任せている。
かれこれ十四年、世俗に出てきていない。
世俗どころか、象牙の塔にさえ顔を出さないのだ。
会話は出来るが、引きずり出すことは不可能だ。賢者のだれであっても、オニクスであっても、突破できない結界だ。
それほどパリエトが開発した魔術【胡蝶】は絶対的な防壁であった。
カマユーは眉間に皺を刻む。
「鎮護の魔術師がふたりも消えた! この非常時でも出てこないつもりか?」
叫んでから、カマユーは口を結ぶ。
声を荒げてしまったが、弟子に師匠の責を負わせるべきでなはい。
「すまない、ディアモン魔術師」
カマユーは上っ面の謝罪を吐き、意識の深いところでは思考を巡らせる。
賢者パリエト。
十年前の教団討伐の折、【胡蝶】に閉じこもっていたにも関わらず、何故かオニクスを庇う発言を会議に届けた。オニクスが邪竜を鎮めに向かわせた切っ掛けも、パリエトの薦めだった。
そして今は腹心の弟子であるディアモンを、オニクスに付けさせている。
同じ賢者であるパリエトに対して、疑心が湧く。
だが、その疑心は意味がないと知っている。
パリエトが結界に引きこもったのは、十四年も前のこと。オプシディエンヌは宮廷で公妾として華やいで、オニクスはまだ戦場で部隊指揮をしていた少年だった。面識があるはずがない。
「……あんたは引き続き痕跡調査、魔術騎士団は好きに使いな。ぼくは時間障壁の観測をしよう」
「畏まりました」
カマユーは瞬時に、星幽体を宇宙の果てに飛ばす。
天球音楽が鳴り響き、星々が輝く宇宙。
自力で時間障壁まで到達できるのは、全人類の中でカマユーただひとり。
独りになったカマユーは、嗚咽した。
誰憚ることなく、滂沱した。
惑星層が奏でる音楽さえ、打ち消すほどに。
「オニクス、オニクス……今度こそ討伐してやる。あの男……傲慢で、不遜で、愚昧で。副総帥のまま、闇の教団と共に亡びるべきだったのに。どうしてぼくに命乞いなどした」
肉体から解き放されているにも拘わらず、カマユーは苦しげに涙と息を吐く。血肉に煩わされていた頃の残滓が、いまだに精神に染み付いているのだ。
髪を掻き毟り、肺腑の熱を吐き出す。
だがどうしても脳裏に浮かぶ光景は消えない。
カマユーに焼き付いている光景は、闇の教団に君臨しているオニクスの姿。
倫理、道徳、慈愛、正論、共感、それら一切の猥雑物を排除した、純粋な魔術研究だった。あれほど真理に迫った研究を、カマユーは出来ない。人間としてストップがかかってしまう。やりたくても躊躇してしまう。
だがオニクスはやり遂げた。
魔術師としての覇道だ。
どれだけ恨めしかったか、どれだけ羨ましかったか。
羨望。
そこまでの感情は、賢者たちの一部、ブッソールやアエロリットあたりの付き合いの長い人間は察していた。
だが、カマユーの感情はもう少し昏く深いものがあった。
闇の教団で倫理なく研究するオニクスを、カマユーは羨ましいと思った。それは確かだ。
だが、それ以上に。
傲慢な振る舞いを。
弱き者への憫笑を。
毒を含んだ口調を。
美しい、と思ったのだ。
「オニクス! 死んでいればよかったんだ。あんたがいちばん美しかった頃に!」