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第十九話 時空漂流



 蜘蛛の糸は蔓延り、クワルツさんに絡みつく。

 狡猾に張り巡らされていて、わたしの乱鴉では食い千切れきれないかもしれない。

 だけど魔力勝負なら分がある。

 魔力が尽きるまで、わたしは鴉を創造する。


「ミヌレくん。吾輩はハッピーエンド以外は認めん」

「わたしを舐めないで下さいッ! クワルツさん! どんな人生だって、わたしが選んだ道なら、わたしはハッピーエンドにしてみせる!」

「あの最果てでか? たった独りの神殿で?」

 白亜の永久回廊。

 永遠に終わらない回廊の終着点に、わたしは独りだった。

 それがどうした!

「孤独や死を恐れて、好きなひとを愛さないなんて馬鹿々々しいッ!」

 胆に力を入れて叫ぶ。

 いつか死んでしまうからといって怠ける理由になるものか、いつか独りになるからって愛さない理由になるものか。

 わたしは、わたしの選んだ道を往くだけだ。


 ふたたび【乱鴉】を放つけど、蜘蛛の増殖の方が早い。

 魔力はわたしが上回ってんだよ。

 でもそもそもこの魔法空間はアウェイ。支配権はクワルツさんが握ってる。

 ぬかるみで荷馬車を押してるみたいに、踏ん張りが効かねぇ。 

 ほんの刹那の緩みをついて、蜘蛛の巣は広がっていく。

 鴉の羽根に、白く張り付く蜘蛛の糸。


「きみの未来を変えたい!」 


 クワルツさんの願い。

 真の願いだからこそ、折れない。


「……ッ!」 

 弾き飛ばされる、わたしの意識。

 




 

  

 わたしの意識が現実空間に戻ってきた。

 頭が、くらくら、する。

 初めて幽体離脱して、他人に干渉したせいか、意識と記憶がぐちゃぐちゃになっていた。ゲームで見た、いや、予知で視た光景の中に入り込んで気がする。

 

「ここは……」

 

 わたしは海藻の褥に横になっていた。

 頭上には巨大な白亜の梁が何本も架かって、天蓋となって湖の水を支えていた。水族館みたい。

 いや、あれは梁じゃない。

 巨躯人魚の白骨だ!

 ってことは……


「湖底神殿かよ……」


 リヴィアタン級の人魚が死んで、海藻の森を芽吹かせて、魚や人魚たちが集まってくる。鯨骨群集だ。

 そして集まった人魚たちも、ここで寿命を迎える。 

 そんな人魚の塋域(はかば)を、太古の人類が神殿とした。

 神殿の中核は、一億年以上前に死んでいる巨躯人魚の遺骸。だけどさすがリヴィアタン級の人魚、骸に残る魔法が、まだ空気を維持している。肋骨天蓋の内側だけは、風の加護が満ちていた。

 死んでいるのに、いのちがある。

 頭痛と眩暈を堪えながら、あたりを見回す。

 光の届かない岩場に、水晶色の照り返しがあった。

 生きているいのちだ。

「クワルツさんっ!」

 呼び掛けても反応はない。

 まだ気絶しているのか。

 精神はどうなってる?

 【魅了】の解呪に成功したのか、それとも……失敗したのか。

 起き上がろうとした瞬間、わたしはバランスを崩した。手に何かついている。

 レースのリボンで、手首が結ばれている。蹄もだ。

 丸焼きにされる子豚みたいな状態じゃねーか!

 わたしを縛りつけているのは、精緻な菫模様のレース。これ絶対、オプシディエンヌが編んだレースだろう。

 口で引っ張っても解けない。だったら口づけで解除すればいい。

 わたしはレースに噛みついた。

 ……解けない。

 

「それはあなたの髪を核にして編んだレースよ」


「オプシディエンヌ!」

 魔女は人魚たちの遺骸に腰を下ろして、蒼い暗闇に君臨していた。

 指には【破魂】の指輪。

 この世でただ唯一、魔女の魂を毀せる呪符。それを魔女本人が持っている。

 ピンチじゃない。チャンスだ。

 今この指輪を取り返して、オニクス先生に渡せば、それで邪悪な魔女のいのちは尽きる。

 オニクス先生の望みが成就する。

「そのレース、あなたのために妾が手ずから編んだの。お気に召してくれたかしら?」

「わたしは鎖を気に入る家畜じゃない」 

「家畜じゃないわ。愛玩よ。宮廷で飼ってあげる。丁重にね」

「おまえの丁重なんて信用できるか」

「だいじょうぶ。香しいお花は欠かさないし、甘いお菓子もあげるわ。夜になったら殿方を呼んで、あなたを可愛がってもらうの。すてきでしょう」

「邪悪だな!」

 マジでこの女、生理的に受け付けないタイプなんですけど!

 他人に淫奔や貞節を押し付けんじゃねぇよ、クソが!

「知らない殿方はお嫌? だったらエグマリヌ伯爵令嬢を招きましょうか。サフィール騎士も。あの子たちも【屍人形】にして、あなたを守る人形にしても見栄えがするわね」

 寒気と殺意が、わたしの蹄を駆けさせた。

 殺す。

 だけどレースのリボンは、わたしの蹄も縛り付けていた。みっともなく転ぶだけ。

「綺麗な髪が、藻で汚れちゃったわね。孵ったばかりの人魚みたい」

 オプシディエンヌは優雅に歩いてくる。

 累積した人魚の骨の道を、宮中を歩いているかのように進む。

 わたしは瞬間的にユニタウレ状態を解除する。四つ足からふたつの足になったけど、まだレースのリボンで縛られていた。だけどこの人間状態から、ふたたびユニタウレになる。

 前脚だけが解放された。

 わたしはふたつの蹄で岩場を蹴り、オプシディエンヌに急襲する。

 あの指輪さえあれば!

 

 刹那、頭上の天蓋が砕けた。


「ふへっ?」

 大量に降ってくる水と、大量に降ってくるブッソール猊下。

 えっ? ブッソール猊下、なんでこんなコピペ状態なの?

 いや。これは水霊ウンディーネか?

 多重幻影なのか、それとも精霊たちを自分の姿に化けさせているのか。どっちか魔術構成が複雑すぎて読めないけど、とにかく分身いっぱい作戦だ。

「死にさらせ、魔女がッ!」

 割れ鐘じみた怒声が響く。

 どれが本物か分からなくても、オプシディエンヌは扇で一閃する。

 相変わらず優美で、淑やかに。

 蜘蛛の糸が、すべてのブッソール猊下を切り裂いた。

 

 次の瞬間、爆炎が満ちた。


 ブッソール猊下の火精霊だ。

 火の粉のひとつさえ制御された爆炎が、水をも嘗め尽くし、闇さえ飲み干していく。

 張られていた蜘蛛の糸は焼け切れていく。

 無茶苦茶な作戦だな。いくら蜘蛛の糸が火に弱いからって、クワルツさんが巻き沿い喰らうじゃねーか!

 わたしは地べたを転がって、気絶してるクワルツさんに覆いかぶさる。


 燃え盛る爆炎から、オニクス先生が姿を現した。

 【幻影】で姿を消していたのか。

 オプシディエンヌを羽交い絞めにする。

「あら、オニクス。情熱的ね」

「私の指輪! 返してもらうぞ!」

 その手に携えていたクリス・ダガーで、彼女の喉を掻っ捌いた。

 流れるような手つきで、喉を裂いた切っ先で心臓へ突き刺す。突き刺すだけじゃない。ねじるように空気を入れ、抜き、ふたたび腹の臓腑へと突き刺す。腎臓を的確に抉っていた。

 滑らかな手口だな!

 魔術師ってより、暗殺者ってスキルだぞ!

    

 だけどオニクス先生の腕から崩れ落ちたのは、オプシディエンヌじゃない。

 人魚だ。

 すり替わった?

 いや、最初から人魚に自分の【幻影】をまとわりつかせて、糸で操っていたのか。

 切り裂かれた人魚の喉から、鮮血と緑の呪符が零れ落ちている。

 あれはベリル。風魔術の呪符を人魚の喉に埋め込んで、声を送っていたっぽいな。

 クソ。人魚避けの香水に反応した時点で、影武者の可能性を考慮すべきだった。香水を忌避したのは、素材になっていた人魚の生体反応だったんだ。


 本体は、どこだ?


「どこいきやがったァ、あの魔女! オニクス、てめぇ、【遠視】や【蛇眼】持ってねぇのか!」

 爆炎が収縮して、ブッソール猊下の姿を象る。

「生憎とそのふたつの呪符は、十年前に貴様の弟子がいのちと引き換えに壊してくれた」

 オニクス先生が淡々と語る。

 おい。なんで協力してくれてるブッソール猊下の神経を逆なでした?

「そういやそうだったなァ、あとでてめぇもぶっ殺すからな!」

 

 オニクス先生もブッソール猊下も、霊視系が使えないのか。

 わたしが探すしかない。目を閉じて、霊視モードに切り替える。

 霊視、使いづらいんだけど!

 使いづらくても使うしかない!

 そのうちアプデくるかもしれないし!

 瞼を閉じて、あたりを見回す。

 周囲にいるのは、オニクス先生とブッソール猊下。それからまだ気絶しているクワルツさんだ。

 【幻影】で姿を隠して潜んでいると思ったのに、いない?

 まさかオプシディエンヌは湖底神殿から離れた場所で、こっちを【遠視】しているのか? 

 馬鹿な。

 人魚を傀儡するだけで、あれだけの魔術を展開できるわけがない。

 どこかに隠れているはすだ。


 湖底の人魚に紛れている?

 わたしは肋骨天蓋の向こう側を霊視したけど、湖に泳いでいるのは人魚ばかりだ。

 まさか、ほんとうに、遠距離から魔術を使ってるの?

 そんな魔女にどうすれば勝てるんだ?


 項垂れた瞬間、遥か下方に人影がひとつ霊視に映った。


「居ました! オプシディエンヌが!」

 わたしの叫びが、湖底神殿に響く。 

「最下層に居ます!」

 刹那、わたしの足元がぬかるむ。

 海藻が揺れて波紋して、地べたがわたしを呑み込んだ。

 土魔術【泥濘】か?

「ぴぎゃッ?」

 身体が、下へ、沈む。

 沈む。

 



 光の届かない闇の底。

 湖底神殿の最下層。

 人魚の遺骨が横たわる湖底よりもさらに深い。湖底神殿の最終階層『ヘイダル』。

 BGMさえ絶えた闇に、水滴の音が繰り返す。

 幾度も、幾度も。


「闇の底にようこそ」


 オプシディエンヌの囁きだ。 

 これは本物か?

「本物よ」

 わたしが言葉にしてない疑いに、オプシディエンヌは嗤いながら答える。

 目の前のオプシディエンヌを霊視したところで、。詳しくは視えなかった。強大な魔力だけど、人形か人魚に【幻影】を被せた影武者なのか、本人なのか曖昧だ。

 オプシディエンヌの闇耐性は、わたしと同じくらいかそれ以上だ。ひどく視にくい。

 凝視していると、わたしの身体を誰かが抱き上げた。

「クワルツさんッ!」

 わたしを戒めるように、守るように、抱き締める。

 ……解呪に、失敗したのか。

「さ、お城に帰りましょうね。その狼とつがい人形してあげる」

 オプシディエンヌは揚々としている。

「絶対にお断りだ!」

「暴れないで。もう勝ち目はないのよ」

「うるせぇ、抗わせろ!」

 おまえに屈しないという信念に従って、わたしは戦うだけ。

 勝てる希望に縋っているわけじゃない。負ける絶望から目を背けているわけじゃない。

 屈しないために戦う。

 わたしはこんなやつに膝をついたりしない。

 わたしはこんなやつに頭を下げたりしない。 

 諦めないのは、信念のためで勝利のためじゃないんだ!


 それに負け戦じゃない。


 たしかにわたしもクワルツさんも魔女の手に落ちてしまっているけど、最終的にこっちが有利だ。

 【破魂】の素材も媒介もインクも、先生の手に渡っている。

 隕鉄のクリス・ダガーがあれば、もうひとつ【破魂】を作れるんだ。

 慢心しているオプシディエンヌの裏をかくことが出来る。

 わたしの口許が、緩んだ。 


「………奥の手でもあるの?」


 白と黒の双眸が、わたしを見据えている。

 絶世の美貌から、余裕とか笑みとかがすべてはぎ取られていた。何故?

「【破魂】を作る素材があるのね? オニクスは手に入れたのね?」

 ふへっ? まさか【読心】された?

 いや、闇魔術をかけられた感覚はない。

 単純にわたしの表情で、察したのか。

 こいつ察しが良すぎるぞ!


「ミヌレ! どこにいる!」


 暗黒の世界に、オニクス先生の叫びが谺する。

 オプシディエンヌの美貌が険を帯びた。

「許さないわ、オニクス。国が亡びようと、世界が終わろうと、時間が終焉しようと、妾の魂は毀させない」

 爆発的に魔力が高まる。

 何をする気だ。

 わたしが先生に呼び掛けようとした瞬間、クワルツさんに口を塞がれた。


「汝は何か? 連綿たる風、途切れぬ水、涅槃の火、絶えず吹かれて流浪する砂、留まること知らぬ一粒のいのち。いずこへゆくか、その問いに答えは在らず」


 今まで一度も詠唱していなかったオプシディエンヌが、呪文を紡いでいる。

 皮膚が粟立つ。

 この魔術は、攻撃でもない。

 防御でも治癒でも移動でもない。なににも当てはまらない感覚が、脳に襲い掛かってくる。


「太陽は昇りて短針を運び、月が沈みて長針を進める」

 

 オプシディエンヌの胸元を飾る金線細工が繙け、蜘蛛の糸のように広がっていく。

 あれは黄泉蜘蛛の糸か。

  

「不死鳥の羽ばたきは影を生み、炎を散らす。影と火は等しく汝が孕むもの」


 闇が大きくうねっている。

 そのうねりがオニクス先生に絡みつく。先生のかたちまで歪んだ。

 物理的なものじゃない。

 オプシディエンヌの紡いでいる魔術が、空間をそのものを歪めているんだ。

 これは空間だけじゃない。

 時間もだ。

 わたしが時魔術【遡行】を使ったときの感覚に似ている。


「漂え、流れよ、揺蕩え、流離え、汝の不朽を知らしめるために! 【時空漂流】」


 呪文の末尾が結ばれて、時空が大きく揺らめいた。


「愛しいオニクス。あなたがどこの時空間に飛ばされるか、妾にも分からないわ。でも二度と、あなたが妾を殺せることはないの。永遠のさよならよ。死ぬまでの僅かな時間、絶望をたっぷり味わってね」

「オプシディエンヌ……っ」 

 オニクス先生は歯を食いしばり、時空の歪みに抵抗している。だけど歪みが世界を侵食していく。

 もう声も音も歪んで聞こえない。

 先生が消えてしまう。

 時の果てに飛ばされてしまう。

 賢者連盟に拉致された時も、わたしから立ち去った時も、同じ空の下だった。地続きだった。けど時間さえ飛んでしまったら、どう探せばいい?

 涙が溢れる。

 行動できない己の不甲斐なさに、涙が零れて、頬を伝って落ちる。

「ふふ。別れの言葉を言わせてあげましょうか?」

 オプシディエンヌの嘲笑と共に、クワルツさんの手が離れる。

「……別れの言葉なんて必要ない!」

 顔を上げ、魔女を睨む。  


「時間が離れていてもクエスト難易度が上がっただけ! わたしが諦めることはありません!」


 オプシディエンヌは嘆息する。

「威勢がいいわね。自分に不可能はないと思っているのかしら? あなたほどの魔力なら万能感も当然でしょうけど、それは幻想よ。あなたの未来は、妾の手の中なの」

「幻想じゃない! おまえの与える未来もいらない!」

  

「ミヌレくん……」 

 クワルツさんの静かな声が、耳朶に触れた。

 水滴の音に紛れて散ってしまうほどの小声だった。

 見上げてみれば、いつもの優しい眼差しになっていた。

 もしかして正気に戻っている……?

「吾輩は『彼女(きみ)』から、ミヌレくんを託されていたのだ……」

 『夢魔の女王』から?

 クワルツさんと未来のわたしがどんな言葉を交わしたのか、わたしは知らない。だけど未来のわたしは、クワルツさんのこころの深いところに言葉を残したみたいだった。

「未来のきみでもなく、幻想のきみでもなく、今ここに生きているきみを助ける。そのために吾輩は、因果律に居る」

 刹那、クワルツさんが大きく跳ねて、オプシディエンヌから間合いを取る。水晶みたいな指先が、わたしを戒めていたリボンを解いた。

 皮膚接触による魔力解除だ。

 わたしの手足が、解放された。

 自由だ!

「ハッピーエンドにしてみせるという心意気、吾輩は信じよう」

「はいっ!」

 わたしは歪みに呑み込まれている先生へと駆け寄る。


「お待ちなさい、妾のお人形!」


 オプシディエンヌの声が轟く。

 蜘蛛の糸がわたしを絡め取ろうと、迫ってきた。

 クワルツさんが遮り、糸を弾く。

「水月鏡像の孤影とは吾輩のこと! 怪盗クワルツ・ド・ロッシュ見参!」

 朗々と宣誓し、オプシディエンヌの糸を皮膚接触で解呪する。

 クワルツさんが防いでくれている時間を、無駄にしちゃだめだ。

 わたしが成すべきことは、時空の歪みに干渉すること。

 霊視のおかげで構成が視える。

 

「『オリハルコン賛歌』……」

 

 魔術構成は、『オリハルコン賛歌』に似ていた。

 千年前の魔術も現代の魔術も、魔力を紡いで織るという根本は変わらない。

 古代魔術は糸に魔力を付与して絨毯として織られ、現代魔術は言葉に魔力を付与して空間に織りなされる。

 根源はいっしょ。

 わたしなら断ち切れる。

 時魔術はまだ完全発動していない。

 すでに構築は完成されているけど、効果が発揮されていない。

 阻害しなくちゃ。

 なんでもいい、不発を狙って、いや、もう最悪、暴発させてもいい。わたしの魔力で干渉しよう。

 ラーヴさまから教わった巻き戻しの時魔術を構築することで、この魔術を相殺できないか? 


「妾の邪魔するなんて、悪い子ね」 

 次の瞬間、オプシディエンヌから繰り出されたのは捕捉の糸でなく、切り裂くための糸。

 クワルツさんは弾く。皮膚が切り裂かれて、血飛沫が舞っていく。それでも弾く。

 仮面さえ砕ける。

 血まみれの素顔で、糸を弾いていった。

「ジャスプ・ソンガン」

 オプシディエンヌの囁きで、人影が降ってくる。

「久しぶりだな。曲芸師」

 クワルツさんの声に、ジャスプ・ソンガンさんは何も答えない。

 無言と無音のまま組み合う。


 

 蜘蛛の糸が、虚空に鳴いた。

 この音の鋭さは、切り裂くための糸だ。

 あの魔女、まさかジャスプ・ソンガンさんごと切り裂くつもりか!

「だめ! クワルツさんッ! 逃げて!」 

 

 刹那。

 

 クワルツさんの四肢と胴が、糸に切り裂かれた。

 


 クワルツさんも、ジャスプ・ソンガンさんも、分け隔てなく糸は蹂躙していった。

 後家蜘蛛が黒揚羽を蹂躙するように、容易く切られ、裂かれ、千切れていく。

 ふたりぶんの血が、肉が、腕が、指が、腸が、まき散らされる。

 振り向いたクワルツさんは、笑っていた。

 水晶のように透明な笑みだ。

「ハッピーエンドの前に退場するのは名残惜しいが……さよならだ」


「クワルツさんッ!」


 わたしは組みかけた魔術を手放してしまう。

 時空の歪みが頂点に達し、わたしと先生は空虚に吸い込まれていった。


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