第十三話(前編) 世界でいちばん邪悪な蟲
レースを揺らして、プラティーヌは踊るように入ってくる。
肉体は王族プラティーヌだけど、魂は魔女オプシディエンヌ。
諸悪の根源だ。
こいつが近寄ってきたから先生は闇の教団なんてもの設立して罪を加速させたし、今も死に向かって歩いている。この女さえいなかったら、先生は自由に生きていたはずなのに。
「……オプシディエンヌ」
オニクス先生の呟きは、ひどく熱っぽかった。
先生の顔を見上げる。
どうしてそんな表情しているの?
わたしに見せる本音は後悔や悲哀ばかりなのに、どうしてそこにいるプラティーヌには嬉しそうな顔をするの?
この魔女こそ、災いの火種なのに。
先生を罪深さに誘った毒婦なのに。
嫉妬に呑み込まれそうになった刹那、わたしの視界の端でレースの煌めく。
幾重にも揺れる精緻なレース。
ついさっき中庭にいた時は、宮廷の正式なドレスだった。今のドレスと違う。
ドレープが長く裾引く宮廷ドレスも、この目の前で揺れているレースのドレスも、簡単に着替えられる衣装じゃない。そもそも王族って着替える時間が決まっているはずだ。
「あなた、偽物?」
わたしの問いかけに、プラティーヌは唇だけで笑みのかたちを描く。
「あら、面白いこと言うのね」
「ドレスが違うもの」
「着眼点は素敵よ」
プラティーヌが呟いた瞬間、ドレスのレースが風もないのに大きく翻る。
まずい。
脳内の警鐘が響き渡る。
何か起こる前に、プラティーヌを取り押さえなくちゃ。
わたしは四つ足を駆けさせた。
額を狙って、蹄を振り被る。
だがレースが生き物みたいに蠢いた。
刹那のうちにレースの糸が解けて、緩み、繙け、撓み、広がり、編まれ、わたしへと襲い掛かる。
「ミヌレっ!」
先生はわたしを突き飛ばす。
代わりに絡めとられるオニクス先生。
だけど糸は、先生を絡め取っても勢いが衰えやしない。
貪欲に襲い掛かってきて、わたしまで捕捉する。
そのまま糸は蔓延っていき、武器展示室に白銀が満ちた。
何百年も蜘蛛の巣であったように、床から天井からすべてに糸が行き渡っている。
まさかプラティーヌの纏っているレース、全部、【蜘蛛】の糸?
【蜘蛛】の糸は術者の体液を使用しているから、一度に放出できる量に限りがある。
だからあらかじめ紡いで、レースにしておいたのか。魔力の糸は長時間維持できないのに、どうやって保っているんだ。錬金薬で安定させているのか、何か核があるのか、それともまた別の魔術で保護しているのか?
襲ってくる糸は、洪水じみていた。
好奇心のまま思考している暇はない。
純白の糸はわたしの四肢を絡みつき、先生の詠唱も封じ込める。
糸は口まで塞ごうとしたけど、わたしの唇は魔術を破る。わたしの口を塞ぐことができるのは、ラーヴさまくらいだ。
唇から糸が離れる。
魔力が霧散して、白銀の糸が散った。
これはプラティーヌの髪か? 髪を媒介にして、【蜘蛛】の糸を安定させて長期維持しているのか?
構築発動して物理化したあとの魔術に、さらに媒介処理?
どうやってるのか理屈はさっぱり分からんけど、とにかくそんな感じだろう。
手首に纏わりついているのも、キスで解除しなくちゃ。
唇で糸を散らす。
途端に、新しい糸が巻き付いてくる。
キリが無ェ! プラティーヌの糸が早すぎるんだよ!
クワルツさんが以前やったみたいに、皮膚接触で魔力を滅せないか?
経絡に魔力を込めたけど、無駄だった。
うん。魔法は真似してできるってわけじゃねぇからな。
足掻き続けるわたしなど歯牙にもかけず、プラティーヌは嫋やかに歩む。わたしに一瞥もくれず、先生へと近づいていった。王族的な気品と美しさだ。
腹が立つけど、間違いなくプラティーヌは優美だった。
自分の肺腑の輪郭が分かるくらい苛立つのに、この女の纏う美に屈してしまいそうになる。
「愛しいオニクス、やっと会いに来てくれて嬉しいわ。懐かしい衣装ね」
闇の教団時代の衣装に、プラティーヌの唇は微笑む。
わたしにとって目新しい恰好だけど、この女にとっては馴染みの恰好なんだ。
「あの頃、妾はあなたにとって女神で、妾にとってあなたは神官だった。とても幸せだったわ。あなたの前ではずっと女神でいたかったし、女神だったはずなのに、妾の何が不満だったの?」
レースの扇を翻すと、先生の口許から糸が解けた。
「不満だと! オプシディエンヌ! どうして私がありながら、他の人間のために時間を費やすのだ。他の人間を寝所に引き込むのも、誉めそやすのも私にとって苦痛でしかない!」
寝所うんぬんは頷けるけど、他の人間を褒めちゃ嫌って……
わがままじゃね?
「わがままね」
あっ、プラティーヌなんかと感想が合致しちゃった。
むかつく。
「我儘? きみだけが私の唯一で、私のすべてだったのに! 私をその他大勢と一緒にするな!」
「あなたは特別に可愛かったし、可愛がってあげたわ。でも妾はみんな好きなの。どれだけたくさん子供がいても、母親が深く愛するように、妾はあなたを愛したのに」
「そんな愛は要らん!」
泣き声みたいな絶叫だった。
「なら妾から離れれば良かったのよ。賢者連盟の討伐のどさくさで妾の首を刎ねるなんて、困ったひとね」
「憎んでいる……だが、愛している」
「……ほんとうに困ったひと。でも素直だわ。そういうところが愛しいの」
プラティーヌが手を伸ばして、先生の頬に触れる。
何をするか察して、わたしは顔をそむけた。予知を持っていなくても予想できる。
顔を逸らして、目を瞑っても、鼓膜に届く口づけの音。
ふたりぶんの吐息。
魂が打擲されている気分だった。
「愛しいオニクス。あなたに魔法をかけたりしないわよ。あなたはあなたのまま、妾への恋慕も憎悪も憧憬も後悔も崇拝も殺意も欲情も独占欲もなにひとつ損なわずに、王族暗殺未遂として八つ裂きにされるの」
「私が死ぬのは、きみを殺した後だ」
殺意を込めた睦言に、プラティーヌは鈴を転がしたように笑う。
蜘蛛の巣に響く笑い声。
無垢で、邪悪で、とびきり可憐な笑い方。
だけどいい事を聞いた。
プラティーヌは先生の死を望んでいるんじゃない。望みは破滅。
屈辱に満ちた破滅に誘いたいんだ。
今ここで殺してしまっては、その望みが敵わない。
わたしのことも、きっと殺しはしない。プラティーヌにとってわたしという生き物は、オパール化した竜骨より、植物の幽霊より、はるかに貴重な素材なんだから。
「妾を殺したいならあなたは迂闊すぎるわ、オニクス。昼間っからあなたが現れるとは思わなかったけど、原因はこの小役人ね」
足元に転がっているストラスのことだ。
まだ気絶している。
「ひどいわ。妾があなたを破滅させたかったのに、あなたはこの小さな女の子ために危険を犯して破滅するのね」
わたしのせい。
肩を震わせると、プラティーヌからの笑いが降ってきた。
「オニクス。見過ごした方が良かったんじゃないかしら。そしたらあなたがどれだけ床上手なのか、この子も理解できるでしょう」
「横領役人の所業を知っていながら、放置していたのか。きみは魂が腐り果てているな」
「その腐った魂にキスされて喜んでいるのは、あなたでしょう」
「否定はせん」
しろよ。
「そういえばこの子、御者の男の子に抱かれたんだから、あなたの床上手さは理解していたわよね。ごめんなさい」
アァアア?
確定情報みたい嘘つくんじゃねェエエエエッ!
フォシルはそこまでクズじゃねぇよ!
このクソ女、先生に疑心暗鬼を植え付けてやがる。許せねぇ。
「魔力を封印されて、御者の男の子に監禁されたのよ。きっと情熱的な夜だったでしょうね」
「すぐに抜け出した」
端的な真実だったけど、扇の下から嗤いが漏れる。
「オニクスったら、意外に純真なのかしら。それとも無事だって信じたいだけ? そんなおめでたい結末を信じてるの?」
おめでたい結末だったんだよ、ボケ。
この女の言葉を吐く器官、唇から舌から喉から肺腑から横隔膜に至るまで、すべてわたしの偶蹄で挽き肉してやろうか。
だけど反論は投げつけられなかった。
だって、わたしは、呪文を詠唱しているから。
「飛べよ、翼が有るが如くに、雲を得た如くに」
プラティーヌが気づいたときには、もう遅い。
さっき先生が突き飛ばすと同時に、わたしのスカートのポケットに滑り込ませた呪符がひとつ。
風属性移動系【飛翔】だ。
雪の大山脈で、わたしから奪っていった呪符だ。
きっとわたしを逃がすために、エストックを抜くより詠唱するよりも優先して返してくれたんだろう。
だけど生憎、【飛翔】に指定した対象は、わたしでも先生でもない。
この武器展示室にある、すべての武器だ。
「【飛翔】!」
ハルバードが、ジャベリンが、レイピアが、ランスが、短剣が、盾が、一斉に糸を断ち切った。
刃たちの照準は、プラティーヌだ。
喰らえ! 【飛翔】が放つ萬の刃を!




