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第12章 葡萄の枝-1 最後の夏

 子猫の頃、フリスキーは、元気に跳ね回っていたそうだ。

それでフリスキー(Frisky)の名前が付いたと聞いている。


 フリスキーが三歳になる前に、私たち夫婦はフリスキーに出会った。

外猫だったフリスキーは、野や丘でその勤めを果たした後、十歳で退職する。

退職後は、完全家猫として気楽な老後を送っていた。

そうして、春に十六歳になったフリスキーは、最後の夏を迎えた。


 猫の寿命は、十五年程と言われている。

最近は、十五歳を超える長寿猫も増えているらしい。

私の知り合いの完全家猫は、二十年以上生きたそうだ。

うらやましく思う。


 さて、フリスキーは、タイニーが糖尿病になる前から痩せ始めていた。

「外猫だったので衰えるのも早いのでは」と、餌や水にも気を付けたりする。

フリスキーは、老猫が掛かりやすい腎不全になっていたかもしれない。

何度か具合が悪くなったけれど、その度に持ち直していた。


 それでも気力は、若い衆(ロマノフ、ハプスブルグ、レディジェーン)とほとんど変わらない。

年は取っていても、元気に動く。

ただ、もうレディジェーンとは遊ばなくなっていた。


 フリスキーは、前年の秋に生まれたティーの子犬たちを、長老のごとく見守り、

ワンパク坊主たちにひるむことなく、

平常心で、一階と二階を好きなように行き来していた。

食欲も旺盛だった。


 毎朝、私は、犬たちを用足しのために外へ出す。

そして、戻ってきた犬たちの足を拭いて中に入れる。

するとフリスキーは、ドアの横のシルバーチェストの上に乗って、

犬たちの足を拭いている私の頭を、ちょいちょいと引っ掻く。

そして、「ニャー」と一声あげて、空腹を訴える。

「はいはい、分かってます」と言って、私は、フリスキーのための猫の缶詰を開ける。


 猫缶は、ミスティーやタイニーにも分けていた。

タイニーは、前年の九月、ミスティーは、この年の四月に死んでいる。

もう、分けることもない。


 それなのに、猫缶を開ける度に、ふっと、階段の方に目をやってしまう。

少し前まで、タイニーが、その踊り場の格子の間からこちらを覗き、手を出して催促していた。

ミスティーも、台所のアイランドの上に乗って、ウロウロしながら、おすそ分けを待っていた。

具合が悪くなったのはフリスキーが先だったのに、

フリスキーの方が長く生きていた。


 フリスキーには、もっと長生きしてもらいたいのだけれど、気がかりなことがあった。

年齢と共に、ますますブラッシングが難しくなっていたのだ。

フリスキーの毛は、毛玉が出来やすい。

毛玉を切り取っている内に、私は、何度もフリスキーの皮膚を傷つけてしまった。

もうこれ以上、私が処理するのは無理らしい。

その毛は、まるで柔らかい糊でも付いているみたいだ。


 以前、猫アレルギーで辛い思いをしていたティムなのに、フリスキーだけは大丈夫だった。

猫アレルギーは、体毛と皮屑ひせつに反応するのだそうだ。

ところが、フリスキーの場合、その下毛に皮屑を封じ込め、毛玉と共に取っていた。

そうしている内に、ティムの免疫力は高まっていった。

皮肉なことに、今は、その毛玉がフリスキーにとって仇となっている。


 私は、ペギーにフリスキーの毛玉を切ってもらうことにした。

毎夏、うちの長毛三猫たちは、丸刈りをしてもらう。

特にフリスキーは、頻繁にペギーのお世話になっていた。


 ペギーは、フリスキーの皮膚が薄くなりすぎているので、刃物をあてるのは危険だと言う。

もし、うっかり、太い血管を傷つけてしまえば、数秒で死に至るのだそうだ。

脇の下の皮膚は、向こうが透けてしまうほど薄くなっている。

それは痩せているからではなく、太っていても薄かったりするらしい。

とにかく、もう、フリスキーの毛を刈ることは出来ない。


 フリスキーは、この最後の丸刈りの後も、気持ち良さそうだった。

ただ、私が付けてしまった皮膚の傷跡は見るに忍びない。

しかも、ミイラの様に痩せていた。

私はティムに、「フリスキーは今年の冬は越せないかも」と言った。


 その後、フリスキーは、どんどん痩せていく。

そして、せんべいが足を付けて歩いているみたいになってしまった。

それなのに、具合が悪そうには見えない。

私は、フリスキーは「このまま生き続けるのかも」とさえ思った。


 それでも、フリスキーの、一回に食べる量は少なくなっていた。

少し食べると、後は残してしまう。

すると、レディジェーンやロマノフがやって来て、残りを食べてしまう。


 食い意地の張ったロマノフは、犬たちに気付かれない様に、音もなくやって来る。

いつもは、どすどすと音を立てて歩いているのに、まるで忍者のようだ。

私は、突然に現れたロマノフに、びっくりする事がしばしばだった。


 ところが、フリスキーは、すぐまた戻って来て、「お腹がすいた!」と催促する。

仕方が無いので、皿に餌を少しづつ乗せて、数回に分けてやる事にした。

しかし、これには手間と時間が掛かる。

こんな調子が、まだまだ続くのかと思っていたら、

終わりは、また突然にやってきた。


 七月の最後の月曜日、いつものように、犬たちは、自分の足を拭いてもらう。

それなのに、フリスキーは、私の頭を引っ掻かなかった。

もう、食欲がないらしい。

それで、シルバーチェストの上に寝床を準備し、そこにフリスキーを寝かせ、

ヒートパットを下半身の方に敷いてやった。

そこは、フリスキーがいつも座っていた場所だ。

用足しは、まだ自分で行けるので、砂箱があった所にペットシートを敷いた。


 火曜日は、ツナ缶のジュースをお皿に入れて与えた。

あれほど好きだったのに、ちょっと嘗めるだけだ。

喉が渇くのか、水は飲む。

足取りは、どんどん弱くなっていくので、

夜中に用足しに行った後、戻れなくては困るだろうと、そこにペット用階段を置く。

それから私たちは、犬たちを二階のベッドルームに連れて行き、ドアを閉めた。


 水曜日の朝早く、ティムがベッドルームのドアを開けると、

ドアの外で、横になっているフリスキーを見つけた。

私たちの所に来ようと、階段を上って来たらしい。

私は、フリスキーが、最後のお別れに来たのかもしれないと思った。

ティムは、フリスキーをベッドの上に横にならせ、仕事へ出かけた。


 フリスキーは、私たちのベッドの上もお気に入りだった。

そこは、お日様がさんさんと降り注ぐ。

フリスキーは、私の枕の上で昼寝をするのも好きだ。

朝早く、まだ私が寝ている枕の上で、丸くなったりもしていた。

それで、猫毛対策のため、私は起きると、いつも自分の枕を別の所へ置いていた。


 しばらくの間、私は、ベッドの上でフリスキーをなでながら、体を温めてやり、

それから、一階に連れて行った。

その日は一日中、フリスキーの傍で時を過ごす事にした。

外は天気が良く、ブラックコットンウッドの葉が、さわさわと音を立てている。


 昼過ぎ、小さな音が聞こえる。

耳を澄ますと、フリスキーが、かすかにゴロゴロと喉を鳴らしていた。

そして、嬉しい時にいつも出す、あの鈴のような音も聞こえる。

私はフリスキーに、「そう、嬉しいのね」と言った。


 午後になり、寝ているフリスキーは、前足をかすかに動かす。

夢を見ているのかもしれない。

そして目を覚ますと、よろよろと歩いて用足しに行く。

もうほとんど立つことさえ難しい。

抱いてやると、羽のように軽い。


 午後五時、フリスキーは、もう水も飲まなくなった。

目はうつろに開いたままだ。

そして私が席を立とうとすると「行かないで」とでも言うように、頭を上げて小さく鳴く。

私は、フリスキーをなだめながら再び座る。

するとフリスキーは、安心したように静かになった。


 再び、フリスキーは用足しに行きたいらしく、起きようとする。

もう、ほとんど立てない。

あわてて支えると、私のエプロンの上に排尿した。

汚れたフリスキーの体を丁寧に拭いてやる。

それが最後の排尿となった。


 それからは、もう動かなくなってしまった。

たまに、「ヒーッ」と声を上げる。

薄くなった体では、長時間横になると、息をしにくいらしい。

寝返りを打たせたり、枕の高さを時々変えて、できるだけ楽にしてやる。


 私はウッドデッキに出て、フリスキーが、もう二度と見ることのない夕日を眺めた。

夏の日暮れは遅い。

その日の夕焼けは、穏やかだった。


 夜九時四十一分、突然「バタン!」と、大きな音をたてて、フリスキーが動いた。

それから、グーッと伸びをすると、息を止めてしまった。

四十三分、波打っていた心臓の鼓動も止まる。

それが、フリスキーの最後の一日だった。


 翌朝、私は、いつものように、ティムの朝食のプレーンオムレツを作り、

犬たちの分も取り分ける。

フリスキーも卵が好きだった。

癖になっていたから、フリスキーの分も、うっかり、小皿にのせてしまった。

その小皿をじっと見つめる。

朝、枕をベッドから除く癖も、しばらくは直らなかった。


 ティムは、すぐにはフリスキーを埋める気になれないと言う。

それで、ガレージのフリーザーを空にし、

ティムの気が済むまで、そこにフリスキーを入れることにした。

八月も半分が過ぎ、やっとティムは、フリスキーを埋める気になった。


 フリスキーを出すと、「たった今死んだ」と思える姿だった。

それでも、その間に、庭の葡萄の実はだいぶ膨らんでいた。

私たちは、まだ青いその葡萄の実と、緑の葉がたくさん付いた葡萄の枝で、

フリスキーの体を覆ってやった。

それから麻布で包み、ティムが布の縁を糸でかがった。

その上にラベンダーの花を添えると、タイニーとミスティーの横に埋めた。


 夏は終わり、秋も深まり、時は過ぎていく。

ブラックコットンウッドの木は、再び、鮮やかなゴールデンカラーに変わった。

風が吹くと、その手の平くらいの大きさの葉は、はらはらと、ぼたん雪が降るように落ちてくる。


 「フリスキーを抱きたいね」と、ティムがぽつんと言った。

落ちていく葉を見ていた私は、その時、胸がすーっと静かになるのを感じた。

そして「私もよ」と、答えた。

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