第1章 Frisky-1 出会い
"Could you keep Frisky?"
「フリスキーを飼ってくれませんか。」
オレンジ色の猫、名前はフリスキー。
フリスキーは、古い小さな家のおまけだった。
私たち夫婦がフリスキーの世話を頼まれたのは、
その家に引っ越して来る数日前のことだ。
それまでそこに住んでいたフリスキーの飼い主は、猫を連れて行けない。
季節は冬、それはまだ寒い1月下旬だった。
フリスキーは、そこで外猫として近所の人達とも仲良く暮らしている。
私たちがそのままフリスキーを飼い続ければ、
この哀れな猫は主人を失っても、その住みかまで失わなくてすむ。
それに猫は、家に付くと言うではないか。
ところが私の夫ティムには猫アレルギーがある。
その症状が出ると、目はかゆみと共に真っ赤になり、鼻水は滝のごとく流れ出る。
だから私たちは、それまで猫を飼うなんて考えてもみなかった。
とにかく、私たちがフリスキーを引き取らなければならない訳ではない。
飼い主が急にペットを飼えなくなるなんて珍しい話ではないし、
どこかよそで引き取ってもらい、そこで可愛がられるかもしれない。
などと考えてみるのだけれど、もし引き取り手が見つからなければ、
フリスキーは、動物保護センターへ連れて行かれて殺処分されるかもしれない。
結局ティムは、渋い顔をしたもののフリスキーを引き取ることにした。
外猫だし、単に餌と水をやるだけだから、たいした事ではない。
と、安易に考えたのだった。
そう、この時のこの決定が私たちの生活を変え、
十数匹にもなる、様々な過去を持つ猫や犬たちと関わる事になってしまうとは、
夢にも思っていなかった。
人生は、ちょっとした事で別の道へと行ってまうものらしい。
それだから面白い、とも言える。
さて、私たち夫婦はアメリカ合衆国のシアトルの近くに住んでいる。
私たちが入居したその古い小さな家は、ごく普通の住宅街にあり、
公園と道を挟んだT字路の角に、こじんまりと建っていた。
家の前庭にはライラックとりんごの古木、前庭の角には野ばら、
横の道沿いには、中途半端に切れた垣根と何本かの木が植えられていた。
そしてその木々には、春になると枯れたような茶色の小さな実がたくさん生る。
その実は次第に、だいだい色に変わり、最後には南天のように真っ赤に染まる。
赤い実は、緑の葉と共に夏の終わりのさわやかな青い空に良く映える。
秋が深まると、それらの実は赤いまま地面に落ちる。
落ち葉の上に赤いビーズでも散らばったかの様になる。
裏庭には、りんご、洋なし、チェリー、プラム、ヘーゼルナッツの木々が植えられていた。
この庭は、木陰で昼寝をするフリスキーだけでなく、
果物を食べに来る、野生の鳥や動物たちにしても魅力的だ。
それにしても私たちが移り住んだのは変な家だった。
もともとは七面鳥を飼っていた小屋だったそうだ。
家畜小屋にしては、しっかり建てられている。
近所には築百年以上の古い家があるので、
この家も、かつてはその家に住んでいた人々が建てたのかもしれない。
時代が変わっていく中で、この家は三回も建増され、様々な家族が住んだそうだ。
裏ドアに向かう廊下には、洗濯用の大きな二層のシンクがある。
洗濯機がまだ一般に普及していなかった頃に作られたらしい。
その上には、子供部屋として使われたらしい落書きの残っている屋根裏部屋があり、
第二次世界大戦後に、戦場から戻って来た息子が、
自分のベッドルームが出来るまでそこで寝ていた、とも聞いたので、
裏の小さなベッドルームが出来て六十年以上経つと思われる。
しかも表のリビングルームは変に横長い。
左右の角に、窓がL字型に二つずつ付いている。
しかも、それらの窓は開かない。
だから空気の入れ替えには玄関のドアを開けるしかない。
それでも私たちは、黒い鉄製の薪ストーブや古い樫の木の床を気に入っていた。
それに、その開かない窓からは、
向かいの家の前庭にそびえ立つ大きなダグラスファー(もみの木)を見上げる事が出来た。
小雨や霧で煙ったような日は、
この木の緑の葉が水をいっぱいに吸って生き生きとしてくる。
今にも動き出しそうだ。
そのもみの木の二件先の家には、園芸を好きな年配の夫婦が住んでいて、
そこには、いつも色鮮やかな季節の花々が植えられていた。
フリスキーはここの庭も好きらしく、そこの奥さんが、
「良く来てますよー」と、にこやかに言って下さる。
さらに私たちの変なリビングルームの奥にある台所も、やっぱり変だった。
昔はそこに、「赤毛のアン」に出てきそうな、煮炊きする台所用薪ストーブがあったらしい。
とにかく、その中途半端な広さと、ドアの位置が災いして、
電化製品の豊富な現代生活とはマッチせず使い勝手が悪い。
それに古めかしい収納棚も取り付けてあって、
カウンターの真ん中には、これまた時代物のシンクがあり、
両側には、変な緑色のタイルが張られていた。
そのシンクの上の小さな窓と、キッチン・ヌック(朝食用の簡単なテーブルのある場所)にある大きな窓からは、道を挟んで公園が見える。
公園にはテニスコートと、子供たちが練習できるサッカーグランドがあり、
緑の芝生が広がっている。
夏には、その方から気持ちの良い風が吹いて来るので、
木に囲まれたこの家は、クーラーが無くても十分に涼しい。
他にも変な所はたくさんある家だけれど、
私は、料理をしながらこの小さな窓から見える、緑豊かな広々とした景色がとても好きだった。
たとえ冬でも、晴れた日には、
公園の向こう側にある背の高い木々が、
まるで美しい貴婦人のように、緑の芝生のじゅうたんの上に、その長い影を落としていた。
そんな家の回りを自由に行き来するフリスキーは、裏の古い物置小屋の中で寝泊りする。
物置小屋の小さい方の部屋に入ると、
可愛い窓の下にフリスキーのベッドが置いてあった。
小さなロフトもあり、まるで開拓小屋のようだ。
物置だから、いろんなものがごちゃごちゃと置かれているのだけれど、
それがまた秘密の隠れ家のような雰囲気をかもし出している。
ところでフリスキーは、とてもシャイな猫だった。
お客様があると、その日どころか二〜三日は姿を見せなくなる。
始めは、いなくなったのかと思ってしまった。
それでも餌は減っていた。
フリスキーは、まだそこにいると思うのだけれど、
前の飼い主から、近所の犬がフリスキーの餌を食べたりすると聞いていたし、
狸やオポッサムまで出てくる。
果たして、フリスキーが食べていたかどうか定かではない。
実際、オポッサム(フクロネズミ)がフリスキーの餌を食べているのを何度か目撃した。(彼らは動きがニブイ)
当然、フリスキーの世話は猫アレルギーのない私がする事になった。
とは言えフリスキーは、私よりティムの方が好きなのだ。
そのティムの優しい声が気に入ったらしい。
ところが入居してすぐにティムは風邪を引き、声を嗄らてしまった。
そうとは知らないフリスキーは、ティムを見かけるや否や、
ポンポーンと駆け寄っていく。
ティムは元々動物が好きだし、猫アレルギーがあるとは言え、
そうやって来られると、まんざら悪い気はしない。
ティムは「フリスキー」と言って、頭にそっと触る。
その手の感触と匂いは、確かにティムなのに、声はガラガラだ。
フリスキーは、
"Are you really my master?″ (あなたは、本当に私のご主人様なの?)
とでも言わんばかりに困惑する。
そのしかめっ面と戸惑いは、可愛らしくて滑稽だ。
せっせと世話をする私。
なるべくなら、かかわりたくないティム。
それでもティムに可愛がってもらいたいフリスキー。
このようにして、私たちの新しい生活が始まった。